新型コロナウイルスと感染症の歴史 『感染症の世界史』(石弘之・角川ソフィア文庫)を読む
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何か事件があると書店にはそれに関連した本が洪水のようにあふれる。多くは便乗本といわれるものだが、さすがに新型コロナウイルスに関する本はほとんど見かけない。今は印刷中でそのうちにどっと出てくるのかもしれないが、これがそれを取り出すのはそれだけ難しいという事情もあるのだと思う。テレビ等では専門家が新型コロナウイルスの事を論じているが、書籍の形でその知見を知りたいと思うが、そうは行かない。この本は2017年に出ているのだが、今回の新型コロナウイルスの出現を予測している所もあり、適宜な本である。
「感染症の巣窟になりうる中国 今後の人類と感染症の戦いを予想する上で,もっとも激戦が予想されるのがお隣なりの中国と、人類発祥地で多くの感染症の生まれ故郷でもあるアフリカであろう。いずれも、公衆衛生上の深刻な問題を抱えている。とくに、中国はこれまでも、何度となく、世界を巻き込んだパンデミックの震源地になってきた。過去三回発生したペストの世界的流行も、繰り返し世界を巻き込んできた新型のインフルエンザも。近年急速に進歩をとげた遺伝子の分析から中国が起源と見られる」(終章 今後、感染症との激戦が予測される地域は?)
新型コロナウイルスは予測通り中国で発生し、今、パンデミックが宣言され、当初の楽観的な予想を裏切る事態になっている。こうした事態は僕らに不安を抱かす。不安を持たされるのは自然なことであるが、どのように対応すべきかよくよく考えてのことにしなければならない。自然災害などに遭遇した時と同じように心的な恐怖から感情的な行動をしてはならない。それは僕らが歴史的に学んできたことである。新たな病原菌(ウイルス)の出現が病状をもたらすものとして登場した時、人に与える不安や恐怖は正体が不明なところからやってくる。その不安と恐怖に駆られた時の人間の行動について僕らはいろいろの歴史を知っている。例えばペストのこと等がそうだ。最近、カミユの小説『ペスト』がよくよまれているのも、歴史を知ろうとすること欲求のあらわれである。
新型コロナウイルスの出現で僕らはなるべき人との接触の機会を避けるよう呼びかけられ、イベント等は中止され、学校は一部を除き休校になっている。これらは有効なのか、どうか疑念もあるが、判断しかねているのが現状である。こうした中で不安感を募らせているのが現状であろうが、これに向き合うためには新型コロナウイルスについての正確な分析と認知がなければならない。僕らは新型コロナウイルスのことを情報で初めて知るのだから、コロナウイルスについての科学的の分析と認知が正確な情報としてもたらされなければならない。これが何よりも大事なことだ。科学的な分析や判断が情報としてだされるには自由が不可欠だが、これは疑わしい状況にある。新型コロナウイルスの主体を知る上で、そこには疑念をいだかされる状態がある。この本では中国は公衆衛生上の深刻な問題を抱えていることから、感染症発生を危惧しているが、僕はそこでの情報発信のあり方に疑念をいだいている。科学的で自由な情報として新型コロナウイルスが伝えられているとは思えないからだ。
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この新型コロナウイルスの出現が新たな感染症として不安をいだかされるとすれば、僕らが感染症の歴史を知らないことも要因の一つとしてある。最近ではヒト・コロナウイルスとして現れたSARSやMERSがある。また、エボラ出血熱のこともある。ただ、SARSはそれぞれ世界的に広がったが爆発にいたらずに抑え込まれ終息した。SARSは2002年の中国南部で出現し、世界30カ国の地域に広がったが、かかった人は8000人超であった。また、エボラ出血熱についてはいまのところ、地域的である。「感染症の世界的な流行は、これまで三〇~四〇年ぐらいの周期で発生してきた。だが、一九六八年の<香港かぜ>以来四〇年以上も大流行は起きてはいない。」(まえがき、「幸運な先祖」の子孫たち)。僕らの感染症への関心が一時的なところでとどまり、関心も一時的で過ぎて行ったこと、つまりは感染症を深く探索しないできたことがある。
新型コロナウイルスでかかる病状を「感染症」というが、感染症は人類の出現とともにあるものだ。それは技術(医学)によって制圧されるものと期待されてきた。事実、技術(医学)は格段の進歩をとげている。僕の知人の感染症に関する専門家はこう伝えている。「数十万単位で感染症で人が亡くなっていた1950年以前に比べて現在では感染症による死亡数は画期的に減少している」(メールでの通信)。確かに感染症は医学の発展で制圧されてきた面も強いが、同時にそれをかいくぐるように新たな感染症も発生している。
「微生物が人や動物などの宿主に寄生し、そこで増殖することを<感染>といい、その結果、宿主に起こる病気を<感染症>という。」(まえがき―「幸運な祖先」の子孫たち)。この感染症の流行から生き残った先祖の子孫が我々であり、そのために人間が自己免疫力を高め、防疫体制を強化すれば、微生物もそれに対抗する手段を身につけ、ここでは「軍拡競争」のようなことが生じているのだ、とこの本の著者はいう。遺伝子の解明によって、この軍拡競争的な微生物との戦いにせまれるようになったという。「地球に住む限り、地震や完全に逃れるすべはない。地震は地球誕生から続く地殻変動であり、感染症は生命誕生から続く生物進化の一環である」{まえがき―「幸運な祖先」の子孫たち}
