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大雨の中、脱原発を訴える「12人の怒れる男女たち」5月2日(金)
雨予報を知らずに出た為に、コンビニでビニール雨傘を買ったら900円。テント設立直
後に買った時は500円。庶民に厳しい値上がりを実感。経産省前に着くと前半組が厳しい
雨に耐えて座っていた。交代しても強い雨は降りやまず、リュック内書類の湿気を気にし
ながら、強風で倒れるパラソルを立てたり、雨を避けて地下鉄入り口に立ったり、何とか
立ち続ける。
財務省前のアピール大音響が聞こえて、文科省前の小音量の抗議行動が終わる頃、明く
る日の憲法集会や5月7日の山本義隆講演会を確認して抗議行動を始めると、ぞろぞろ人
が増えて来て、かつ長く話す人も出て、12人程の抗議行動をなかなか終われない。「経
産省は嘘をつくな」などのコール、Yoさんから憲法破り戦争批判、Skさんから原発推進批
判や汚染水海洋投棄批判、Myさんの「座込め、ここへ」の歌、Wkさんの集会告知、と続き
、雨が小やみになったところで、最後に脱原発、NOUKES、NOWAR、NOBASEのコールで締め
くくる。片付けはじめると急に雨が激しくなり、参加者の応援で荷造りし、Emさんと強い雨に耐えて台車を運び、HnさんとSgさんにも応援してもらって椅子類を事務所に運び入れ布類を干す。稀に見る厳しい座込みで、足も、ずぼんも、リュックも、びしょびしょ。
5月3日(土)
◯火垂るの墓
死者数52,000人以上、
イスラエルがガザへの支援物資搬入を阻止してから4月2日で2ヵ月になった(メディアは停
止と言うが、拒絶、拒否では?)。5月3日の朝日新聞に生後半年の女の子の写真が掲載さ
れていた。その子は栄養失調で病院に搬送された。母親は1日1食しか食べられず母乳がで
なかった。その写真は以前にも見たことがあった。ナチの強制収容所のユダヤ人の子供。
あばら骨が浮き、手足はミイラの如く。ガザ当局は6万5千人以上の子供が重度の栄養失調
で病院に搬送されたと発表、「イスラエルは飢えを民間人への兵器としている」と非難し
た。食料価格は1~3月の停戦時より15倍に高騰。世界食料計画(WFP)は食料の備蓄が枯渇
と発表。世界保健機構(WHO)は医療品の在庫がつきつつあるという。米国とイスラエルが
物資搬入再開で合意間近という記事があるが(東京新聞5月4日)、これは国連機関やNGOな
ど、所謂国際社会を排除するのが目的では?
◯the Kaiser
「私は米国と世界を統治している」--アトランティック誌とのインタビュ-での発言。
公共ラジオNPRと公共テレビPBSへの政府からの資金を打ち切る大統領令に書名。「納税者
の金を使って、左翼的なプロバガンダを助長している」のが理由だ。《そいつぁ、すげえ
や》自分をローマ教皇に模したような合成画像をSNSに投稿した。trump(切り札)は尽きず
。
有明で憲法大集会があったので、訪れる人はないだろうと思っていたら、Hoさんが最初
から最後まで座ってくれた。そして、「国会前3の日行動」に参加した女性が寄って、カ
ンパをして下さり、色々話して行った。澤地さんは、まだ療養中で来られなかったけど、
80人位集まったそうです。
5月4日(日)
(参加者:藤原、遠藤、千葉、杉山(三里塚)、平野(三里塚)、乱、女性、峯島)
M島、1200着。F原さんE藤さんが設営を始めたところ、物流トラックが停車していて、車
道側に横断幕を立てられず、ゆるゆると、歩道側から横断幕、のぼり旗を立てていく。晴
れ。雲が多いが、雨の心配は無い。雲が日傘代わりだ。そろそろ、日避けのパラソルを用
意しないと。霞ヶ関辺りは、ツツジが終わりかけ。代わって、サツキが咲き始める。座り
込み後ろの植え込みでは、白いシャリンバイ(車輪梅)も咲く。財務省前では、男性1人が
「財務省解体 選挙に行こう」ののぼり旗立てて、何か話しながら自撮り中。警察車両は
無し。経産省側歩道の通行人にも、財務省側を指差す人あり、人気があるようだ。
F食は、ふかしジャガイモ、ゆで卵、バナナ、乳酸菌飲料。芽の出たジャガイモを10kg500
円で入手。大量に持ち込み、ふかしの出来もホクホクして、F原さん自慢する。
