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八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参《ちょうさん》をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたい...こと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。

ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。

八月二二日、関白九条尚忠《ひさただ》はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女《むすめ》を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。

孝明天皇の准后夙子《じゅごうあさこ》(幼名基君《のりぎみ》、諡《おくりな》・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。

弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁《おさひと》親王(孝明天皇)に配する后《きさき》を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。

翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚《せんそ》、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内《じゅだい》する。大雪の日であった。牛車《ぎっしゃ》で九条邸を出る夙子は十二単衣《ひとえ》を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣《むつき》を着てつきそった。廣子《ひろこ》(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。

この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。

いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と皇妹《こうまい》和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。

翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。

和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼《きょうく》のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引《えんいん》の御沙汰《さた》になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。

八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭

二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走《ほんそう》の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか。

■皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、孝明天皇と岩倉具視 『霊界物語』四一巻の謎を解く(一)

●四十一巻は、東西両洋における古典や神話に漏れたる、幕末維新の真実を暗示した!

冒頭に『霊界物語』四一巻の序文を引用します。

序文 そもそも我国に伝わる古典は、すべて豊葦原瑞穂国〈地球全体の国土を言う〉(図一)の有史以前の伝説や考量を以て編纂されたものもあり、有史以後の事実を古文書や古伝説なぞを綴《つづ》り合せて作られたものもあって…ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞《きんげんぎょくじ》もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。大正十一年十一月七日「序文」『霊界物語』四一巻。

出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』四一巻序文において、…過去における歴史もあり…『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したもの…としています。この文が四一巻に記載されたということは、この巻にこそ、日本の歴史に漏れたる点、そして神業においてもっとも重要な点を記載したという謎と考えます。

「試に世界地図を披《ひら》いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。その如何に類似し、その同一典型に出でたるかの俤《おもかげ》を認むるに難からざるかを。

世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容を甚しく変化せしめてはいるが、神誓神約の太古の趣は、髣髴《ほうふつ》として之を認めるに難からざる次第である」「宗教と政治(二)」『神霊界』

豊葦原瑞穂国中津《とよあしはらみずほのくになかつ》国は、「ス」神の国

「ノアとナオとの方舟図」です。この方舟には、五大州が割り振られていることから、豊葦原瑞穂の国が全世界という定義でいえば、まさに「豊葦原瑞穂の国」を示しています。ここが肝要ですが、その中心にあるのは、中津国、日本を示すはずです。すなわち、「ス」の本《もと》の国、「ス」とは「主《す》」であり、「日」ですから、「ス」神の中心におわす日の本の国、日本を示します。そして、日本は「霊《ひ》」の本の国であり、霊主体従の身魂を霊《ひ》の本の身魂と言います。主の大神とは、「神素盞嗚大神《かむすさのをのおおかみ》」を示します。その根拠については、別の号で示します。なお、全体を空間として天火結水地を縦にみれば、地球、あるいは宇宙空間を示しています。

なお、一般には豊葦原瑞穂国は、日本国のこととされています。しかし王仁三郎は地球全体のこととしています。神霊界では…大国主命が豊葦原瑞穂国〈全世界〉を統一し、之を皇孫命《すめみまのみこと》に奉還し給いし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。「随筆」『神霊界』

…『顕の顕神』は、天先ず定まり地成って後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給いし…「皇国伝来の神法」『出口王仁三郎全集第一巻』

全世界が日本であった…ということを思わせる主旨の聖師の記述は、私たちの常識を超えます。太古に日本という国名はなく、使用されたのは大化の改新より後であると考えられる…。しかし日本「日《ひ》」の「本《もと》」の国が「霊《ひ》」の「本」、「ス」の「本」、「皇《す》」の「本《もと》」であるという聖師の見解からみると、豊葦原瑞穂国、全世界が主神、神素盞嗚大神の「本」にあるわけだから「主」「ス」「日」「皇」「霊」の「本」の国で矛盾はないわけです。そして、方舟図の「ス」の位置が豊葦原瑞穂国、中津国の日本となります。メソポタミア地方も同様に豊葦原瑞穂国中津国といいますが、それは、「メソ」=「水」、「ポ」=「穂」、「タミ」=「民」、ア=「国を表す接尾語」合わせて「瑞穂民国」というわけです。

九枚の紙を使用して表す孝明天皇(セーラン王)直伝の切り紙神示、聖師のスの拇印を得て、はじめて日本の「日」と「皇」に主神が入り、文字が完成します。米国は殻、体《から》の国ゆえに、文字に「ス」が必要なく、米国と国名が完結しています。「主」「ス」を担う日本国と、「ス」を奪う謀みの米国との戦争が太平洋戦争でしょうか。

●神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る

序 この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁《ばっこちょうりょう》せる八岐大蛇《やまたのおろち》を寸断し、ついに叢雲宝剣《むらくものほうけん》をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまいし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われ来ることも、あながち否《いな》み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑《なおざり》に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。

読者諸子のうちには、諸神の御活動にたいし、一字か二字、神名のわが姓名に似たる文字ありとして、ただちに自己の過去における霊的活動なりと、速解される傾向ありと聞く。実に誤れるの甚《はなは》だしきものというべし。切に注意を乞う次第なり。大正十年十月廿日 午後一時

於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌

「大正十年十月廿日 午後一時」というのは、本宮山神殿破壊のまさにその日時です。大正時代の大本機関誌「神霊界」に聖師が執筆された「掃き寄せ集」(大正十年一月一日号所載)の中で、切紙神示が「切紙宣伝」として紹介されています。「さてこの二大勢力が衝突するのは何時かとみると明らかに大正十年九月二十日午後一時と出る」とあるのです。

「神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る」とういうのは、まさに二大勢力の衝突、本宮山神殿破壊のことでしょう。神殿破壊のその時に、聖師は「序」『霊界物語』を口述された。一審判決が出てから三日目の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎に対し、「明治三一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があり、大正十年(一九二一)旧九月十八日に『霊界物語』の口述が始まりました。それは最後の審判が開かれた日であり、それを恐怖する悪魔の妨害工作が本宮山神殿破壊につながったもの。

その根拠は、「国難は国福なり」『真如の光』に「九月八日の仕組み、先ず第一着に満州事変が起こる」と記されていること。聖師は「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した『霊界物語』のことである」とも昭和六年十月十八日旧九月八日に示されており、最後の審判が開かれたことが、ちょうど十年後の皇紀二五九一《じごくはじめ》年、昭和六年(一九三一《いくさはじめ》)九月十八日勃発の満州事変の型になったことがわかります。

●「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」

『霊界物語』は、東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補う。隠された秘密を明かす純粋の現界の史実、しかも似た文字があったとして速解してはいけない…

『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。

たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫《やすだらひめ》とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。

それはともかく、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。なぜなら、『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。

八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参《ちょうさん》をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたい...こと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。

ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。

八月二二日、関白九条尚忠《ひさただ》はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女《むすめ》を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。

孝明天皇の准后夙子《じゅごうあさこ》(幼名基君《のりぎみ》、諡《おくりな》・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。

弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁《おさひと》親王(孝明天皇)に配する后《きさき》を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。

翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚《せんそ》、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内《じゅだい》する。大雪の日であった。牛車《ぎっしゃ》で九条邸を出る夙子は十二単衣《ひとえ》を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣《むつき》を着てつきそった。廣子《ひろこ》(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。

この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。

いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と皇妹《こうまい》和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。

翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。

和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼《きょうく》のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引《えんいん》の御沙汰《さた》になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。

八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭

二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走《ほんそう》の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか。

■皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、孝明天皇と岩倉具視 『霊界物語』四一巻の謎を解く(一)

●四十一巻は、東西両洋における古典や神話に漏れたる、幕末維新の真実を暗示した!

