『帝国と立憲』(坂野潤治) 日中戦争はなぜ防げなかったか
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毎年、8月には戦争の事が論じられる。これ中心には8月15日の終戦記念日の戦没者追悼の式典などがある。この時期には論壇も戦争の特集を組むし、雑誌は特集記事で飾られる。報道特集もある。8月13日にNHKが「731部隊の真実」という特集を組み、同じ時間帯でテレビ東京は「特攻とは何か」という番組をやっていた。僕はテレビ東京の方を主にみていたが、NHKの番組も話題になった。高校の関東在住の同期生で作っているメ―リングリストでも取り上げられていた。高校の同期生はかつて1960年の安保闘争時にデモの行った面々も多く、戦争についての関心を持ち続けている。これは感慨が深かった。
この二つの番組は中国大陸での戦争のことと、アメリカとの戦争のことを取り上げていたのだが、どちらかと言えば、中国大陸での戦争のことの方が報じられるのが少ない。中国大陸での戦争については取り出されることに抵抗も多い。例えば、南京虐殺や「731部隊」や「従軍慰安婦」の事などはタブ―視されている。論じれば妨害や嫌がらせが強いのである。
本書は1937年(昭和12年)までの中国大陸での戦争のことが取り上げられており、しかも「日中戦争はなぜ防げなかったかのか」という副題もついている。今年は盧溝橋での日中の軍の衝突から80周年でもあり,適宜なものだ。
この本はどうすれば戦争が止められるか(止められたのか)という自問に対する解答としてあるのだが、それは今、戦争のできる国に向かう方向に権力が舵を切ろうとしている状況にあっては切実な問いと答えになっている。そのヒントを読者は得られるのではないだろうか。
「しかし、答えは意外と簡単でした。第一に、戦争が起こらない限り、デモクラシーを鎮圧することはできない。第二に、一旦戦争が起こってしまえば、戦争が終わるまで、デモクラシーには出番がない。この二つのことを前提にすれば、問題は次の一点に絞られます。デモクラシーが戦争を止めるにはどうすればいいのか、という問題です。実は本書ではいろいろな箇所でこの問いに答えてきました。それを一言に要約すれば、デモクラシー勢力が政権についていれば、戦争を止めることができる、ということです」(『帝国と立憲』)
この問いと答えについては僕の考えを述べるつもりだが、非常に重要な答えであるといえる。大正末期から昭和初期(1930年ころ)まで全盛であった日本の左翼運動が権力の弾圧で壊滅状態に追い込まれてからは戦争に抵抗する力はなく、戦争を止められなかったという説がある。獄中18年神話と同じくらい強い神話だった。確かに、昭和初期の左翼運動は中国大陸での侵略戦争(帝国主義戦争)に抵抗したし、闘った。それが弾圧と転向の中で壊滅状態に置かれたことで満州事変以降の戦争を容易にした。だが、この左翼運動が戦争に抵抗する戦争観を持っていたのか、どうかは別である。戦後の左翼史観の中には、デモクラシー(立憲)勢力が戦争に抵抗し、歯止めをかけようとしていたという認識はない。それゆえに、ここでデモクラシー(立憲)が、戦争に抵抗し、歯止めをかけようとしていた歴史の分析もなく、左翼史観の影響にあった面々は坂野の提起を受け止められないのかもしれない。しかし、ここには現在につながる重要な観点がある。戦争に対する抵抗の可能性を考える上では興味深く、刺激的な提起がある。
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本書は「帝国」と「立憲」という枠組みを軸にしながら、明治6年(台湾出兵)から1937年(日中全面衝突)までの歴史を、つまりは中国大陸での戦争に入る歴史を析出している。その構成はⅠ「帝国」と「立憲」のはじまり(1874~1895年)、Ⅱ「帝国」と「立憲」の棲み分け(1895~1917年)、Ⅲ「帝国」と「立憲」の終焉(1918~1937年)となっている。これは明治以降の歴史を中国との関わりで取り出したものでもある。これには少し、注釈がいるかもしれない。戦後の日本ではアメリカとの関係が圧倒的に大きく,中国との関係はその分だけ小さい。戦後世代はそのような関係、あるいは関係意識の中で育って来たともいえる。今、アメリカとの関係から中国との関係が比重を増す事態になってきているが、こうした環境にあったのだから、中国との関係を軸に明治維新以降の歴史を見ることには納得しにくいところもあると思う。だがこれは著者が意識的に取っている方法であり、今後のことを考えるとその意味も分かってくると思う。
この本の分析の枠をなしているのは「帝国」と「立憲」ということであり、帝國化と立憲化ということだ。ただ、著者もことわりをしているが、「帝国化」は高度資本主義の段階としての帝国主義とは違うとしている。帝国化は国家が他国や他地域の植民地を含めて支配に置き、対外的な膨張をめざすことだ。これをもう少し古典的な意味で使っている。戦争をもっての対外的な膨張政策と不可分な関係にある。他方で「立憲」ということも憲法によって権力の乱用を防ぐという意味での現在的な立憲主義ではない。戦前の憲法(大日本帝憲法)は「天皇ㇵ陸海軍ヲ統制ス」という規定を持ち軍部の独走を許す規定を持っていた。憲法に依って軍部の独走を止めることはできなかった。この点は軍部が天皇機関説事件として美濃部達吉の憲法学説を排撃したとき、憲法によってこれに対抗できなかったことを示している。美濃部は憲法の解釈で権力の暴走(軍部の暴走)を抑えようとしたのだが、憲法の規定ではそれはできない限界を持っていたのだ。いうなら権力の乱用を抑制する国民主権的な規定を憲法は持っていなかったのである。著者は日本の憲法ではなく、本来の立憲ということに立ち戻れば、こうした要素はあり、明治以降の立憲化には明治憲法の限界を越えたいという要素もあったところに着目する。明治憲法下での憲法政治(民主主義)の内包した矛盾だったが、そこにあった立憲的要素に注目している。ここは民本主義も含めて戦前の憲法政治(民主主義)の評価に関わるところだが、現在の立憲主義に通じている面に着目しているといえようか。