1210T葉さんのキリスト教街宣車が来る。タクシー乗り場に停車。いつもより、めちゃ早
い。1230T葉さんのキリスト教街宣車、タクシーが来たから、車両移動かと思ったら、そ
のまま、日曜礼拝に向かったようだ。一言あったらいいのに。財務前男性いなくなる。
1235物流トラックも移動。車道側も横断幕設営開始。1300設営完了。横断幕は、車道側3
枚、歩道側6枚。のぼり旗は、歩道側11本。三里塚のS山さん、H野さんが来る。記念撮影
して、E藤さんが帰る。
1345Rさんが来る。昨日の憲法集会の話題。F原さんも憲法集会参加。三里塚の2人は「敵
対グループが憲法集会に出るため、集会参加を見合わせた」とのこと。M島は憲法集会と
お台場までのデモに参加。有明防災公園には、3万8千人集合。各地の憲法集会もそれぞれ
数百人、千人以上集まる。
1355若い男性が、我々の横断幕やのぼり旗の写真を撮っていく。神奈川の生協勤務だそう
で、パレスチナの旗の柄のスカーフを、首に巻いている。チラシを手渡す。1405女性来る
。Rさんと知り合いで「江戸川区の映画祭に行く途中、立ち寄った」とのこと。短時間座
り込み、カンパ頂く。1410文科省向かいの、日土地ビル前の広場で、十数人集まり、何か
訴えている。東京地裁から3月25日、宗教法人解散命令を受けた旧統一教会(世界平和統
一家庭連合)の二世信者のようだ。宗教法人として「居場所」の存続を望むとのこと。
1425Rさん、次の予定へ向かう。1450F原さん、日課の縄跳び。座り込みも終わり頃になる
と、雲が消え、日が燦々で暑い。座り込みの水分補給もポットのお湯から冷水タンクへの
変更時期か。1455太陽が霞ヶ関ビルの端を掠め、日陰を作る。来週は太陽が隠れず、照り
続けるようになるか。文科省向かいの抗議続く。1455撤収開始。1515撤収完了。参加者8
人。
5月5日(月)
きょうは『子供の日』。朝早くに電車に乗ったのだが、子供連れが多く、かなり混んで
いた。子供は、朝早く起こされて出てきたので、小さいお子さんは、眠そうにしている子
が幾人もいた。
空は快晴で雲一つない。風も無く、汗かきの私には暑すぎるくらいだ。最近はニュース
以外、見るべき番組が無いので、NHKの朝ドラが終わったら、直ぐに家を出てくるので
、午前10時半には事務所に着いてしまう。それから、休み休みしながら、座り込みグッズ
を台車に載せていくと、終わるのが午前11時。11時20分には経産省前に到着。これに釣ら
れて、他の二人も早く来るようになり、きょうは一段と早く来たので、午前11時40分には
、セッティングが終わってしまった。
Miさんが用意してくれた冷たいお茶を飲みながら、いつものように、反原発ソングを掛け
て、時たま通り掛かる人々に挨拶をして、のんびり過ごした。
来た時は風も無く穏やかだったが、午後1時頃から風が出てきて、大きなバナーが宙に
舞うほどだった。それで、ヒモを緩めに縛った。 午後2時半過ぎにI元教授が押し車で来
られた。考えてみれば、きょうは第一月曜日なので、Ⅰさんが来られる日である。それを
すっかり忘れていました。80代後半になるのに、お元気そうで何よりです。おまけに、甘
いかしわ餅を持って来て下さり、皆で美味しく頂いた。私が小さい頃は、家族全員で、こ
の日は昼食がかしわ餅で、一人6個づつ食べていたことを思い出しました。
Ⅰさんが、きょうの唯一の、当番外の座り込み者。年齢が同じくらいのMiさんとは、60年
安保闘争の話題で盛り上がっていました。午後3時になったので(Ⅰさんはお帰りになり)
、3人で片付けて事務所に戻りました。
5月6日(火)
雨、それほど強くはなかったが、やむことはなかった。座り込みは6〜7人で続けられた
。2011年にテントを張ってから14年、霞が関の一角経産省前はわれわれの座り込み
拠点となっている。今後も脱原発まで頑張り続けなければならない。
向かいの財務省前では十数名の集団が「自民党解体」「財務省解体」をスローガンに演
説を続けていた。内容はよく聞こえなかったが、この霞が関の一角は自民党、政府官庁を
罵倒する場となっている、と感じられた。
明日5月7日は14時より、衆議院第一議員会館会議室で山本義隆氏の講演会「核発電
の根本問題」(テント広場主催)が行われる。 山本義隆氏といえば1960〜70年代