冒頭に『霊界物語』四一巻の序文を引用します。

序文 そもそも我国に伝わる古典は、すべて豊葦原瑞穂国〈地球全体の国土を言う〉(図一)の有史以前の伝説や考量を以て編纂されたものもあり、有史以後の事実を古文書や古伝説なぞを綴《つづ》り合せて作られたものもあって…ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞《きんげんぎょくじ》もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。大正十一年十一月七日「序文」『霊界物語』四一巻。

出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』四一巻序文において、…過去における歴史もあり…『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したもの…としています。この文が四一巻に記載されたということは、この巻にこそ、日本の歴史に漏れたる点、そして神業においてもっとも重要な点を記載したという謎と考えます。

「試に世界地図を披《ひら》いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。その如何に類似し、その同一典型に出でたるかの俤《おもかげ》を認むるに難からざるかを。

世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容を甚しく変化せしめてはいるが、神誓神約の太古の趣は、髣髴《ほうふつ》として之を認めるに難からざる次第である」「宗教と政治(二)」『神霊界』

豊葦原瑞穂国中津《とよあしはらみずほのくになかつ》国は、「ス」神の国

「ノアとナオとの方舟図」です。この方舟には、五大州が割り振られていることから、豊葦原瑞穂の国が全世界という定義でいえば、まさに「豊葦原瑞穂の国」を示しています。ここが肝要ですが、その中心にあるのは、中津国、日本を示すはずです。すなわち、「ス」の本《もと》の国、「ス」とは「主《す》」であり、「日」ですから、「ス」神の中心におわす日の本の国、日本を示します。そして、日本は「霊《ひ》」の本の国であり、霊主体従の身魂を霊《ひ》の本の身魂と言います。主の大神とは、「神素盞嗚大神《かむすさのをのおおかみ》」を示します。その根拠については、別の号で示します。なお、全体を空間として天火結水地を縦にみれば、地球、あるいは宇宙空間を示しています。

なお、一般には豊葦原瑞穂国は、日本国のこととされています。しかし王仁三郎は地球全体のこととしています。神霊界では…大国主命が豊葦原瑞穂国〈全世界〉を統一し、之を皇孫命《すめみまのみこと》に奉還し給いし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。「随筆」『神霊界』

…『顕の顕神』は、天先ず定まり地成って後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給いし…「皇国伝来の神法」『出口王仁三郎全集第一巻』

全世界が日本であった…ということを思わせる主旨の聖師の記述は、私たちの常識を超えます。太古に日本という国名はなく、使用されたのは大化の改新より後であると考えられる…。しかし日本「日《ひ》」の「本《もと》」の国が「霊《ひ》」の「本」、「ス」の「本」、「皇《す》」の「本《もと》」であるという聖師の見解からみると、豊葦原瑞穂国、全世界が主神、神素盞嗚大神の「本」にあるわけだから「主」「ス」「日」「皇」「霊」の「本」の国で矛盾はないわけです。そして、方舟図の「ス」の位置が豊葦原瑞穂国、中津国の日本となります。メソポタミア地方も同様に豊葦原瑞穂国中津国といいますが、それは、「メソ」=「水」、「ポ」=「穂」、「タミ」=「民」、ア=「国を表す接尾語」合わせて「瑞穂民国」というわけです。

九枚の紙を使用して表す孝明天皇(セーラン王)直伝の切り紙神示、聖師のスの拇印を得て、はじめて日本の「日」と「皇」に主神が入り、文字が完成します。米国は殻、体《から》の国ゆえに、文字に「ス」が必要なく、米国と国名が完結しています。「主」「ス」を担う日本国と、「ス」を奪う謀みの米国との戦争が太平洋戦争でしょうか。

●神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る

序 この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁《ばっこちょうりょう》せる八岐大蛇《やまたのおろち》を寸断し、ついに叢雲宝剣《むらくものほうけん》をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまいし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われ来ることも、あながち否《いな》み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑《なおざり》に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。

読者諸子のうちには、諸神の御活動にたいし、一字か二字、神名のわが姓名に似たる文字ありとして、ただちに自己の過去における霊的活動なりと、速解される傾向ありと聞く。実に誤れるの甚《はなは》だしきものというべし。切に注意を乞う次第なり。大正十年十月廿日 午後一時

於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌

「大正十年十月廿日 午後一時」というのは、本宮山神殿破壊のまさにその日時です。大正時代の大本機関誌「神霊界」に聖師が執筆された「掃き寄せ集」(大正十年一月一日号所載)の中で、切紙神示が「切紙宣伝」として紹介されています。「さてこの二大勢力が衝突するのは何時かとみると明らかに大正十年九月二十日午後一時と出る」とあるのです。

「神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る」とういうのは、まさに二大勢力の衝突、本宮山神殿破壊のことでしょう。神殿破壊のその時に、聖師は「序」『霊界物語』を口述された。一審判決が出てから三日目の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎に対し、「明治三一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があり、大正十年(一九二一)旧九月十八日に『霊界物語』の口述が始まりました。それは最後の審判が開かれた日であり、それを恐怖する悪魔の妨害工作が本宮山神殿破壊につながったもの。

その根拠は、「国難は国福なり」『真如の光』に「九月八日の仕組み、先ず第一着に満州事変が起こる」と記されていること。聖師は「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した『霊界物語』のことである」とも昭和六年十月十八日旧九月八日に示されており、最後の審判が開かれたことが、ちょうど十年後の皇紀二五九一《じごくはじめ》年、昭和六年(一九三一《いくさはじめ》)九月十八日勃発の満州事変の型になったことがわかります。

●「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」

『霊界物語』は、東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補う。隠された秘密を明かす純粋の現界の史実、しかも似た文字があったとして速解してはいけない…

『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。

たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫《やすだらひめ》とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。

それはともかく、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。なぜなら、『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。

八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参《ちょうさん》をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたい...こと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。

ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。

八月二二日、関白九条尚忠《ひさただ》はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女《むすめ》を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。

孝明天皇の准后夙子《じゅごうあさこ》(幼名基君《のりぎみ》、諡《おくりな》・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。

弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁《おさひと》親王(孝明天皇)に配する后《きさき》を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。

翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚《せんそ》、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内《じゅだい》する。大雪の日であった。牛車《ぎっしゃ》で九条邸を出る夙子は十二単衣《ひとえ》を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣《むつき》を着てつきそった。廣子《ひろこ》(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。

この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。

いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と皇妹《こうまい》和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。

翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。

和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼《きょうく》のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引《えんいん》の御沙汰《さた》になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。

八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭

二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走《ほんそう》の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか。

■皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、孝明天皇と岩倉具視 『霊界物語』四一巻の謎を解く(一)

●四十一巻は、東西両洋における古典や神話に漏れたる、幕末維新の真実を暗示した!

