熾仁親王が世祢に渡した短冊の裏 (2-2最終回)

●悲劇の皇女和宮は口封じに殺された?

『明治天皇紀』によれば、孝明天皇の崩御は慶応二年(一八六六)十二月二五日であるが、年明けてまもない慶応三年正月十日には、「先帝に侍したる典侍、掌侍等にその勤士の年数に応じて各々金千両以上を支給し、相応の家に嫁せしめた」とある。ずいぶん手回しのいい話である。

睦仁を知っている女官に口止め料千両とよい嫁ぎ先を確保し、追いだしたのである。そして朝廷はさっさと千年の都を捨て、秘密を知る者もない新天地東京へと移動した。この時代、天皇と接触するものはごく少数の側近だけだったから、その口さえ封じればとりあえずは可能だった。

公卿たちにしても、ようやく倒幕なったいま、余分な詮索をして再び「公家諸法度」で縛られる身になるよりは、積極的に新政府に協力して地位を確保したほうが得である。

熾仁にしても、いまさら引き返すには、事ここに至った事情を知りすぎ、深入りしすぎていた。本当に欺瞞を暴露するのであれば、自らが玉として立たねばならず、そうなればせっかく平和になった日本を再び内戦に突入させることになる。それこそ南北朝時代に逆戻りであり、もともと権力欲のない熾仁にはこれ以上の流血を引き受けるだけの度胸はなかった。

だが、和宮を納得させ、因果をふくめることは困難であったろう。彼女には失うべきものはなにもない。朝廷と幕府の取引材料として許婚との仲を裂かれ、無理矢理に徳川家に嫁がされた。幸いに夫の家茂はやさしく、いつのまにか愛情も芽生えた《王仁三郎は否定》が、わずか数年でその夫を毒殺され、さらに兄孝明天皇も不審な死を遂げた。和宮は本物の睦仁を知っている。幼少時の記憶だから、すぐには見抜けないかもしれないが、近くで言葉を交わし、京都宮廷時代の思い出話にでもなればどうだろう。

明治二年、和宮が江戸城に参内したという記録がある。まだ宮廷が西欧式になる以前である。伯母といえども臣籍に降嫁した身であるから、天皇は御簾の奥から形式的に対応して事なきを得たかもしれない。だが、西欧式の皇帝として売りだし、国民に御真影を頒布し、天皇が御簾から出てくる段階になると、そうはいかない。すでに和宮は、女の直感で不審に思い、真相を究明しようとしていたのかもしれない。

匿名婦人の投書のように明治四、五年ごろのことなのか、あるいは明治十年のことなのか。とにかく、孝明、睦仁を暗殺したグループが和宮に狙いを定めた。おりしも西南戦争で、熾仁親王は大総督としてかつて共に戦った西郷隆盛を追い詰めていく。東京を留守に……。八木清之助は胸騒ぎを感じた。和宮様が危ない。

清之助は、江戸が東京となったころ、故郷へ帰り、隣村から妻・古松をめとり、三女にも恵まれた。そのころから筆の行商を始めた。清之助が最初に中間奉公にあがった宮家とは、おそらく有栖川宮家であろう。有柄川流書道は代々皇族華族に浸透していたから、清之助の商いもその関係で始めたものにちがいない。

筆の行商であれば、どこへ行っても怪しまれず、宮家、華族、政府高官たちへの出入りも自由だ。清之助が維新後も熾仁親王から頼まれて、さまざまな情報収集にあたっていたとすれば、たんなる胸騒ぎではなく、和宮が危ないという情報を得たのかもしれない。

「トコトン殺《ヤ》レ、トン殺レナ……」の歌が無気味に聞こえる。血のさわぐまま、清之助は旅立った。一路東海道をひた急ぐ。和宮の行列が箱根にさしかかったとき、岩倉具視らは賊と手はずを整え、呼応していたのだろう。ただの山賊ではない。御輿を放りだして供の一行が逃げ散った後、賊は和宮に斬りつけた。血しぶきをあげて左手首がとぶ。護身の短刀を右手にひと突き、和宮はわが胸を刺す。

