再生への物語 ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟

欧州の地政学上の脅威はロシアであり、欧州はロシアという対立項によって、ロシアとの関連性において存立しているとも言えます。一方ロシアは西欧(特にフランス)への強い憧憬を持っていました。このことは例えば、ドストエフスキーの小説の中に出てくる登場人物達の言葉の端々にも現れています。かつてツァーの独裁体制下にあったロシアは西欧が経験したルネッサンスも宗教改革も経験することはありませんでした。西欧の教養は18世紀に至ってリベラリズム、ナショナリズム、ソシアリズムといった政治思想として結実していったのですが、そうした西欧の思想がロシアに入ってきたのは19世紀半ばでした。やがて時が経つにつれ、ロシアの知識層は、自己の教養が外来品であること、ロシアの土地に純粋に育ったものではないという意識に苛まれました。ヨーロッパを知るためにはロシアを知る必要があるでしょうし、その逆も然りです。(日本を知るためには中国や韓国との間の歴史を知る(実はこのことがなかなか難しいのですが)必要があるのと同じでしょう。)

ロシアという土壌は19世紀にドストエフスキーを生みました。ドストエフスキーの『罪と罰』で、高利貸しの老婆とその女中を斧で殺害したラスコーリニコフは流刑地シベリアの監獄病院で夢を見ます。それはアジアの奥地で発生しヨーロッパへと向かった前代未聞の恐ろしい疫病がやがて世界の人々に感染し、破滅させていくという夢でした。その病原体は繊毛虫のような微生物で、「知恵と意志を与えられた聖霊」でした。これに取りつかれた人間はたちまち魔物に魅入られたように興奮し発狂して、しかも自分は誰よりも聡明で誰よりも真理を手にしていると主張して譲らぬという病状を顕わすようになります。人々は互いに理解し合うことがかなわず、不安に襲われ、やがて意味のない憎悪に囚われて殺し合うようになります。軍隊が出動しますが進軍の途上で罹病し、殺戮を始めます。疫病は益々栄え、益々広がり、世界中でこの災厄を免れたのはほんの数人で、新しい種族と新しい生活を創造し地上を一掃して浄化する使命を帯びた、清らかな、選ばれた人々でしたが、誰一人、どこにもそうした人々を見た者はおらず、また誰一人、彼らの言葉や声を聞いた人もいないのでした。夢はここで終わっています。この病原菌こそは「エゴ」という名で読み替えてもよいでしょう(ドストエフスキーはそのように名指していませんが)。エゴという病原菌に冒された虱のような人間。卑劣で臆病な取るに足らないエゴという病原体を宿す人間。世の中の不義、憎悪、紛争はエゴという病原体に冒されそれを宿す人間によって引き起こされる。罪人ラスコーリニコフが見た夢は今の世界の状況の戯画であるように思います。

『罪と罰』をはじめ、ドストエフスキーの小説には鬱々としたエネルギーが漲り、暴力的な緊張が張り詰めています。ロシア文学を初めて西欧に紹介したフランスの外交官であり作家であったユージュエンヌ・ヴォギュエがかつてドストエフスキーの小説を「不安な途轍もない作品」と評している通り、読む者は圧倒的なエネルギーに打たれます。ドストエフスキーについては多くの専門家が多くの分析や評論を今も出し続けていますが、この作家がいまだに解読できない大きな謎と現代に通じる真理を提示し続けているからでしょう。ドストエフスキーの大海原のような小説群を貫いているテーマの一つは「キリスト」という存在でした。キリストは一種の概念的存在としていつからかドストエフスキーの傍らに常に佇むようになりました。小林秀雄による卓越した評論、『ドストエフスキーの生活』によれば、ドストエフスキーの死後発見された手帳に中に、晩年の彼は4つの事柄を書く計画であったのですが、その一つはイエス・キリストに関する一書を書くこと、でした。ドストエフスキーがある夫人に宛てた手紙の中で、次のように書いたくだりがあります。「…つまり、次の様に信じることなのです、キリストよりも美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。実際、僕は妬ましい程の愛情で独語するのです。そんなものが他にある筈がないのだ、と。そればかりではない、たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、又、事実、真理はキリストの裡にはないとしても、僕は真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです」と。この言葉は小説『悪霊』の登場人物の口を借りても繰り返されます。このようにキリストという概念的存在はドストエフスキーをつかんで離さなかったのですが、予定していたキリストに関して一書を著すことはできぬままに世を去りました。