冒頭に『霊界物語』四一巻の序文を引用します。

序文 そもそも我国に伝わる古典は、すべて豊葦原瑞穂国〈地球全体の国土を言う〉(図一)の有史以前の伝説や考量を以て編纂されたものもあり、有史以後の事実を古文書や古伝説なぞを綴《つづ》り合せて作られたものもあって…ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞《きんげんぎょくじ》もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。大正十一年十一月七日「序文」『霊界物語』四一巻。

出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』四一巻序文において、…過去における歴史もあり…『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したもの…としています。この文が四一巻に記載されたということは、この巻にこそ、日本の歴史に漏れたる点、そして神業においてもっとも重要な点を記載したという謎と考えます。

「試に世界地図を披《ひら》いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。その如何に類似し、その同一典型に出でたるかの俤《おもかげ》を認むるに難からざるかを。

世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容を甚しく変化せしめてはいるが、神誓神約の太古の趣は、髣髴《ほうふつ》として之を認めるに難からざる次第である」「宗教と政治(二)」『神霊界』

豊葦原瑞穂国中津《とよあしはらみずほのくになかつ》国は、「ス」神の国

「ノアとナオとの方舟図」です。この方舟には、五大州が割り振られていることから、豊葦原瑞穂の国が全世界という定義でいえば、まさに「豊葦原瑞穂の国」を示しています。ここが肝要ですが、その中心にあるのは、中津国、日本を示すはずです。すなわち、「ス」の本《もと》の国、「ス」とは「主《す》」であり、「日」ですから、「ス」神の中心におわす日の本の国、日本を示します。そして、日本は「霊《ひ》」の本の国であり、霊主体従の身魂を霊《ひ》の本の身魂と言います。主の大神とは、「神素盞嗚大神《かむすさのをのおおかみ》」を示します。その根拠については、別の号で示します。なお、全体を空間として天火結水地を縦にみれば、地球、あるいは宇宙空間を示しています。

なお、一般には豊葦原瑞穂国は、日本国のこととされています。しかし王仁三郎は地球全体のこととしています。神霊界では…大国主命が豊葦原瑞穂国〈全世界〉を統一し、之を皇孫命《すめみまのみこと》に奉還し給いし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。「随筆」『神霊界』

…『顕の顕神』は、天先ず定まり地成って後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給いし…「皇国伝来の神法」『出口王仁三郎全集第一巻』

全世界が日本であった…ということを思わせる主旨の聖師の記述は、私たちの常識を超えます。太古に日本という国名はなく、使用されたのは大化の改新より後であると考えられる…。しかし日本「日《ひ》」の「本《もと》」の国が「霊《ひ》」の「本」、「ス」の「本」、「皇《す》」の「本《もと》」であるという聖師の見解からみると、豊葦原瑞穂国、全世界が主神、神素盞嗚大神の「本」にあるわけだから「主」「ス」「日」「皇」「霊」の「本」の国で矛盾はないわけです。そして、方舟図の「ス」の位置が豊葦原瑞穂国、中津国の日本となります。メソポタミア地方も同様に豊葦原瑞穂国中津国といいますが、それは、「メソ」=「水」、「ポ」=「穂」、「タミ」=「民」、ア=「国を表す接尾語」合わせて「瑞穂民国」というわけです。

九枚の紙を使用して表す孝明天皇(セーラン王)直伝の切り紙神示、聖師のスの拇印を得て、はじめて日本の「日」と「皇」に主神が入り、文字が完成します。米国は殻、体《から》の国ゆえに、文字に「ス」が必要なく、米国と国名が完結しています。「主」「ス」を担う日本国と、「ス」を奪う謀みの米国との戦争が太平洋戦争でしょうか。

●神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る

序 この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁《ばっこちょうりょう》せる八岐大蛇《やまたのおろち》を寸断し、ついに叢雲宝剣《むらくものほうけん》をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまいし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われ来ることも、あながち否《いな》み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑《なおざり》に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。

読者諸子のうちには、諸神の御活動にたいし、一字か二字、神名のわが姓名に似たる文字ありとして、ただちに自己の過去における霊的活動なりと、速解される傾向ありと聞く。実に誤れるの甚《はなは》だしきものというべし。切に注意を乞う次第なり。大正十年十月廿日 午後一時

於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌

「大正十年十月廿日 午後一時」というのは、本宮山神殿破壊のまさにその日時です。大正時代の大本機関誌「神霊界」に聖師が執筆された「掃き寄せ集」(大正十年一月一日号所載)の中で、切紙神示が「切紙宣伝」として紹介されています。「さてこの二大勢力が衝突するのは何時かとみると明らかに大正十年九月二十日午後一時と出る」とあるのです。

「神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る」とういうのは、まさに二大勢力の衝突、本宮山神殿破壊のことでしょう。神殿破壊のその時に、聖師は「序」『霊界物語』を口述された。一審判決が出てから三日目の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎に対し、「明治三一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があり、大正十年(一九二一)旧九月十八日に『霊界物語』の口述が始まりました。それは最後の審判が開かれた日であり、それを恐怖する悪魔の妨害工作が本宮山神殿破壊につながったもの。

その根拠は、「国難は国福なり」『真如の光』に「九月八日の仕組み、先ず第一着に満州事変が起こる」と記されていること。聖師は「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した『霊界物語』のことである」とも昭和六年十月十八日旧九月八日に示されており、最後の審判が開かれたことが、ちょうど十年後の皇紀二五九一《じごくはじめ》年、昭和六年(一九三一《いくさはじめ》)九月十八日勃発の満州事変の型になったことがわかります。

●「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」

『霊界物語』は、東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補う。隠された秘密を明かす純粋の現界の史実、しかも似た文字があったとして速解してはいけない…

『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。

たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫《やすだらひめ》とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。

それはともかく、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。なぜなら、『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。

八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参《ちょうさん》をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたい...こと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。

ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。

八月二二日、関白九条尚忠《ひさただ》はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女《むすめ》を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。

孝明天皇の准后夙子《じゅごうあさこ》(幼名基君《のりぎみ》、諡《おくりな》・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。

弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁《おさひと》親王(孝明天皇)に配する后《きさき》を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。

翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚《せんそ》、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内《じゅだい》する。大雪の日であった。牛車《ぎっしゃ》で九条邸を出る夙子は十二単衣《ひとえ》を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣《むつき》を着てつきそった。廣子《ひろこ》(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。

この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。

いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と皇妹《こうまい》和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。

翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。

和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼《きょうく》のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引《えんいん》の御沙汰《さた》になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。

八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭

二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走《ほんそう》の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか。

■皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、孝明天皇と岩倉具視 『霊界物語』四一巻の謎を解く(一)

●四十一巻は、東西両洋における古典や神話に漏れたる、幕末維新の真実を暗示した!