清之助が現場に着いたときには、すべては終わっていた。悲憤と絶望から自害して果てた和宮の左手首を拾って、清之助は密かに箱根を下った。左手首を彼に託したのは、いまわの際の和宮自身だったかもしれない。

西郷隆盛を城山で(明治十年)自刃させ、歓呼のなかを凱旋した熾仁親王に、和宮の死が待っていた。死の真相は清之助が告げたであろう。衝撃と悲しみから熾仁は割腹を思った。

割腹しなければならない表の事情などまったくないはずなのに、維新の真実を知ったいま、私(禮子)はそれを素直に受け入れられる。やはり、ただでは死ねなかったのだ。きっと割腹はそのときから覚悟しておられたのだろう。ゆるされて孝明帝や睦仁親王、それに助けることもできなかった和宮の御霊の前に立ちたいがために。

昭和十二年(1937)九月十二日、八木清之助が逝く。九二歳。折しも第二次大本事件の最中であった。その大本事件の要は、実は「十二段返し」である。さりげない十二行十二段の宣伝歌のなかで四段目は「あやべにてんしをかくせり」、八段目を逆にたどると「いまのてんしにせものなり」と読める。これは、王仁三郎が大日本帝国につきつけた刃だったのだろうか。治安維持法違反無罪。不敬罪五年。未決入牢六年八か月。出口王仁三郎はうたっている。

「鬼の首切って渡すと誓いたる人の掌返す濁り世」

多くの「たるひと」読みこみ歌のなかでも、異色の一首である。みろくの世は近づきて、いっさいの秘密は白日のもとにさらされるのだ。

●調査団宛の手紙

前略

実は私の祖母は御祐筆として和宮におつかへし、その最期を見とどけた者でございます。明治維新後(祖母の年を逆算しますと、明治四年か五年目と思われます。宮の御逝去は十年との事ですが、一切は岩倉具視が取りしきった事とて、その時まで伏せておいたのかと思はれます)。

岩倉卿と祖母が主になって、小数の供まわりを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあい(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(御駕籠)おかくまいいたし、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追いはらって岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早これまでと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた。後、やむなく御遺骸を守って東京に帰り、一切は岩倉卿が事を運び、祖母は自分の道具、おかたみの品を船二隻で郷里に帰った由(大方はその後、倉の火事で焼失との事)、その後、和宮の御墓所を拝した時、御墓所の玉石をいただき、後年まで大切にしていたそうです。以上の事は母が幼時に聞き覚えていたと、私に語ったものですが、以上の様な訳で、お手許品も何も入れず、密かに葬って後、発表したものと思われます。戦後、小説に芝居に、和宮の御最期を有栖川宮との思い出をのみ胸に、亡くなられた様な場面をみせているのを心外に思っていたものです。

祖母の遺品、書物の少しばかり残っておりました物は二〇年春、疎開の時、最早、日本の終わりと考えて皆、他の書類などと共に焼棄てた為、聞き知ったご最後を申し出す証拠もなく、残念に思っておりました。徳川家の記録にはこの御最期の事が正しく載っておりますでしょうか。皇室も徳川家も現在では何も伏せる事はないと思いますから、家の為、崇高な御一生を過ごされた和宮様を正しく維新史を飾る一頁に伝えたら如何でしょう。御発掘の有様を見て心からほとばしるものがありましたので乱筆を走らせました。私やがて五八老女、他出も余りせずおりました為、何かとわずらわしさを避け、匿名で申上げます事をお許し下さい……

和宮の降嫁問題は、まさに幕府と朝廷の醜い策謀とその応酬のやりとりの結果、生まれた悲劇だったといっていい。ペリー来航という外圧の危機に直面した幕府は、幕藩体制の再強化をはかるため、朝廷の伝統的権威と結びつく公武合体路線を選択。安政五年(一八五八)ごろから、井伊大老は孝明天皇の妹・和宮を御台所に迎える構想をめぐらしていた。

ところが、和宮には有栖川宮熾仁親王という許婚がいた。この婚約は嘉永四年(一八五一)に孝明天皇自身が内旨したものである。当時、熾仁親王十七歳、和宮六歳。熾仁は、猿が辻の有栖川宮邸に父幟仁親王の書道を習いに通う幼い和宮をつねにいとおしく見つめていた。

大本柏分苑

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