、東大全共闘議長をつとめた活動家だ。その彼が「核発電」について何を語るか、是非注
目したい。会場を埋めたい。
反原発をより広めるためにも、運動はこれからだ。「経産省前座り込み」を今後とも続
け、広げてゆこう。
5月7日(水)
今日は山本義隆さんの講演会で、事務所に山本れいじさんが午前中から来て、準備の作業
をしていた。いい天気なのだが、風が強く、バナーを張ることなどに少し手間取った。午
後1時頃、山本講演会に行く前に、平岡さんがテントに寄られた。
経産省にカメラを持った人などがかたまって入って行った。なにがあるのか。新潟県花角
知事が柏崎刈羽原発の稼働に関して、原発近辺の自治体が受け取る「電源三法
交付金」などの対象地域(原発から5~30キロ圏の避難準備区域)8市町のうち支給されて
いない4町村にも拡大してという要望のために、経産省など中央官庁へ来たので、その取
材で、新潟県のメディア各社が同行取材ということだった。新潟県議会は4/18に、柏崎刈
羽の原発再稼働についての県民投票条例案を否決した。それと一体の再稼働のための行動
だろう。柏崎刈羽原発の再稼働をさせてはいけない。
今日は午後1時から2時まで、第二議員会館前で「日本学術会議の特殊法人化反対」のヒ
ューマンチェーン行動があった。今日は参考人質疑がある。ものすごいスピードで、審議
なしに通そうとしている。その抗議行動に参加した人がテントに寄ってくれた。400人集
ったそうだ。その人は、山本義隆さんの講演会がテント主催でやっているということを知
らず「知っていたら参加したのに」と残念がった。
日本語のできる外国人が足をとめてくれた。「いつから座り込みをやっているか」(2011
年からというと)「福島の原発事故の時からね」とか「日本は資源が少ない国だからエネ
ルギーはどうするのか」「再生可能エネルギーは進んでいるのか」など聞いてきた。
今日は当番だけだった。保っちゃんとAnさんは、植え込みの中のやぶからしなどの雑草を
抜いた。
5月8日(木)
快晴で気持ちのよい日和だ。Inさん、Yoさんと3人で設営を始めると鴨下さんの住宅追い
出し訴訟控訴審を聞きに来たというSaさんが立ち寄り「何をしたらいいですか?」と声を
かけてくれた。Yoさんの指導の下作業に加わってもらい、4人で12:00に設営を完了。Sa
さんは裁判の報告集会に向かった。Inさんと昨日の山本義隆さんの講演会の感想を話す。
講演内容が戦前の話に偏っていたのでもっと現状の原発や核燃の問題にウェイトを置いて
もらった方がよかった、というのが共通の感想だった。12:30
いつもの「あきらめないせんべい」を持ってKaさんが参加。私は「何よりも地球に悪いも
のそれは原発」のゼッケンをつけて経産省の周りを1周する。街路樹の新緑が風にそよぎ、
実にすがすがしい。14:00
後半担当のTaさん到着。Yoさんは学術会議の法人化反対の集会に行くと言って国会方面に
向かった。14:20
Arさんが参加。鴨下さん裁判の支援集会に参加してきたという。Arさんとは他の集会や会
合で度々顔を合わせていたが、経産省前でご一緒するのは初めてだ。Arさんは昨日の山本
氏講演会に来られていたので、そこでの呼びかけに応じて寄ってくださったのかもしれな
い。Arさんとは、山本義隆氏が気候問題に関する質問に明確な回答ができなかったことが
話題になった。私はArさんに、山本義隆氏が著書『核燃料サイクルという迷宮』の中で不
十分な知識をもとにCO2気候危機説を是認してしまっている問題、2023年のCOP28での「脱
炭素のために原発を推進しよう」という全体合意を、市民団体が全く批判しない問題等を
話した。Arさんとは、原発こそ最大の環境破壊であり、世上にはびこる「脱炭素至上主義
」の克服が必要だという点で一致した。時間になりTaさんと2人で撤収し、4989日目の抗
議を終えた。
=====添付資料======
・原発週報2025.4.30-5.6.docx 編集:漆原牧久
=====今後の集会・行動等==========
◆5月10日(土)新宿デモ(脱被ばく実現ネット) 13:00~アルタ前集会 14:00~デ
モ
「なかったことにはさせない!子ども達の甲状腺がん多発と原発事故避難者の住まいを
奪う人権侵害!」