冒頭に『霊界物語』四一巻の序文を引用します。

序文 そもそも我国に伝わる古典は、すべて豊葦原瑞穂国〈地球全体の国土を言う〉(図一)の有史以前の伝説や考量を以て編纂されたものもあり、有史以後の事実を古文書や古伝説なぞを綴《つづ》り合せて作られたものもあって…ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞《きんげんぎょくじ》もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。大正十一年十一月七日「序文」『霊界物語』四一巻。

出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』四一巻序文において、…過去における歴史もあり…『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したもの…としています。この文が四一巻に記載されたということは、この巻にこそ、日本の歴史に漏れたる点、そして神業においてもっとも重要な点を記載したという謎と考えます。

「試に世界地図を披《ひら》いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。その如何に類似し、その同一典型に出でたるかの俤《おもかげ》を認むるに難からざるかを。

世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容を甚しく変化せしめてはいるが、神誓神約の太古の趣は、髣髴《ほうふつ》として之を認めるに難からざる次第である」「宗教と政治(二)」『神霊界』

豊葦原瑞穂国中津《とよあしはらみずほのくになかつ》国は、「ス」神の国

「ノアとナオとの方舟図」です。この方舟には、五大州が割り振られていることから、豊葦原瑞穂の国が全世界という定義でいえば、まさに「豊葦原瑞穂の国」を示しています。ここが肝要ですが、その中心にあるのは、中津国、日本を示すはずです。すなわち、「ス」の本《もと》の国、「ス」とは「主《す》」であり、「日」ですから、「ス」神の中心におわす日の本の国、日本を示します。そして、日本は「霊《ひ》」の本の国であり、霊主体従の身魂を霊《ひ》の本の身魂と言います。主の大神とは、「神素盞嗚大神《かむすさのをのおおかみ》」を示します。その根拠については、別の号で示します。なお、全体を空間として天火結水地を縦にみれば、地球、あるいは宇宙空間を示しています。

なお、一般には豊葦原瑞穂国は、日本国のこととされています。しかし王仁三郎は地球全体のこととしています。神霊界では…大国主命が豊葦原瑞穂国〈全世界〉を統一し、之を皇孫命《すめみまのみこと》に奉還し給いし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。「随筆」『神霊界』

…『顕の顕神』は、天先ず定まり地成って後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給いし…「皇国伝来の神法」『出口王仁三郎全集第一巻』

全世界が日本であった…ということを思わせる主旨の聖師の記述は、私たちの常識を超えます。太古に日本という国名はなく、使用されたのは大化の改新より後であると考えられる…。しかし日本「日《ひ》」の「本《もと》」の国が「霊《ひ》」の「本」、「ス」の「本」、「皇《す》」の「本《もと》」であるという聖師の見解からみると、豊葦原瑞穂国、全世界が主神、神素盞嗚大神の「本」にあるわけだから「主」「ス」「日」「皇」「霊」の「本」の国で矛盾はないわけです。そして、方舟図の「ス」の位置が豊葦原瑞穂国、中津国の日本となります。メソポタミア地方も同様に豊葦原瑞穂国中津国といいますが、それは、「メソ」=「水」、「ポ」=「穂」、「タミ」=「民」、ア=「国を表す接尾語」合わせて「瑞穂民国」というわけです。

九枚の紙を使用して表す孝明天皇(セーラン王)直伝の切り紙神示、聖師のスの拇印を得て、はじめて日本の「日」と「皇」に主神が入り、文字が完成します。米国は殻、体《から》の国ゆえに、文字に「ス」が必要なく、米国と国名が完結しています。「主」「ス」を担う日本国と、「ス」を奪う謀みの米国との戦争が太平洋戦争でしょうか。

●神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る

序 この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁《ばっこちょうりょう》せる八岐大蛇《やまたのおろち》を寸断し、ついに叢雲宝剣《むらくものほうけん》をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまいし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われ来ることも、あながち否《いな》み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑《なおざり》に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。

読者諸子のうちには、諸神の御活動にたいし、一字か二字、神名のわが姓名に似たる文字ありとして、ただちに自己の過去における霊的活動なりと、速解される傾向ありと聞く。実に誤れるの甚《はなは》だしきものというべし。切に注意を乞う次第なり。大正十年十月廿日 午後一時

於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌

「大正十年十月廿日 午後一時」というのは、本宮山神殿破壊のまさにその日時です。大正時代の大本機関誌「神霊界」に聖師が執筆された「掃き寄せ集」(大正十年一月一日号所載)の中で、切紙神示が「切紙宣伝」として紹介されています。「さてこの二大勢力が衝突するのは何時かとみると明らかに大正十年九月二十日午後一時と出る」とあるのです。

「神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る」とういうのは、まさに二大勢力の衝突、本宮山神殿破壊のことでしょう。神殿破壊のその時に、聖師は「序」『霊界物語』を口述された。一審判決が出てから三日目の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎に対し、「明治三一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があり、大正十年(一九二一)旧九月十八日に『霊界物語』の口述が始まりました。それは最後の審判が開かれた日であり、それを恐怖する悪魔の妨害工作が本宮山神殿破壊につながったもの。

その根拠は、「国難は国福なり」『真如の光』に「九月八日の仕組み、先ず第一着に満州事変が起こる」と記されていること。聖師は「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した『霊界物語』のことである」とも昭和六年十月十八日旧九月八日に示されており、最後の審判が開かれたことが、ちょうど十年後の皇紀二五九一《じごくはじめ》年、昭和六年(一九三一《いくさはじめ》)九月十八日勃発の満州事変の型になったことがわかります。

●「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」

『霊界物語』は、東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補う。隠された秘密を明かす純粋の現界の史実、しかも似た文字があったとして速解してはいけない…

『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。

たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫《やすだらひめ》とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。

それはともかく、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。なぜなら、『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。

八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参《ちょうさん》をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたい...こと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。

ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。

八月二二日、関白九条尚忠《ひさただ》はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女《むすめ》を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。

孝明天皇の准后夙子《じゅごうあさこ》(幼名基君《のりぎみ》、諡《おくりな》・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。

弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁《おさひと》親王(孝明天皇)に配する后《きさき》を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。

翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚《せんそ》、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内《じゅだい》する。大雪の日であった。牛車《ぎっしゃ》で九条邸を出る夙子は十二単衣《ひとえ》を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣《むつき》を着てつきそった。廣子《ひろこ》(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。

この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。

いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と皇妹《こうまい》和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。

翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。

和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼《きょうく》のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引《えんいん》の御沙汰《さた》になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。

八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭

二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走《ほんそう》の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか。

■皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、孝明天皇と岩倉具視 『霊界物語』四一巻の謎を解く(一)

●四十一巻は、東西両洋における古典や神話に漏れたる、幕末維新の真実を暗示した!

冒頭に『霊界物語』四一巻の序文を引用します。

序文 そもそも我国に伝わる古典は、すべて豊葦原瑞穂国〈地球全体の国土を言う〉(図一)の有史以前の伝説や考量を以て編纂されたものもあり、有史以後の事実を古文書や古伝説なぞを綴《つづ》り合せて作られたものもあって…ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞《きんげんぎょくじ》もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。大正十一年十一月七日「序文」『霊界物語』四一巻。

出口王仁三郎聖師は、『霊界物語』四一巻序文において、…過去における歴史もあり…『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したもの…としています。この文が四一巻に記載されたということは、この巻にこそ、日本の歴史に漏れたる点、そして神業においてもっとも重要な点を記載したという謎と考えます。

「試に世界地図を披《ひら》いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。その如何に類似し、その同一典型に出でたるかの俤《おもかげ》を認むるに難からざるかを。

世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容を甚しく変化せしめてはいるが、神誓神約の太古の趣は、髣髴《ほうふつ》として之を認めるに難からざる次第である」「宗教と政治(二)」『神霊界』

