講話資料 「人生の目的・死・祖霊祭祀について」 1・21 藤井 盛

<綾部市 本宮山と世羅王山>

◇第四十八巻 第一二章 西王母〔一二六六〕~人生の目的~

(現界の人間は天人の養成器)

凡て人間が現実界に生れて来たのは、云はば天人の胞衣の如きものである。さうして又天人の養成器となり苗代となり又霊子の温鳥 ( ぬくめどり )となり、天人の苗を育つる農夫ともなり得ると共に、人間は天人其ものであり又在天国の天人は人間が善徳の発達したものである。

(天国に復活し天国を円満ならしむ)

さうして天人は愛善と信真に依つて永遠の生命を保持し得るものである。故に人間は現界の生を終へ天国に復活し、現界人と相似せる生涯を永遠に送り、天国の円満をして益々円満ならしむべく活動せしむる為に、大神の目的に依つて造りなされたものである。

(人は天地経綸の主宰者)

故に高天原に於ける天国及び霊国の天人は一人として人間より来らないものはない。大神様を除く外、一個の天人たりとも天国に於て生れたものはないのである。

必ず神格の内流は終極点たる人間の肉体に来り、此処に留まつて其霊性を発達せしめ、而して後天国へ復活し、茲に初めて天国各団体を構成するに至るものである。故に人は天地経綸の司宰者と云ひ、又天地の花と云ひ、神の生宮と称ふる所以である。

◇第四十七巻 第一一章 手苦駄女 ( てくだをんな )〔一二四四〕~人の死の意味~

(肉体は精霊の容器)

 人間の肉体は所謂 ( いはゆる )精霊の容器である。そして天人の養成所ともなり、或は邪鬼、悪鬼共の巣窟となるものである。

斯 (かく)の如く同じ人間にして種々の変化を来すのは、人間が主とする所の愛の情動如何に依つて、或は天人となり、或は精霊界に迷ひ、或は地獄の妖怪的人物となるのである。

〔迥然 ( けいぜん )=明白なさま〕

(現世の精霊は自然的)

さうして、人間が現世に住んでゐる間は、すべての思索は自然的なるが故に、人間の本体たる精霊として、其精霊の団体中に加はることはない、

併しながら其想念が迥然 ( けいぜん )として肉体を離脱する時は、其間精霊の中にあるを以て或は各自所属の団体中に現はるることがある。此時或精霊が彼を見る者は容易に之を他の諸々の精霊と分別することが出来るのである。

何とならば肉体を持つてゐる精霊は、前に述べた万公の精霊の如く、思ひに沈みつつ、黙然として前後左右に徘徊し、他を省みざること、恰 ( あだか )も盲目者の如くに見ゆるからである。若しも精霊が之とものを言はむとすれば、彼の精霊は忽然として煙の如く消失するものである。

(肉体離脱時の醒々( さめざめ)とした感覚)

人間は如何にして肉体を脱離し、精霊界に入るかと云ふに、此時の人間は睡眠にも居らず、覚醒にもあらざる一種異様の情態に居るものであつて、此情態に在る時は、其人間は、只自分は充分に覚醒して居るものとのみ思うて居るものである。

而 (しか)して此際に於ける諸々の感覚は醒々 ( さめざめ )として、恰 ( あだか )も肉体の最も覚醒せる時に少しも変りはないのである。五官の感覚も、四肢五体の触覚も特に精妙となることは肉体覚醒時の諸感覚や触覚の到底及ばざる所である。

〔精妙=不思議なほどすぐれて巧みなこと〕

(死して天人と接触)

此情態にあつて、天人及び精霊を見る時は、其精気凛々として活躍するを認むべく、又彼等の言語をも明瞭に聞く事を得らるるのである。尚も不可思議とすべきは、彼等天人及び精霊に親しく接触し得ることである。

此故は人間肉体に属するもの、少しも此間に混入し来らないからである。此情態を呼んで霊界にては肉体離脱の時と云ひ、現界より見ては之を死と称するのである。此時人間は其肉体の中に自分の居る事を覚えず、又其肉体の外に出て居ることをも覚えないものである。