◆5月13日(火)高レベル放射性廃棄物を搬出する約束は守らせる国・事業者とのヒアリ
ング集会
(核のゴミから未来を守る青森県民の会)衆院第二議員会館第5会議室 15:00~17:30
◆5月14日(水)原子力規制委員会前 12:00~13:00
◆5月16日(金)経産省前抗議集会 17:00~18:00
主催:経産省前テントひろば 経産省正門前
◎
経産省前の座り込み行動は、月~木:12時~16時、金:13時~17時、土・日・休日:12時
~15時
◆5月16日(金)首相官邸前(原発いらない金曜行動) 18:30~19:45
◆5月21日(水)福島原発被害東京訴訟第2陣 東京地裁103号法廷 10:00~16:30
◆5月21日(水)原子力規制委員会 12:00~13:00
◆5月23日(金)経産省前抗議集会 17:00~18:00
========【書籍紹介1】========
◎渕上太郎遺稿集 発売中
経産省前テントひろばで販売しています。
書名:「脱原発 経産省前テント ここに在り!」
発売元:情況出版 価格:1500円のところを500円
*
【動画案内】山本義隆さん講演 核発電の根本問題〜「核燃料サイクルという迷宮」から
5月7日(水)に160人を超える方々ととも、山本義隆さんからお話を聞きました。
(レジュメ)
資源問題
高速増殖炉
核燃料サイクルとその現状
核のゴミの最終処分
科学技術と核のナショナリズム
潜在的核武装
(1)
しばらく前に1968年から50年目を迎えることになるというので左翼の現在と未来についての議論が起こるだろうと言われた。そういう期待があったというべきかもしれない。1968年は新左翼が主軸となって反戦闘争や大学闘争が頂点にあった時期だからである。1968年新宿での反戦闘争は60年代の反戦闘争の頂点であったし、1969年初めの東大安田講堂の攻防戦は大学闘争(全共闘運動)の最後というべき位置にあった。そして、その後は内ゲバや連合赤軍事件もあり、左翼運動は衰退を余儀なくされ現在に至ってきた。だから、50年を経てこの時期の闘争があらためて対象化されるだろうという期待と願望があった。この期待は『続・全共闘白書』などとなってあらわれたが、未完のものというべきものでしかなかった。主宰している雑誌に「左翼は再生されるのだろうか」という一文を書いたが、納得がいったものを書けたとは思えなかった。総括〈対象化〉の方法も含めた再検討がいるということを痛切に感じながら、現在にいたっている。
『真説日本左翼史』は戦後(1945年)から1960年安保闘争までの戦後左翼史を対象にしていて、1960年代を主導した新左翼は次に扱われることになっているのだが、日本の左翼史を歴史的な射程で総括しょうとしていて、とても興味を引かれた。1968年の事件を念頭に置きながら、新左翼の総括を試みていた時に、これは伝統的左翼(新左翼に対する旧左翼の総称)の総括を含めなければならない、と思っていたこともあるからかもしれない。この本の表題とでもいうように掲げられている「『左翼』は何を達成し、なぜ失敗したのか」という事を明瞭にすることは自分もなすべきことだと思っている。左翼の言説は概ねリベラルな言説に変動しているのが現状だが、他方で共産党(伝統的左翼)も中核派も革マル派(新左翼)も残っている。佐藤はそれらがよみがえるかもしれないことを懸念している。悲劇的な事態を演じた左翼が同じことを繰り返すかもしれないという懸念であるが、僕はそういうことはないと思っている。左翼を存在せしめた現実の矛盾とそれをただそうとする運動は現実に存在している。反体制や反国家権力の運動は、規模はともかく存在しており、それが左翼的なのものの存続を可能にしている。だからと言って、左翼的な存在がかつてのように蘇り、ヘゲモニー(主導権)をにぎることはないと思う。伝統的左翼も、新左翼もその思想(理念)はかつての運動の中で試されたのであり、その中で無効がいいわたされたのであり、思想的には死に体としてあるのが現状であるからだ。思想(理念)は意識的に解体され、再生されなければ甦ることはないし、伝統的左翼も新左翼も組織を保持している面々にはそのような思想力があるとは思えないからである。左翼が限界というか、無効性を刻印された事態を超えていくには、左翼的なものを存在せしめた歴史(近代)の総括が必要だし、その中での自己解体と再生の営みが不可欠である。これは現在の存在し、未来において広がることが予測される現状に反抗する反体制、反国家権力の運動に理論構成と言語表現を与えることになろう。若い世代の白井聰や斎藤幸平の登場はそういう一つだが、新左翼も含めて伝統的左翼の言説とは別のところに位置していることはたしかである。