豊葦原瑞穂国中津《とよあしはらみずほのくになかつ》国は、「ス」神の国

「ノアとナオとの方舟図」です。この方舟には、五大州が割り振られていることから、豊葦原瑞穂の国が全世界という定義でいえば、まさに「豊葦原瑞穂の国」を示しています。ここが肝要ですが、その中心にあるのは、中津国、日本を示すはずです。すなわち、「ス」の本《もと》の国、「ス」とは「主《す》」であり、「日」ですから、「ス」神の中心におわす日の本の国、日本を示します。そして、日本は「霊《ひ》」の本の国であり、霊主体従の身魂を霊《ひ》の本の身魂と言います。主の大神とは、「神素盞嗚大神《かむすさのをのおおかみ》」を示します。その根拠については、別の号で示します。なお、全体を空間として天火結水地を縦にみれば、地球、あるいは宇宙空間を示しています。

なお、一般には豊葦原瑞穂国は、日本国のこととされています。しかし王仁三郎は地球全体のこととしています。神霊界では…大国主命が豊葦原瑞穂国〈全世界〉を統一し、之を皇孫命《すめみまのみこと》に奉還し給いし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。「随筆」『神霊界』

…『顕の顕神』は、天先ず定まり地成って後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給いし…「皇国伝来の神法」『出口王仁三郎全集第一巻』

全世界が日本であった…ということを思わせる主旨の聖師の記述は、私たちの常識を超えます。太古に日本という国名はなく、使用されたのは大化の改新より後であると考えられる…。しかし日本「日《ひ》」の「本《もと》」の国が「霊《ひ》」の「本」、「ス」の「本」、「皇《す》」の「本《もと》」であるという聖師の見解からみると、豊葦原瑞穂国、全世界が主神、神素盞嗚大神の「本」にあるわけだから「主」「ス」「日」「皇」「霊」の「本」の国で矛盾はないわけです。そして、方舟図の「ス」の位置が豊葦原瑞穂国、中津国の日本となります。メソポタミア地方も同様に豊葦原瑞穂国中津国といいますが、それは、「メソ」=「水」、「ポ」=「穂」、「タミ」=「民」、ア=「国を表す接尾語」合わせて「瑞穂民国」というわけです。

九枚の紙を使用して表す孝明天皇(セーラン王)直伝の切り紙神示、聖師のスの拇印を得て、はじめて日本の「日」と「皇」に主神が入り、文字が完成します。米国は殻、体《から》の国ゆえに、文字に「ス」が必要なく、米国と国名が完結しています。「主」「ス」を担う日本国と、「ス」を奪う謀みの米国との戦争が太平洋戦争でしょうか。

●神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る

序 この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁《ばっこちょうりょう》せる八岐大蛇《やまたのおろち》を寸断し、ついに叢雲宝剣《むらくものほうけん》をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまいし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われ来ることも、あながち否《いな》み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑《なおざり》に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。

読者諸子のうちには、諸神の御活動にたいし、一字か二字、神名のわが姓名に似たる文字ありとして、ただちに自己の過去における霊的活動なりと、速解される傾向ありと聞く。実に誤れるの甚《はなは》だしきものというべし。切に注意を乞う次第なり。大正十年十月廿日 午後一時

於松雲閣 瑞月 出口王仁三郎誌

「大正十年十月廿日 午後一時」というのは、本宮山神殿破壊のまさにその日時です。大正時代の大本機関誌「神霊界」に聖師が執筆された「掃き寄せ集」(大正十年一月一日号所載)の中で、切紙神示が「切紙宣伝」として紹介されています。「さてこの二大勢力が衝突するのは何時かとみると明らかに大正十年九月二十日午後一時と出る」とあるのです。

「神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来る」とういうのは、まさに二大勢力の衝突、本宮山神殿破壊のことでしょう。神殿破壊のその時に、聖師は「序」『霊界物語』を口述された。一審判決が出てから三日目の十月八日(旧九月八日)、王仁三郎に対し、「明治三一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があり、大正十年(一九二一)旧九月十八日に『霊界物語』の口述が始まりました。それは最後の審判が開かれた日であり、それを恐怖する悪魔の妨害工作が本宮山神殿破壊につながったもの。

その根拠は、「国難は国福なり」『真如の光』に「九月八日の仕組み、先ず第一着に満州事変が起こる」と記されていること。聖師は「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した『霊界物語』のことである」とも昭和六年十月十八日旧九月八日に示されており、最後の審判が開かれたことが、ちょうど十年後の皇紀二五九一《じごくはじめ》年、昭和六年(一九三一《いくさはじめ》)九月十八日勃発の満州事変の型になったことがわかります。

●「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」

『霊界物語』は、東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補う。隠された秘密を明かす純粋の現界の史実、しかも似た文字があったとして速解してはいけない…

『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。

たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫《やすだらひめ》とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。

それはともかく、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。なぜなら、『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。

(1) 台湾有事をめぐる答弁

 11月21日の東京新聞は高市総理の「台湾有事をめぐる答弁」を引き出した岡田克也・立憲民主党のインタビユーを掲載している、これは高市総理の発言ではなく、それを引き出した岡田克也議員の質問に非難が集中している動きがあることによるのだと思われる。高市発言が中国の反発(制裁など)を招いたことの批判を高市発言に対してではなく、その質問をした岡田克也に向けられる、簡単に言えばお門違いの批判である。岡田議員への批判はおかしなことだということを批判者は分かっているのだ。彼らは批判さるべきは高市だが、批判はしたくない、むしろ擁護したいと思っているのかも知れない。さりとて、中国批判も高市の発言の擁護するのも難しいから、質問者の岡田議員に批判が向けられたのだと思う。誰がみても、こういうお門違いの発言が流通していくことが問題である。ここには中国批判が分けの分からないうちに世論として形成されている動きがあるのだと思える。世界的に大国の国家主義(新帝国主義)がせり出してきて政治的な国家主義的な対抗が連鎖反応として出てきている。一般には右傾化とか、タカ派的動きといわれるが、これは国家主義的動きで、それがメディアも含めて広がっているのだと思う。ここは非常に危うい問題がある。少し歴史を振り返ればよくわかる。加藤陽子は『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を書いているが、戦争には国家主義に同調し、押し上げて行く国家やメディアの動きと、人々の動きがある。外の動きに対する恐怖と対抗、内での恐怖の共同性の広がり、これが国家主義(ナショナリズム)の発現(戦争)だが、そういう兆候があるのだ。僕等はこの動きに拮抗しなければならない。

高市発言よりもそれにたいする中国側の動き(領事の発言や制裁)にたいする反発が対抗的に形成され、その対抗感情は怖れなどを伴うと加速されるところがある。何が問題か、対立の理由など関係なく、対立が拡大していく。対立の理由が曖昧だからこそ、対立は加速していく。これは共同幻想としてのナショナリズムが高まっていくことでもある。眉唾ものだといわれても、歴史の渦中ではそれはなかなかわからない。これは国家主義が強まる時代の国家対立の傾向だが、日中関係はそういう関係の端緒にあるといえる。これにはウクライナ戦争以降の世界の動きが反映しているのである。

 僕らは、高市発言を、それが中国の反発を招いたことも含めて何が問題なのか

をはっきりと認識し、この対立が加速して行くことを阻止しなければならない。誰もが中国との戦争なんてあるまいと思っているのかもしれない。その理由がないではないかと思っている。そこを明瞭にしていくには国家の運営担当者(権力)の意向と形成される世論というのが大事で、事態は逆の方向に向かいかねないと思っている。そのためにはまず高市発言についてきちんと把握することが大事である。高市の11月7日発言の質問をした岡田克也はつぎのようにのべている。