(内分=精霊=人間)

人間は其内分即ち霊的生涯に於て精霊なりといふ理由は、其想念及び意思に所属せる事物の上から見てしか云ふのである。

何とならば此間の事物は人の内分にして即ち霊主体従の法則に依つて活動するから、人をして人たらしむる所以 ( ゆゑん )である。人は其内分以外に出づることを得ないものであるから、精霊即ち人間である。

人の肉体は人間の家又は容器と云つても可いものである。人の肉体にして即ち精霊の活動機関にして、自己の本体たる精霊が有する所の諸々の想念と諸多の情動に相応じて、其自然界に於ける諸官能を全うし得ざるに立到つた時は、肉体上より見て之を死と呼ぶのである。

(精霊を肉体と繋ぐ肺臓の呼吸と心臓の鼓動)

精霊と呼吸及心臓の鼓動との間に内的交通なるものがある。そは精霊の想念とは呼吸と相通じ、其愛より来る情動は心臓と通ずる故である。夫 ( それ )だから肺臓心臓の活動が全く止む時こそ、霊と肉とが忽ち分離する時である。

肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体たる精霊其ものを繋ぐ所の命脈であつて、此二つの官能を破壊する時は精霊は忽ちおのれに帰り、独立し復活し得るのである。斯くて肉体即ち精霊の躯殻は其精霊より分離されたが故に次第に冷却して、遂に腐敗糜爛 ( びらん )するに至るものである。

(心臓の鼓動が止んで精霊が脱出)

 人間の精霊が呼吸及心臓と内的交通をなす所以は、人間の生死に関する活動に就いては、全般的に、又個々肺臓心臓の両機関に拠る所である。

而 (しか)して人間の精霊即ち本体は肉体分離後と雖も、尚 ( なほ )少時 ( しばらく )は其体内に残り、心臓の鼓動全く止むを待つて、全部脱出するのである。而して之は人間の死因如何に依つて生ずる所の現象である。

或場合には心臓の鼓動が永く継続し、或場合は長からざることがある。此鼓動が全く止んだ時は、人間の本体たる精霊は直 ( ただち )に霊界に復活し得るのである。併しながらこれは瑞の御霊の大神のなし給ふ所であつて、人間自己の能くする所ではない。

 而 ( しか )して心臓の鼓動が全く休止する迄、精霊が其肉体より分離せない理由は、心臓なるものは、情動に相応するが故である。凡て情動なるものは愛に属し、愛は人間生命の本体である。人間は此愛に依るが故に、各生命の熱があり、而 ( しか )して此和合の継続する間は、相応の存在あるを以て、精霊の生命尚肉体中にあるのである。

(平素の想念が大事)

人の精霊は肉体の脱離期即ち最後の死期に当つて其瞬間抱持した所の、最後の想念をば、死後暫くの間は保存するものであるが、時を経るに従つて、精霊は元世 ( もとよ )に在つた時、平素抱持したる諸々の想念の内に復帰するものである。さて此等の諸々の想念は、彼れ精霊が全般的情動即ち主とする所の愛の情動より来 ( きた )るものである。人の心の内分即ち精霊が、肉体より引かるるが如く、又殆 ( ほとん )ど抽出さるるが如きを知覚し、且つ感覚するものである。

古人の諺に最後の一念は死後の生を引くと云つてゐるのは誤謬 (ごびう)である。どうしても平素の愛の情動が之を左右するものたる以上は、人間は平素より其身魂を清め、善を云ひ善の為に善を行ひ、且つ智慧と証覚とを得ておかなくてはならないものである。

◇第五十八巻 第二四章 礼祭〔一四九九〕~祖霊祭祀の意味~

(霊祭で天国の先祖が歓喜)