(2)
この本は1945年(終戦)の年から1960年安保闘争までの左翼の歴史を扱っているのだが、それまでは日本共産党と日本社会党が大きな位置を左翼の中で占めていた。1960年安保闘争を契機に新左翼といわれるものが登場し、やがては大きな位置をしめる。伝統的左翼として共産党と日本社会党は戦後の左翼として大きな位置をしめるが、これは1920年代30年代にかけて最盛期にあった戦前の左翼の復活版と言えなくはない。大正末期から昭和のはじめにかけて左翼運動は全盛期にあったが、これは戦争への足音の中で消されるか、沈黙を余儀なくされた。この左翼は敗戦を契機に復活した。これは戦争を主導した右翼や保守が政治的力を失ったからである。敗戦において日本は国体の護持を条件にしたが、これは国内での旧体制派の支配を目論むものであったが、敗戦が和平派によって推進されたように、戦時期に主導力を持っていた政治家は力を失ってもいたのである。戦争期に抑え込まれていた左翼は敗戦期に復活するのである。
日本共産党は戦前に獄につながれていた人たち(徳田球一や志賀義雄や宮本顕治ら)が復活をさせる。これにはおもしろいエピソードがあり、アメリカ軍が彼らを解放したということであり、もしもこれが日本人の手でなされたのであれば、その後の共産党は違った存在になっていたかも知れないということである。事実、本書で書かれているように日本共産党はアメリカ占領軍を解放軍として規定し、その後の混迷の要因にもなる。アメリカ占領軍は初期占領政策として、非軍事化と民主化を柱にして、農地改革や憲法改正などを行う。戦後改革である。これは日本の戦争態勢と戦ったアメリカ軍が勝利の結果として押し付けて来たものであるし、ある意味では敗戦革命としてやるべきことを取り上げたものだともいえる。このアメリカの初期占領政策は変更され、日本の最軍備や憲法改正の要求になる。また、日本の官僚支配を通じた天皇の利用も明確になった。日本共産党が戦後の初期に取ったアメリカ軍の占領軍規定は謎に満ちてはいるが、フアシズム政権を枢軸とする国と戦った連合国が戦後を支配する体制となったことを考えれば、不思議ではなかったと言える。戦後の世界体制は戦勝国の世界体制であり、冷戦が激化をしなければ、米ソは対立的ではなかったとすれば、アメリカ占領軍の政策を共産党が支持する必然はあったからである。このことは日本共産党が戦後における独自の国家構想を持ち得ていなかったことを意味する。よく話題になる憲法改正時に憲法9条に反対したことがある。国家は自衛の軍持つことは当たり前のこととして反対した日本共産党は戦力保持を禁じる憲法9条に反対したのだ。これは戦争と国家についての日本共産党の考えを代表していたのである。憲法9条は誰が発案したか今でも話題になるが、戦争についての方向を提示していた。これに対する日本共産党の態度は彼等の戦争観を示すのであるが、戦争についての敗戦が提示してものへの日本共産党のあり様を示していたと言える。
(3)
敗戦がもたらした大きな問題は占領軍による国家支配(統治)であるが、日本国民にとっての問題はどのような国家統治体制を取るかという事であり、その中心には戦争に対する対応があった、何故なら、敗戦までの日本は戦争を国家の中心において、国家体制を構築してきたからである。俗に「富国強兵」政策といわれるが、強兵こそが中心にあったのである。国体という統治体制も戦争を軸にした体制から生まれたのである。この国家のあり方に敗戦は疑念を生みださせたのであり、「こういう戦争は嫌だという」意識を広範に生んだのである。国民にはアメリカ占領軍の日本統治(支配)よりも戦争の方向が重要だったのである。このことはアメリカの占領政策の一つとして日本の非軍事化(憲法9条)が国民に支持され、存続してきた理由である。戦争を中心に置かない国家は可能かという問題が、この時に浮上したのである。国家の中心に戦争を置かない、国家は可能かというこの問題は敗戦国としての日本国民を強く支配した事柄であったが、戦勝国が構想した戦後国家とはズレのあるものだった。何故なら、戦勝国はファシズムや帝国主義の戦争には反対であったが、戦争そのものには反対ではなかったからだ。