 「安全保障関連法や当時答弁で相当限定した場合でしか存立危機事態に該当しない、ということがはっきりしている。『台湾有事は日本有事』とする安倍晋三元首相や麻生太郎副総裁の発言を聞くと、非常に限定のないものとして、安易に存立危機事態になると言い過ぎているという問題意識があったので、首相自身の見解を確認したかった」(11月21日(金)、東京新聞)

 安保法制で規定した存立危機事態を安倍や麻生は曖昧に(特に台湾有事について)振り回しているので、高市総理にその見解を聞きたかったというわけである。台湾で中国(台湾政権と中国政権)の間で武力紛争があるとすれば、これは存立危機事態に該当するのか、ということだ。外交関係の見地から、ここは曖昧にしか答えてはいけないということがあるのだろうが、自民党の首脳は曖昧にしか考えを持っていない。外交上、曖昧にしか答えてはいけないということと自民党の首脳が曖昧な答えしかないことは別である。ただ、安倍や麻生が「台湾有事は日本の有事」という見解を口にしていることは、存立危機事態に該当するということを言っているのだと思う。これは自民党全体の見解ではないが自民党には台湾有事という言葉で中国と台湾の武力紛争が存立危機事態に該当するという見解を持つものがいて、安倍政治の継続を語り、麻生を副総理にした高市なのだから、それをただしたということである。この質問に対して高市はこう答えた。

 「高市氏は政府の模範解答をくりかえしていたのに、突然『戦艦を使って武力の行使もと伴えば、どう考えても存立危機事態になり得る』と発言した。これで最初に議論したはずの制限が全部とんでしまった。台湾有事についても限定した場合しか、該当しませんという答弁を期待していたので、『どう考えても』という表現に非常に驚いた。聞いてもいないのに。北京政府がどうこうという議論を展開し、はっきり言って理解に苦しんだ。まずいと思って、すぐに話題をかえた」(11月21日(金)、東京新聞)。

 岡田議員は外交的な発言を期待したのに、高市は台湾に対して北京政府が武力行使をすれば、存立危機事態になるというところに踏み込んだ答えをしたわけだ。存立危機事態ということは曖昧である。他国が武力侵攻された時、それが

日本の存立危機事態の場合ということだが、安保法制では限定的ということで

曖昧にされてきた。存立危機事態は、元々は日本の憲法解釈に妥当する範囲で考えれば日本が侵略された事態ということになるのだが、この言葉は侵略された事態以外のこととして提起されたのだから曖昧になるほかなかった。元はいえば集団自衛権の行使もこれに日本が侵略された場合に限定されていた。海外で他国が軍事侵攻をうけたからと言って日本が参加することは否定されていた。集団自衛権への参加の要請を受けても、憲法の制約上、参加できなかった。それは戦後の日本が海外での軍事行動を否定してきた根拠になってきた。

安倍は他国が武力攻撃を受けた時に、集団自衛権行使で加われるように、この制約を破るべき解釈を変えた。そうなれば、集団自衛権行使ができる場合の規定が必要で、それが存立危機事態であるが、この規定は曖昧だった。曖昧であるほかなかった。それは、存立危機事態の解釈如何でとんでもない方向に向かうかもしれないが、解釈で歯止めをかけようとするものだった。この法案自身が憲法違反だという指摘もあり、僕もそれに賛成であった。これを推進した安倍はこれを海外の軍事行動に使えるようにしたかったことは事実だ。その意味では台湾が中国から武力侵攻を受けた時,存立危機事態に該当させたいと思っていたと推察される。憲法の規定は日本が侵略された時に自衛として軍事行動が許されるということだから、台湾への中国の攻撃を日本ヘの侵略とはみなせないわけだから、存立危機事態とみなせないはずというのは一般的な解釈でもあった。安倍や麻生は「台湾有事は日本有事」として、存立危機事態に該当すると主張してきた。高市は安倍を受け継ぎ、麻生を服総理にしているのだから、彼らの見解と同じ、中国の台湾への武力行動を存立危機事態に該当するとした。日本が他国に侵略されたことを超えて日本が武力行使できる範囲を広げたかったのかもしれない。専守防衛という枠を超えて軍事展開ができることを安倍は考えた。安保法制では公明党もいて、存立危機事態という曖昧な表現になったが、高市は中国と台湾の紛争は存立危機事態として、自国が侵略されることでもないのに、武力行使がしたい(する)という本音を語ったことになる。

高市は北京政府の台湾での武力行使は日本にとっては存立危機事態とみなすということだが、これは日本の防衛政策として枠を超えたものであり、危険の方向だ。高市らはこれを「従来からの政府の方針」というが、勝手な解釈というか言い分である。中国と台湾の武力紛争をどう認識し、対応するかには明りょうな考えは必要だ。この見解が曖昧だったことも確かである。これについて僕の考えはあるが、それは後で述べる。ただ、北京政府の台湾併合問題は中国の日本侵略ではないことは明白であり、存立危機事態でもないことは明白であり、日本が集団自衛権の行使として軍事行動をすることは間違いである。中国の軍事的動きにアメリカが介入し、そのアメリカに集団的自衛権の行使として日本が加わる。今度の高市の発言はこのことを念頭にしたものだと思われる。そのためには存立危機事態に該当すると言ったわけだ。なぜ、存立危機事態に該当するのか、高市は説明していないが、中国と戦争になってもいい、それは当たり前という考えが高市にはあるのかもしれない。どう考えても存立危機事態には該当しないといいうのが普通だろうと思う。

トランプ大統領が台湾問題で軍事行動を起こすかどうかは分からないが,その中国に対する対立(敵対)意識から見ると考えられないではない。その場合に、アメリカは日本に参戦を要求するだけではなく、日米対立の変わりに、日中の対立を、つまり日本と中国を戦わせようとするかもしれない。アジア問題はアジア自身で解決せよということだが、日本を先頭にして中国と闘わせるのだ。これは十二分に考えられることだ。一番、警戒しなければいけないことなのに高市はトランプに迎合し、その先棒をかずこうとしている。

 「非常に問題のある発言、日本が集団自衛権を行使すれば、当然相手も反撃してくる。自衛隊員や日本国民にも擬制が出るかもしれない。そうした事態はぎりぎりさけなければいけない。戦争を始めることになる存立危機事態に簡単に該当するというな、というのが私の主張だ」

 台湾問題に対して、日本が軍事的対応をするということは、戦後の日本が侵略された場合の以外は軍事行動をしないという枠組み(専守防衛)を超えることである。その枠組みを超えようとして出てきたのが存立危機事態という概念であり、集団自衛権行使の憲法解釈の拡大である。いずれも安倍晋三の生み出したものだが、安倍政治の継承をうたう高市にとっては当たり前の事かもしれない。戦後の日本は朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などアメリカの集団自衛権行使の呼びかけを断ってきたが、台湾問題ではその枠組みを破ろうとしているのだ。ここには日本の憲法下でも国際紛争に対する対応(日本はそこに加わらない)ということを一国平和主義として批判し「積極的平和主義」を主張した安倍晋三の考えがある。いずれにしても、台湾をめぐる武力紛争を存立危機事態に該当するという高市の発言は日本の国家の防衛方針(専守防衛路線)を踏み外れたものだし、危険なものである。その意味では岡田氏の発言は妥当である。

