熾仁親王が世祢に渡した短冊の裏

熾仁親王が世祢に渡した短冊の裏に書いた「保野」の意味。野に保て、そして阿保に保てという指示

熾仁親王の話に戻る。熾仁親王の母可那は王仁三郎の生誕地穴太宮垣内のほぼ隣村といっていいような佐伯であり、稗田野町佐伯には稗田阿礼の出生地稗田の神社がある。この一帯が王仁三郎の幼少時の故郷である。

熾仁親王は母の故郷に通わぬわけはない。伏見の船宿だけでなく、足を延ばして佐伯、五分も歩けば上田家の土地天川に至る。穴太宮垣内まで秘密裏に尋ねたとしても何の不思議もない。何しろ有栖川宮家の侍医中村孝道は、王仁三郎の曽祖父でもあり、その縁で熾仁と世祢は会わせられたのだから。

三四歳の独身である熾仁親王がここまで独身を守り縁談を退けたのは、皇女和宮と結ばれることを夢見、和宮に操《みさお》を立てようとしたからだ。

逆に母加那の里の女、世祢と中村孝道を介して知り合い、恋に落ちたのは、和宮と結ばれるという二人の思いを断念したからなのだ。いや、和宮がすでに箱根山中で殺されたことを有栖川宮家・和宮家に出入りしていた筆の行商且つ密使、八木清之助を通して知...ってしまったからだ。密使といえば王仁三郎の曽祖父中村孝道も幕府や朝廷、貴族の間を結ぶ密使だったろう。旭型亀太郎もしかり。

さて熾仁親王は三四歳の独身である。父も家臣も暗黙のうちに、熾仁の恋を見守っている。

「東上せよ」との太政官からの命令が来た。今度は背くことはできない。自分の命はどうなってもいいが、自分の力で守ることのできるものがあれば守らねばならぬ。

熾仁はあわただしい別れを告げた。「わが恋は深山の奥の草なれやしげさまされど知る人ぞなき」

短冊は二枚書いた。熾仁の名と印と花押を記した短冊、あえてもう一枚の短冊は秘密を悟られないように無記名にし、その裏に「薄墨」で「保野」と書いた。「生まれた子供を決して宮中に連れてこず、野に保て」。熾仁から世祢に宛てた二人だけにわかるサインだ。『阿保に保て』というシグナルでもある。喜三郎(王仁三郎の幼名)は親の教えるように十年ほど顔を洗わず、目くそ口くそつけ空をみあげながら「あーおーうーえーい」と発声、人に十文に二文ばかり足らない八文喜三と笑われたものだ。王仁三郎は幼くして出生の秘密を聞いていたのか。わからない。

●北朝男子の一粒の種を丹波に残させた宇能の戸籍操作

白綸子《しろりんず》の小袖、目釘脇に菊の紋を刻した白木の短刀、巾着《きんちゃく》がよねの手に残された。

明治二年(一八六九)年十一月一日、熾仁が東京へ去ってから、よねはつわりに気づいた。「有栖川のみ子は男なら殺される」……そんな友らのささやきにおびえて、丹波の里へ逃げるように帰ってきた。母・宇能はすぐさま世祢に婿《むこ》を迎え(明治三年一月)、七ヶ月児といつわってまるまるとした男児を産ませる。そして、熾仁親王の痕跡をくらまし、孫を安全地帯におくために、明治三年の出生を一年繰り下げて届けた。わが国初の壬申戸籍は明治五年二月一日施行だから、だれも宇能の計らいに気づくものはいなかった。

この一年があったればこそ、有栖川のただ一粒の種が残った。北朝男子の種は、人知れずがこの丹波の野に育つのだ。

明治二十二年二月十一日、宮内省達第二号で皇族列次が定まる。

「皇位継承第一位有栖川宮熾仁親王」……〈大正天皇はなぜか皇位継承順位から除かれていた〉。。実は世祢に熾仁親王の子を宿らせるというのは上田宇能が仕掛けた作戦だった.世祢が熾仁親王の子を見事授かったことを宇能は二代続いた「吉松」の名前を捨てて、家族の楽びそのままにわが子に喜三郎と名付けて表した。。王仁三郎の戸籍上の父吉松の旧姓は佐野梅吉。そこから上田吉松と改名したのは、「梅で開いて松で治める」という神の暗黙のメーセージだった。その子を吉松ではなく喜三郎と命名した宇能の熾仁の子を授かったという喜びが見て取れる。

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