戦後の左翼はかつての日本の戦争とその下での統治体制で壊滅するほどの強圧を受けたのだが、戦後はこの体制への批判から復活した。今は、読売新聞の統率者である渡邊恒雄が戦後に日本共産党に入り活動したことはよく知られている。彼は戦争と軍部の独裁体制に反抗したのである。このことはかつての特攻隊員であった若者が共産党(左翼)に身を投じたことと同じである。しかし、復活した左翼(日本共産党や日本社会党)には戦前に革命を志向して活動した歴史がある。日本共産党は講座派として、日本社会党は労農派として活動し、戦前は獄につながれた、沈黙を余儀なくされた面々がいた。彼らが日本共産党や社会党の中心にいたのである。日本共産党の面々は先に紹介したのであるが、日本社会党には山川均や向坂逸郎などがいた。この本では講座派や労農派のことが詳しく紹介されているが、最近の若い人たちには参考になることかもしれない。
かつて戦前に革命運動の活動家としてあり、戦後に復活した面々にとって、また彼らが指導した日本共産党や日本社会党にとって、戦争についての態度をどう決めたかは最大の問題だった。というのは戦争に対する国民の意識こそが、戦後の左翼の基盤であり、それを生かしたものだったからだ。しかし、戦前に革命運動の展開者であり、戦後に指導的役割を果たした面々の戦争についての考え(理念)には曖昧というか、限界があったのではないのだろうか。もっと端的にいえば、戦争についての国民の意識と彼等の理論や言語表現には誤差があり、国民の意識に基盤を持ちながらそれを生かしきれなかった要因ではないだろうか。
(4)
戦後の日本はともかく戦後のアメリカ占領軍の非軍事化と民主化という方針を受け入れ出発した。戦後の日本の支配層はそれを受け入れながら、それを批判する動きを生み出した。それは戦争を国家の主権的なものとして復権させる動きであり、民主化を行きすぎとして修正させようとする動きである。この本でも言われて歴史の逆コースである。これにはアメリカ占領軍の非軍事化と民主化の修正が背景にあった。戦後の15年(1945年の敗戦から、1960年の安保闘争までは)はアメリカ軍の占領軍の戦後改革の修正の動きが顕著だった。憲法改正は中心に置かれていたが、戦争の復権と統治体制の国家主義化である。これは保守派や右翼の動きと言ってよかったのであるが、左翼はそれらに対する反対闘争を展開した。この反体制的、反国家権力の運動は国家権力の暴走を防ぐという意味でその役割を果たしたと言える。
それならば、戦後の左翼であった、日本共産党や日本社会党はどうだったのだろうか。日本共産党にはアメリカ軍解放軍規定から1952年の軍事路路線にたる紆余屈性があるが、彼等の革命政党としての出自から規定された革命理念が現実に試されることでその空想性と非現実性が露呈してく歴史だったように思う。彼らはその歴史に向かい合わないできたと思えるが、そこに悲劇性があるように思う。二段階戦略をはじめとする革命戦略が非現実的で空想的だったのである。戦争について、自由と民主主義について本当に向かい合うのではなく、彼等の革命思想がそれらの前で破綻していく歴史だったように思う。にもかかわらず日本共産党は生き延びている。その秘密は理念よりも人々の反抗的、反逆的な意識によりそう、そこから離れないという反体制、反権力運動の伝統から身に着けた知恵にあるのではないのか。ここは注目してみておくべきところだ。
日本社会党には「反戦平和」というこの評価が与えられているが、これは妥当な事のように思う。反戦平和というのは多分に曖昧なところが含まれている。だからこれは非戦と言いかえうべきであり、戦争をしないとか、反戦争を明瞭にさせないとかの問題が含まれてはいたが、戦後のある時期に日本社会党がぎりぎりの所まで「反戦平和」ということを貫いたことは評価して置いていいことだと思う。本書は誰も顧みようとしない戦後左翼を取り上げているのは貴重なことだが、やはり左翼といえば1960年以降の新左翼にことが重要だ。