(2)  台湾有事ってどういうことか

 ここで僕らが検討しなくてはいけないことは「台湾有事」をどう考えられているのか、どう考えたらいいかということだ。「台湾有事」とは一般に僕らがイメージとして持っているのは、中国政府の台湾の武力併合である。ロシアのウクライナ侵攻と重ねて考えられている。

「最初に指摘しておきたいのは、習近平にとって<台湾統一>のレガシーとはいわゆる軍事的制圧―人民解放軍が台湾に上陸し、台湾総統府を占領し、中国国旗<五星紅旗>を総理府に掲げることーでは必ずしもない、ということだ。この点について、日本のメディアが多くの日本人専門家の認識は根本的に間違っている。中国が考えているのはそんな単純なことではない。」(垂秀夫 『日中外交筆録』

 一般的に流布されている「台湾有事」とはこういうイメージであり、高市発言もこのイメージに乗ってなされている。おそらく、この中国の台湾併合には台湾側の抵抗があり、それにアメリカが軍事支援として加わるということでもいい。そこで日本はどうするかであり、日本は集団的自衛権行使としてこの戦争に関わるというのが高市発言だ。

中国大使を務めた垂秀夫はこれに対して、こういう認識は間違っているという。彼も武力侵攻を否定はしていないけれど。習近平が中国と台湾の平和統一とはもっと違ったものであると指摘する。ここは注目していい見解であると思う。彼は習近平が台湾への武力侵攻は当面(短期的・中期的)にないだろうと予測(分析)する。垂は習近平の「平和統一」を警戒せよというのだが、これは後に触れるとして、なぜ彼が台湾ヘの武力行使がない理由として短期的要因と中長期的要因を挙げているのを見てみよう。

 「なぜ中国は台湾への武力行使に容易に踏み切らない(踏み切れない)のか、<短期的要因>と<中期的要因>に分けて解説しょう。短期的要因のうち最も大きいのは、経済的要因である。(中略)これほど経済が悪化しているときに台湾に武力行使をすれば、ただでさえ外国企業に直接投資が二〇二三年,二〇二四年と大幅減なのに、国際社会から経済制裁を受け、外資が一斉に中国から逃げ出す。さらに兵士や兵器の投入で莫大な戦費コストがかかるため、中国経済が取り返しのつかない大打撃を受けるのは必至だ。(中略)そもそも、習近平は、経済発展よりも<国家の安全>を優先し、表面的には社会は安定していると認識している。ならば経済の不満をそらすための戦争など、なおさらありえない」(垂秀夫 『日中外交秘録』)

 経済的な不満を逸らすために武力行使に踏み切るのではないか、とか、タイムリミットがあって武力行使に踏み切るのではという観測もあるが、経済的にあり得ないという垂の見解は説得力があると思う。

 「中長期的要因としては、政治体制の違いがある。民主主義でやってきた台湾人は、自由のない共産党体制に飲み込まれてしまうことに対する恐怖と危機意識が相当強い。台湾人の反感と抵抗を抑えて統治していくのはどれほど大変か、疑いの余地はない。仮に一時的に占領しても根強い抵抗状態が続けば、大陸内でも共産党独裁に反発する勢力が力を得て、共産党政権が崩壊しかねないほどの危機に陥る可能性も否定できない。武力行使という選択肢は、中国共産党の自壊に直結するおそれがあるのである。」(垂秀夫 『日中秘録』)

 この見解は分かりにくい中国の動きを明瞭にしてくれる。そもそも、「一つの中国」ということ、それに向かっての動きが分かりにくいのだ。中国大陸と台湾に二つの政権ができ、それが戦後長年にわたって存続してきたが、その政権もまた「一つの中国」もいろいろの変遷がある。毛沢東政権、つまり共産党政権が成立し、大陸からにげた蒋介石は台湾で国民党政権を存続させた。中華人民共和国と中華民国が成立した。この国家はそれぞれの相手の政権の打倒をめざした。二つの政権を一つの政権へということであり、二つの政権と二つの中国ということを一つの中国へということであった。毛沢東も蒋介石も自己政権による中国の統一をめざしたわけである。この対立は中国における近代革命(近代国家)上の問題であったが、ここには世界的な社会主義国家圏と自由主義国家圏の対立が関係していた。戦後過程で、蒋介石の大陸反抗(共産政権打倒と中華民国の中国へ)という動きは現実性がなくなった。そして、中国の台湾の併合も棚上げ状態になった。(鄧小平による一国二制度の容認)。また、世界も中国と台湾への関係について大きく変わった。日本は国交回復し、中国の共産党政権を中国の代表と認めたし、アメリカもそうであった。戦後のこの二つの政権の問題は変遷を重ねてきたが、現在は共産党政権による統一(一つの中国)ということが残っている。こういうことを中国も表明してもいる。だから、台湾有事という言葉ものこっている。

垂秀夫は短期的要因・長中期的要因をあげながら中国は武力行使をしない(しえない)と分析している。平和統一のほうを警戒すべきだというが、中国の台湾の併合ということが消えたわけではない。

高市が中国の武力行使を念頭にしてそれを存立危機状態に該当するとしたことは、当面の動きの判断としても間違っていると思う。高市には垂の情報は入っていると思われるから、それは承知のうえでの発言だと思う。高市には中国の体制や動きに批判があって、台湾有事を利用して表明したのだと思える。反中をいうことで政治的支持に結びつけようとした政治的な発言だ。これにたいする中国側の反発と制裁も極めて政治的だ。

高市は自身の発言がこんな騒ぎになるとは思わなかったのであろうが、反中国の立場を表明したかったのだと思う。これにはアメリカ(トランプ)対中国意識が関係しているのであり、それを代理しての発言ともみてとれないでもない。

台湾有事についての明確な認識や見解を持ってのことではない。だから、存立危機事態に該当するのかだって明確な説明はできないのだ、台湾ヘの中国の武力行使があれば、アメリカは台湾側を支援する軍事行動にでる、それに日本は加わるべきだという考えがあってのことに過ぎない。アメリカの反中意識に加わり

自己の反中意識を披瀝したに過ぎない。政府の立場にいれば、普通の人がみえない中国の動向がみえるはずで、それを踏まえていれば出てこない発言である。

 垂が提示しているように、中国の武力行使はないという分析は示唆的だが、それは消えたわけではない。だから、その動きを僕らがどう認識するか、という問題はある。そして、これは習近平下の中国の評価ということにも重なる。中国の統治権力の評価である。

確かに鄧小平の路線になった時に中国の政治(体制)路線は変わった。社会主義国家(プロレタリア独裁による統治国家)の形成という毛沢東路線は変更になった。それは経済重視路線であり、先ほど述べたように台湾に対する戦略も一国二制度の容認にかわった。ただ、鄧小平は毛沢東の政治路線を棚上げにして封印

