要荘・掬水荘の明渡訴訟の今後を考える 藤井 盛 (2-2)最終回
事件で破壊された月宮殿
再弾圧への恐れが、昭和三十七年に中国から帰国された出口榮二先生の役職剥奪や弾圧した当局側に通じる宇佐見龍堂氏の本部長迎い入れへとつながって行ったものと考えられる。
また、聖師、二代様ご昇天後の教勢の衰えをカバーすべく、出口伊佐男総長が挨拶をされたとおり三代様の神格化を図らねばならず、結果的に救世のご経綸を進められる主神への信仰を揺るがせ、瑞霊を押し込めることになってしまったお辛いお役回りを気の毒に思うところである。
こうした教えの変質を聖師は見通しておられたからこそ、直美様に教えの正常化を託し、生まれながらに四代教主であることを、あえてお歌で残しておかれたのではないだろうか。
三代の長女直美の生れしより大本四代の基礎固まれり
四代なる直美の生れし今日よりは蘇生(よみがえ)るなり大本内外
久方の天津国より降りたる嬰子は教祖の更生なりけり
〔聖師:日月日記 七の巻〕
しかし、三代様は直美様を教嗣から外されてしまった。聖師のご意志に沿
うことができなかった三代様が、みろくの大神の下生たる聖師を救世主と仰
ぐ大本の教主であり続けることは困難であり、この時点で三代様の大本教主
としての御用は終わられたと見るべきである。
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なお、三代様が直美様を教嗣から外されたのは昭和五十七年(一九八二)五月で、教主就任の昭和二十七年(一九五二)から奇しくも三十年目である。
従って、昭和五十七年(一九八二)から直美様が四代教主として実質的な御用を始められたこととなる。実は、ここまでの話は、かつて梅園浩先生が私たちに言われていたことである。先生は三十年ごとに替わる実質的な教主としての御用について、表を作成しておられた。
先生はこの表を平成十年(一九九八)ごろ作成されたと思われるが、直美様が四代教主として実質的な御用を始められた昭和五十七年(一九八二)から三十年目に当たる平成二十四年(二〇一二)に、先生は「?」をつけておられる。
先生は、その平成二十四年(二〇一二)の七月二十九日に八十七歳で帰幽されたが、先生が気にかけておられたその年から、教主の実質的な御用が直美様から直子様に移ったのである。
〇直子様に実質的な教主の御用が始まる
平成二十四年(二〇一二)、開教百二十年の節分大祭で四代直美教主様は昇殿されず、直子様が初めて先達をお務めになった。また、「教主ご名代」でご挨拶をされるなど、教主としての実質的な御用をされることとなった。以後、信徒連合会のすべての行事において、教主様に代わって直子様が実質的に教主の御用をされているのは周知のことである。
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開祖様以来、これまで説明したとおり、各教主様はその就任期間とは別に、三十年の実質的な教主としての御用を務めてこられている。
開祖 明二五(一八九二)~大一一(一九二二)
〔大正十一年は変性男子神政成就〕
二代 大一一年(一九二二)~昭二七(一九五二)
〔昭和二七年三月、二代様ご昇天〕
三代 昭二七(一九五二)~昭五七(一九八二)
〔昭和五七年五月、直美さまを教嗣から外す〕
四代 昭五七(一九八二)~平二四(二○一二)
〔平成二四年二月、節分大祭で直子様が先達〕
五代 平二四(二〇一二)~ これを言い換えれば、実質的な教主の御用を三十年務めてこられた方々こそ、神定の大本教主であるとも言える。また三十年は、霊界物語第一巻の「身魂の立替立直し」の三十年にも通じる年数である。
なお、聖師が直美様のご出生について詠まれたお歌について、私は先に、教えの正常化を託されたものだと述べたが、お歌にある「基礎固まれり」や「蘇生 ( よみがえ )るなり大本内外」、「教祖の更生なりけり」を素直に読めば、四代教主以後の大本の盤石性や教えの正常化を、聖師が確信しておられたとも理解できる。
直美様のこうした四代教主時代をそのまま連続的に引き継ぎ、すでに実質的な教主としての御用を始められている直子様こそ、五代の神定の大本教主である。
こうした考え方は、今後本部が再度の提訴を試みたとき、四代直美教主様の場合と同様、直子様が五代の教主様であることを教学上の問題として、本部と十分議論ができるものと考える。
《余録》第二次大本事件と「型の大本」
大本七十年史上巻の「大本七十年史によせる」において三代様が、「神格の叙述にものたりなさをかこたれる」とか「傷ついた苦( にが)い体験の記録」などと書かれ、聖師のご神格や第二次大本事件について否定的でおられる。聖師のご活動に起因する事件における三代様のご体験が、いかにお辛いものであったかを、我々信徒は心よりご理解申し上げるべきである。
しかし大事なのは、その祭典を当局が事件の起訴理由とした「みろく下生」により、救世主たる聖師のご神格が明示されたこと、また事件は、太平洋戦争との期間の一致により「型の大本」を証明し、大本を大本たらしめたご経綸であったことを悟ることである。
「みろく下生」九十年目の今年、聖師が救世の書として著された霊界物語において、「辛さ」も楽しみの一つにして救世のご神業に奉仕している宣伝使にならい、我々も、心も新たに大神様にお仕えしたいものである。
神業(かむわざ)をなすのが原の玉 ( たま )草 ( くさ )は踏まれ躙 ( にじ )られ乍 ( なが )ら花咲く
〔入蒙記 第五章「心の奥」〕
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