坂野は帝国という概念も立憲という概念も現在の考えとは少し異なったところも含めて見ている。これは歴史を取り上げる上でやむをえないことであり、現在に媒介する場合に留意が必要ということだ。
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明治以降の日本国家は「帝国化」と「立憲化」を目指し、その双方を短期間に成し遂げる。現在の観点から見れば「帝国化」は否定さるべきことである。ただ、これは現在的な観点であり、「外に帝国、内に立憲」ということが流行り、そこに矛盾を感じないでいた時代もあった。僕は石川啄木のことを思い出すが、そんな時代もあったのである。明6年の台湾出兵がその皮切りだったのであるが、明治以降の日本は琉球・台湾・朝鮮・満州とその併合を重ねて帝国化(対外侵略)をすすめるのだが、同時に立憲政体の確立を目指す。大日本帝国憲法の制定や議会の開設などがその歩みであり、議会と政党政治がその展開だった。
帝國化と立憲化は対立というよりは輪番的な棲み分けをやってきたともいえるが、立憲化は帝国化の抑止にもなってきたというのが著者の着目点だった。帝国化、つまりは戦争による対外侵略と膨張は一本道のように進展したのではなく、抑止力が働いたのであり、その拠りどころが立憲化という動きだった。帝国化の一つの頂点は日清戦争であった。それには日露戦争を加えてもよい。日清、日露戦争にいたる歴史を、対中国関係を軸に帝國化と立憲化というところから取り出し、分析しているのだがこれはおもしろい。
明治維新以降の歴史を見直す上で示唆されるところも多いが、僕はやはり、Ⅲの第一次世界大戦以降の分析に注目が行く。第一次世界大戦後に日本は中国との戦争にどうして入っていったのか、この本に即していえば、「なぜ、中国との戦争を防げなかったのか」という意識が喚起されるのもそこだからだ。
日清戦争や日露戦争においても日本の帝国化と戦争について、明治の指導者たちも少なからぬ抵抗をしたことを僕等は知っている。ただ、この時代の人々が帝国化や戦争について持つ考えには時代的な限界があったように推察する。それはその肯定ということが前提にあり、それについての意識的な変化を促されるのは第一次世界大戦を経てのことだ。
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第一次世界大戦は帝国化と戦争についてのこれまでも歴史的な考えに大きな反省をもたらした。第一次世界大戦の反省として帝国化と戦争についての批判が出て来た。レーニンの帝国主義戦争批判であり、ウイルソンの民族自決論であり、侵略戦争否定論である。帝国化を国家の取る方向として否定されていなかったことが初めて批判というか、否定の対象になったのである。第一次世界大戦において日本は戦勝国の立場にあったが、これは中国との関係をどうみるか、帝國化の戦略を持って臨んできた中国との関係をどう見直すかが問われたのである。
僕はこの本では省かれている「シベリア出兵」(1918~1922年)のことに注目している。これが中国大陸での戦争の導火線になっていったのではないかと考えている。ここを取り上げて欲しかったということもあるが、第一次世界大戦中に日本が中国に突きつけた対中華21箇条の要求とその対処がまず問題になる。著者は第一次世界大戦後の日本を「帝国」の後退と立憲の前進が顕著な時代と外観している。
これは日本が第一世界大戦中に拡大した中国権益を、満蒙権益を除いて中国に返還しなければならなくなることとして、つまりは帝国化の後退と抑制を迫られたというように指摘している。この時代は大戦後の反戦意識や運動も高まり、デモクラシーの気運ももっとも高まった。1929年(昭和4年)から1931年(昭和5年)にかけて戦前の日本における「平和と民主主義」が頂点だったという。これが暗転するのは1931年の満州事変である。それは満蒙の領有を求める動きが、つまりは対外的な帝国化の動きが出てきて、立憲的動きは後退を促される。満州事変は1931年の柳条湖事件と呼ばれるもので起こり、1933年の満州国の樹立にいたるが、この帝国的な侵略行為は「満豪」の陸軍の中堅将校による「満蒙領有計画」の決意として進められてきた。これは「木曜会」とよばれる研究会で永田鉄山・東条英樹・石原莞爾ら18人の大佐、中佐らの会合だった。彼等は満州事変の三年前に「帝国自存のために満蒙に政治権力を確立する」と決意していたのである。「満蒙生命」という帝国的な対外戦略が打ち立てられたのだが、これに対して立憲派は高橋是清など違う構想を持っていたと指摘される。ここは興味深いが立憲派は軍部やそれと結びついた右翼運動(テロを含め昭和維新の運動)に抗しきれずに後退を余儀なくさる。昭和の5年前後を頂点とする立憲化という動きは、満州事変を契機に後退にはいる。昭和10年の「天皇機関説事件」「国体明徴運動」「「2・26事件」はそれをさらに進め、1937年の日中戦争にいたる。これは立憲化の終焉であり、デモクラシーの敗北だった。これは戦前の立憲派(デモクラシー勢力)の敗退であるが、その要因は明瞭な戦争についての考えがなかったこと、権力を抑制する立憲(民主主義)がなかったことによる。デモクラシーの内容と国民的基盤の限界である。僕はそう考える。だが、それでも当時の立憲派が帝国化の動き、戦争の動きにそれなりに抗しえた指摘は重要な示唆を与えてくれる。
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