しただけだったこともある。鄧小平の後をついだ面々は概ね彼の路線を引き継いできたが習近平はこの鄧小平路線の修正をめざしている。ただ、この中身は明りょうではではない。習近平は鄧小平路線を変更したことを垂秀夫は「国家安全」路線へと語っている。ここで習近平は再び台湾統合問題を強調もしている。ただ、毛沢東路線のように社会主義国家の建設ということで台湾統合を論拠づけていないことも確かだ。だから、台湾の独立の動きを警戒している。蒋介石の国民党支配下で台湾は大陸にその拡大(大陸反抗)を目指していたが、これは消えて台湾の自立(独立)の動きが出てきている。こういう動きをにらんで「一つの中国」は台湾の独立の動きの阻止になっているが、その場合の論拠は明確ではない。中華民族の統一ということは共産党の統治(共産党独裁体制)による台湾併合とは結びつかないからである。習近平は中国共産党の統治主体の正統性の確認に苦慮していると言われ、毛沢東を踏襲せんとしていると言われる。その場合の毛沢東は革命後に文化大革命まで進めた毛沢東ではなく、抗日戦争を指導した毛沢東ということになっている。このことは習近平が日中戦争の問題を持ちだして人々の反日意識を高めようとしていることに関わる、ここでは、台湾統合というのは毛沢東路線のように明確ではなく、国民の支持ももう一つだということがあるように推察できる。このために掛け声とは実際はうごけないのだ、と垂は分析している。

(3)台湾への中国の武力行使

ここで再び垂秀夫が、習近平が台湾への武力行使に踏み切らない(踏み切れない)要因として分析しているところに戻りたい。彼が指摘しているのは武力行使に踏み切れない中国の内部事情としての中国国民の共産党統治への反発をあげている。僕は逆に、中国での共産党統治への不満が高まる場合にそれを逸らすために、台湾への武力行使があるとかもしれないと想定しているが、それは中国の共産党にとってはかけみたいなところがあるともみている。台湾への武力行使にたいしては天安門事件のような闘争が中国国内での反発として起こりかねないということである。鄧小平の路線は毛沢東も社会主義路線の混乱を救ったが、共産党の支配力は減衰している。台湾の政権は国民党からの脱却もあり、国民的基盤(民主的基盤)としては強まっている。そして武力行使のだんだん難しくなっているとも考えられる。ここにいくつかのヒントというか、暗示があると思う。

 中国の台湾に向けた武力行使を止めるのは台湾と中国大陸の住民(中国国民)の意向(抵抗)とその動きにかかっているということである。それは中国の統治権力としての共産党独裁の行方に鍵があり、その意味ではこれは日本の存立危機事態などと関係ないのだ。この場合に中国の武力行使に抵抗する地域住民の支援をどうするかという問題がある。アメリカや日本が中国に対する対立意識があって、それが主体として関わればそれはアメリカや日本との国家間戦争になるし、それは台湾への中国の武力行使という問題を別の問題にしてしまうのである。高市だって中国の台湾への武力行使に対して地域住民(中国国民)の抵抗への支援ということがあり、それでアメリカや日本の軍事介入を構想しているのかも知れない。それは問題を違った方向に導く。それを支援で軍事介入すれば、日中戦争にしてしまう。台湾に対する武力行使は日本が侵略されることでは中国の武力行使は基本的には中国における統治権力の問題であり、中国の国民(地域住民)が解決すべき問題である。これは中国における統治権力のあり方であり、その決定は中国国民にまかせるしかない。このところを踏まえて、どのような支援が可能かをかんがえるしかないのであり、高市の介入は安易すぎるのである。日本と中国の戦争になることを避けながら、中国国民の抵抗を支援するというのは難しいかもしれないが、そこは考え抜いてやるしかない。

僕は中国が台湾に向けた武力行使したなら、それに抵抗する中国(台湾を含む)国民を支援する。そこには現在の中国の共産党独裁という統治権力にたいする批判がある。中国における統治権力が国民の自統治権力として、国家主体の権力であることを望む。しかし、このことは中国の統治権力は中国国民が決定することに変わりはない。習近平下の中国の統治体制を独裁的・専制体制として批判するし、それと抵抗する人と連帯し、可能な限りの支援をするし、それを追求するこれは中国との関係が自由で平等な関係になるためでもある。

中国が台湾に武力行使したとき、中国の行動に反対して日本国家が軍事介入することには反対する。武器の援助まではいいと思うが、国家の行動には反対である。それは問題の解決をあやふやにし、国家間戦争にいたらしめるからだ。だから中国の台湾への武力行使を「台湾有事」とし、それを日本有事とすることに反対する。垂秀夫は中国の台湾武力行使を困難だろうと分析し、習近平の「平和的統一」を警戒する。そして、それが本当に「台湾有事」だという。そして、台湾有事とは日本の安全保障を危うくするという。この発言には疑問がのこる。なぜ、台湾と中国の統一が日本の安全保障の危機なのか。納得のいく説明がないからだ。憶測すれば垂は独裁的統治権力(専制的統治権力)が戦争を生みだす根拠になるといいたいのかもしれない。僕はそう思っている。ただ、中国に対するこの発言は外交官であった垂が持たざるをえなかった制約だと僕は推察している。この問題は独裁的権力への批判であり、中国の共産党独裁への批判でもあるが、これは同時に日本の統治権力のあり方に対する視線でもある。

高市の中国批判にはこれがあるのかも知れない。「自由や法の支配」というのは中国批判の言葉であるからだ。ただ、高市はこの理念を衣装や看板ではなく、これを身について思想として持っていると言えない。そうならば、専制的なトランプに対して批判的な態度を取っていいと思う。そう考えるのが普通だろう。習近平とトランプを独裁的、専制的存在として同時的に批判しなければ高市の「自由や法の支配」なんて方便以上のものにすぎないことになる。かつてなら反社会主義という対抗概念で自由や民主を言えた。高市には反社会主義【反中国】という林縁が惰性のようにあり、それを反中と親トランプで表しているのかもしれない。でもこれは看板や衣装で本当のところは伝統的な国家主義(保守主義)に

回帰しているのではないか。それが安倍政治を引き継ぐ実態である。だから彼女の反中意識は国家主義的な反中意識である。

 今回の高市発言に対して日本国民の反応として結構支持が高いと報じられている。これには中国も驚いているという報道もあるが、これは参院選挙での参政党の躍進もあったように、国家主義が台頭し、トランプも専制化する事態の中で国家主義的な反発が広がっていることがあると思う。歴史を振り返るという国家主義の台頭と角錐が激化すると、国家もメディアも国民も国家主義的な対応に走る。国家主義に抗する動きはなかなか困難になる。それは国家やメディアの独占力が大きな力を占めるからだが、国家主義に抗し、それを超えていく道筋というか論理が見えにくいことがある。細くなっていくのだ。「台湾有事」という問題もそういう傾向を持っている。本当のことが見えにくく、曖昧なことが政治的対立の契機になってしまう。

安倍晋三は「積極的平和主義」のもとに軍事介入することを考え、そのために集団自衛権の行使を拡大までした、安倍は自衛隊が海外戦闘をする機会を考えてきた。それは、自衛のための戦争という戦争の制約を超え国家がその意思通り自由に戦争できることができるための必要な経験であった。この経験に寄らなければ侵略された場合以外の軍事行動は否定されることを超えられないと考えてきたからだ思う。その安倍の願望をPKOで派遣された自衛隊は戦闘を否定して拒否した。これは自衛隊員の意識に戦争の制約の意識がそれなりにしみ込んでいるためである。戦後史が生んできた数少ないよきことだ。高市は安倍のこの戦争についての考えを受け継いできたが、それを台湾問題で漏らしてしまったのであろう。これは中国に反発されるのは当然だが。それよりまずもって、日本の国民が批判しなければならないことだ。