微生物は我々の生存にとつてなくてはならないものであるが、同時の我々を死にいたらしめる天敵でもあるが、その歴史を感染症の歴史として解明した本書は新型コロナウイルスの正体を知るに恰好のものといえる。本書は第一部『二〇万年の地球環境史』、第二部『人類と共存するウイルスと細菌』、第三部『日本列島史と感染症の現状』から成っている。最近の最強の感染症といわれるエボラ出血熱から、今後の感染症が地域はどこかという分析まで、感染症の歴史にについて書かれているが、僕らは感染症についての多くの知見を得られる。
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当初は楽観的な見解が見られた新型コロナウイルスだが、今は「パンデミック」の段階に入り、様相は変ってきている。世界の各地で緊急事態宣言などが発せられ、流行と拡大を防ぐ強い措置が取られている。この新型コロナウイルスはヒト・コロナウイルスとしては7番目のものと言われる。このうち、1から4までは通常の風邪の症状を示すウイルスといわれる。風邪は万病の元ともいわれ、怖い病気ではあるが、致死を招かないものとみられている。このウイルスとは違ったものとしてSAREとMERSがある。これは1から4のコロナウイルスよりは高い病原性があると言われた。SARSは2002年に中国の南部」(広東省)発生した。
「今後、どんな形で新たな感染症が私たちをおびやかすのだろうか、それを予感されるのが、中国を震源とする重症急性呼吸器症候群(SARS)の突発的な流行であろう。この強烈な感染力持ったウイルスは、二OO二年十一月に経済ブームにわく広東省深圳市で最初の感染者が出た」(第三章人類の移動と病気の拡散)。これは致死率が1から4のコロナウイルスよりは高く恐れられた。ただ、これは8000人の症例で2003年に終息した。
このSARSやMERSに比して今回のコロナウイルスは病原性としては低く、その中間ではないかと言われた。これは河北省以外での中国での死亡率が0、2%であることを証拠とされた。それは楽観的見解の根拠ともされてきたが、新型コロナウイルスがSARSの例証も死亡者数も上回っていれば、わからないというべきかもしれない。ただ、武漢市は死亡率が高いと言われてきた。その原因として初期対応が失敗したためと言われている。感染症は「早期発見・早期対処」が大事といわれるが、そこを誤ったといわれる。水際作戦と称してきた日本の対応はどうなのだろうか。ダイヤモンド・プリンセスというクルーズ船での対処はどうだったのだろうか。そして、第二の原因として大量の患者が発生した時の医療インフラ対策が追い付かなかったためいわれる。これらは友人のメールで知らされたことだが、日本での対処の問題として検討すべきことのようにも思う。
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新型コロナウイルスは通常のインフルエンザによる健康被害より低い可能性があると言われているが、高齢者には結構厳しいものでもある。死亡者の多くは高齢者であり、かつ基礎疾患(糖尿病、高血圧、肝臓疾患、腎臓疾患)の保持者である。加齢と基礎疾患は免疫力を低下させるためだが、これを高齢者は避けられない。自己免疫力を高めることは健康維持に不可欠であり、高齢化に抗していくことだが、なかなか難しいことである。良薬は口ににがしというが、免疫力を高める日常活動は容易ではないのだ。
新型コロナウイルの対する対処(対応)として提起されているのが感染者を隔離することである。また、接触を回避することである。ヒト・ウイルスは人の接触から起こるから、多くの感染症の流行時に取られてきた対応である。この古典的な対処策は現在でも有効であるのだと思う。だが、これは多くの問題を提起する。農耕社会の段階から離れれば離れる程、人間関係が増し、その密度を増やす、それが社会活動である。この本は医学の進歩に関わらず、次から次に感染症が発生する理由の一つにこの環境の変化を指摘している。これは人類の定住化や移動という初期段階から、都市化や移動も高速化と大量化してきた現在まで続くことだ。このような社会構成の変化は感染症の不断の発生源になるが、ひとたび感染症が発生した時のリスクも大きくなる。それは人間が隔離された関係の中で存在することが困難になっているからだ。経済的。あるいは文化的に人は隔離されては生きてはいけない。この問題では国家的な救済策などが提示されるが。それが対処できるのは極一部の限られたことにすぎない。隔離策に置いては何が合理的で有効かぎりぎりまで検討されなければならない。
あらたな感染症が出現し、それが流行になる時、人々はそれに不安をいだき、恐怖心を拡大させて、様々な行動をとる。これは地震などによる自然災害がもたらすものや、戦争時にも同様の事が起こる。それは感染症の正体がわからず。そこから発生する不安や恐怖(これ自身は自然なこと)を過剰にし、それに対応した行動に誘導する動きが出てくるためだ。これは感染症の正体を科学的には理解し、冷静な対応することの対極にあるものだ。ここに情報が介在する。そしてまた国家が介在する。国家は対応策を独占し、そのために情報を操作する。僕らは危機的な状況において迫り出してくる国家的対応をみており、それは自粛という光景等である。権力の命令、あるいはそれを忖度した行動と言えようか。この本で感染症の出現と流行時に演じて来た悲劇の描写はそれを示している。感染症の流行時における振舞いは文明度を示しているといえるが、これは技術(医療)の進歩には対応しているとは言えない。感染症の正体を科学的に認知し、恐怖の意識を組織した権力の対処策に自発的に隷属していくのでなく、それに抗して、自分で考え、自由で自立的な行動をとることが重要である。この本はそういうことを随所で示唆してくれる。
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