小林秀雄が述べるように、「キリストは、ドストエフスキーの執念となった。この事は、言うまでもなく、彼に何の平安ももたらしはしなかった。さかさまである。キリストの一生ほど、彼に強い疑いを起こさせたものはなかった」のでした。「キリストは、証明も説明もしなかったし、説教、説得さえしなかった。もしそういう事をしていたら、皆彼の言うところを理解しただろうし、彼はあれほど不可解な姿で生きる必要もなかったろう。彼を信じたものは皆眠り、彼の敵は皆醒めていたではないか。彼の生死禍福は、われわれには、深まるより他はない謎ではないだろうか。そして、人々を説得せず、人々を発心させる為にこの謎は恐らく必要だったのではあるまいか。愛と洞察とが、ドストエフスキーをそういうところに連れて来た。彼には身動きが出来なかった。キリストの愛の秩序は、人間精神の秩序とは全く論理を異にするものであり、両者の混同は許されぬ。そういう事をドストエフスキーは知ったが、彼はそこから空疎なディアレクティック(弁論術)に逃れようとはしなかった」。キリストへの愛とその愛ゆえの深い疑いは、例えば、『カラマーゾフの兄弟』第5編第5章でイヴァン・カラマーゾフの語る劇詩『大審問官』の中で、16世紀のセビリヤに蘇ったイエスを論理的に追い詰める老齢の異端審問官の口を通じて表出されます。

キリストへの思慕と疑いの間で格闘をし続けたドストエフスキーの姿は、神というものの概念に対峙する人間の姿でもあります。彼は現実の世に中では「ヒューマニズム」も「正義」も「道徳」も常に欺瞞を纏い、それらが空疎な概念でしかないことを見抜き、「美しく高尚なもの」という理想に反逆する人物達を小説の中で登場させました。人がもし真理の目を持っていれば、究極的には無神論に到達せざるを得ないでしょう。自作の劇詩『大審問官』を弟のアリョーシャに語るイヴァン・カラマーゾフは、世の中ではびこる無垢な子供の虐待死の例をあげ、神様の悪口を言うのではないと断りつつも、もし未来の社会の「調和」のために罪のない幼児達の死苦が必要だというなら、自分はそんな犠牲を払って入場しなければならない未来社会の調和の入場券は謹んでお返しする、そして幼子のいわれなき犠牲に目をつむり、その血さえ求める神など願い下げだと言います。『罪と罰』のラスコーリニコフにとって、神は欺瞞にまみれた「良識」と「良心」の代名詞であり、神は所詮正しい者にとっての神にすぎないと考えます。他国の市民を蹂躙して征服するナポレオンが英雄とされながら、意地悪な高利貸しの老婆を殺害することが卑劣な犯罪になるのは、後者が単に社会体制維持のために都合が悪いという国家法の裁断に過ぎず、人間の究極の倫理の観点からは、どちらの行為も同じではないかと。しかし断罪されるのは常に、ナポレオンではなく、卑屈な犯罪者です。

一方、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフに寄り添うソーニャという女性を登場させます。彼女は、アル中の父親、肺病病みでヒステリックな継母を持ち、幼い異母弟達の生活のために体を売り、汚辱と絶望と罪の苦しみの中で生きている、「黄色の鑑札」を付けられた少女です。彼女に老婆と女中殺しを告白したラスコーリニコフを彼女は抱きしめて言います。「いいえ、いま世界中で、あなたより不幸な方はいません」と。彼女がラスコーリニコフに示したのは、母性でも愛情でも、まして罪人を回心させようなどという高潔な宗教心などといったものではありません。彼女は、この殺人の大罪を犯した男と共に苦しんでやる者がいなければ、彼がまったく滅んでしまうことを悟ったからでしょう。これは彼に対する母性や恋慕という感情ではなく、また憐憫でさえもありません。彼女自身の罪への自覚に基づく「共苦」なのだと思います。罪ある人を救おうなどという高邁な感情ではなく、どんな卑劣漢の罪をも認めてひとつに苦しみ、他者の罪の苦しみを受け入れる奇跡的な「愛」の力。それによって、彼女自身も生かされることを知っていたのだと思います。シベリアの流刑地で多くの徒刑囚達がラスコーリニコフを見舞うソーニャに出会うと言いました。「ソフィア・セミョーノブナ、あんたはおれたちのおっかさんだ、優しい、思いやりの深いおふくろさんだよ」と。乱暴な、烙印づきの徒刑囚達が、小さな痩せこけた女に向かってこう言うのです。ソフィアという貧しく不幸な女性は、もし神というものがあるのなら、そのちっぽけな肉体を借りて現れた「奇跡」と言えるでしょう。彼女は、異端審問官の糾弾に沈黙を通し、接吻し静かに出ていくキリストの姿と重なります。

ドストエフスキーの中で神の存在の問題はテーゼとアンチテーゼを戦わせながら、未解決な謎のまま宙づりにされ、読者を迷宮の中に置き去りにしてしまうかのようです。しかし、文豪はあえて、高邁な教説を開陳するなどといったことはせず、人間の罪、神、赦しといった問題を強く深くつき付け、そうした問題に向かい、葛藤し、失敗する人間を描きながら、そこに一筋の再生の光明を示そうとしたのではないかと思います。

大本柏分苑

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