三千『先生、人間は現世を去つて霊界へ行つた時は、極善者の霊身は直 ( ただ )ちに天国に上りて、天人と相伍し天国の生活を営み、現界との連絡が切れるとすれば、現界にある子孫は父祖の霊祭などをする必要がないもののやうに思はれますが、それでも祖霊祭を為なくてはならないのでせうか。吾々の考へでは真に無益な無意義なことのやうに感じられますがなア』

玉国『なにほど天国へいつて地上現人との連絡が断たれたといつても、愛の善と信の真とは天地に貫通して少しも遅滞せないものである。子孫が孝のためにする愛善と信真のこもつた正しき清き祭典が届かないといふ道理は決してない。

天国にあつてもやはり衣食住の必要がある。子孫の真心よりする供物や祭典は、霊界にあるものをして歓喜せしめ、かつその子孫の幸福を守らしむるものである』

(現世に再生の祖先も幸福)

『中有界にある精霊は、なにほど遅くても三十年以上ゐないといふ教を聞きましたが、その精霊が現世に再生して人間と生れた以上は、祖霊祭の必要はないやうですが、かふいふ場合でも矢張り祖霊祭の必要があるのですか』

『顕幽一致の神律に由つて、たとへその精霊が現界に再生して人間となり霊界にをらなくても、やはり祭典は立派に執行するのが祖先に対する子孫の勤めである。

祭祀を厚くされた人の霊は霊界現界の区別なく、その供物を歓喜して受けるものである。現世に生れてゐながら、なほかつ依然として霊祭を厳重に行うてもらうてゐる現人 ( げんじん )は、日々の生活上においても、大変な幸福を味はふことになるのである。

ゆゑに祖霊の祭祀は三十年どころか、相成るべくは千年も万年の祖霊も、子孫たるものは厳粛に勤むべきものである。

地獄に落ちた祖霊などは、子孫の祭祀の善徳によつて、たちまち中有界に昇り進んで天国に上ることを得るものである。

(天人の歓喜の余波が子孫の繁栄を守る)

また子孫が祭祀を厚くしてくれる天人は、天国においても極めて安逸な生涯を送り得られ、その天人が歓喜の余波は必ず子孫に自然に伝はり、子孫の繁栄を守るものである。なんとなれば愛の善と信の真は天人の神格と現人 ( げんじん )(子孫)の人格とに内流して、どこまでも断絶せないからである』

(宗教の改宗)

『ウラル教や波羅門教の儀式によつて祖霊を祭つたものは、各自その所主の天国へ行つてをるでせう。それを三五教に改式 ( かいしき )した時はその祖霊はどうなるものでせうか』

(証覚の優れた宗教の祭祀は救い)

『人の精霊やまたは天人になるものは、霊界に在つて絶えず智慧と証覚と善真を了得して向上せむことをのみ望んでをるものです。ゆゑに現界にある子孫が、最も善と真とに透徹した宗教を信じて、その教に準拠して祭祀を行つてくれることを非常に歓喜するものである。

天人といへども元は人間から向上したものだから人間の祖先たる以上は、たとへ天国に安住するとも愛と真との情動は内流的に連絡してゐるものだから、子孫が証覚の最も優れた宗教に入り、その宗 ( しう )の儀式によつて、自分たちの霊を祭り慰めてくれることは、天人および精霊または地獄に落ちた霊身にとつても、最善の救ひとなり、歓喜となるものである。

天国の天人にも善と真との向上を望んでをるのだから、現在地上人が最善と思惟する宗教を信じ、かつまた祖先の奉じてゐた宗教を止めて三五教に入信したところで、別に祖霊に対して迷惑をかけるものでない。また祖霊が光明に向かつて進むのだから、決して迷ふやうな事はないのだ。いな却つて祖霊はこれを歓喜し、天国に在つてその地位を高め得るものである。

ゆゑに吾々現身人は

祖先に対して孝養のために最善と認めた宗教に信仰を進め、その教によつて祖先の霊に満足を与へ、子孫たるの勤めを大切に遵守 ( じゅんしゅ )

せなくてはならぬのである。ああ惟神霊幸倍坐世』

<聖師が学んだ亀岡市 穴太寺のお堂>

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