ドナルドキーン 「明治天皇を語る」

2月24日、東京都内で、ドナルドキーンさんが亡くなられた。(96歳)

1922年、米ニューヨークで貿易商の家庭に生まれた。コロンビア大の学生だった18歳の時、英訳された「源氏物語」を偶然手に取り、みやびな世界に魅了された。太平洋戦争中には、米海軍語学将校として日本兵捕虜の尋問・通訳に従事。彼らが残した日記を解読するうちに、日本への関心をより深めていった。

53年には京都大大学院へ留学。後の文相で教育社会学者の永井道雄と親交を結ぶ中、中央公論社の嶋中鵬二社長を紹介されたのを機に、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫ら多くの文学者と交流。古典から近現代文学まで幅広い日本文学作品に精通し、太宰治や三島、安部公房らの作品を積極的に翻訳、紹介した。谷崎、川端、三島らの名前が候補に挙がったノーベル文学賞の事前選考にも、大学の同僚だった日本文学研究者エドワード・G・サイデンステッカー(2007年死去)とともに関わった。

2011年3月の東日本大震災の津波被害と原発事故を憂えて、「大好きな日本に永住し、日本人になる」と表明。生涯独身で、後に養子に迎える新潟県出身の文楽三味線奏者、上原誠己さんと06年秋に知り合ったことが日本国籍取得(12年)の最大の契機になったという。13年には、研究業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」(同県柏崎市)がオープンした。

 日記文学を論じた「百代の過客」で読売文学賞と日本文学大賞(85年)、力作評伝「明治天皇」で毎日出版文化賞(02年)を受賞するなど多数の論考を著した。近年でも評伝「正岡子規」(12年)、同「石川啄木」(16年)を刊行するなど晩年まで創作意欲は旺盛だったが、18年3月の米ニューヨーク訪問後に体調を崩しがちになり、都内の病院で入退院を繰り返していた。公には、同年5月に埼玉県草加市で上演された「幻」の古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の記念座談会で元気そうな姿を見せたのが最後となった。

ドナルドキーン「明治天皇を語る」(新潮新書)で、すり替えられた明治天皇をありのまま伝えている。1879年(明治12年),アメリカのグラント将軍が謁見した際、同行した作家ヤングの記述を紹介し、「天皇は不動の姿勢で、普通の日本人より背が高く、口と唇はハプスブルグ家の血筋を思わせる。顔はふっくらと狭く、頭髪と口髭は漆黒である。表情からは感情は一切消え、彫刻の立像と見間違えるほどだ。」傍らの皇后(一条美子)の顔は白く、ほっそりした身体つきで、発育不全の様にも、まるで子供のようだ。京都生まれの御所育ちで、幼少の頃、女装さえし、白粉に紅を差していたイメージとは全く違う容姿である。

拝謁したオーストリアのヒューブナー男爵曰く「肋骨のようについた軍服は半ば水兵といった風変わりなヨーロッパ風のもので世界でたった一人で外国人は驚き、失笑した。」倹約を美風とする日本人の価値観で説明しているが、天皇の周りは無知であった。皇后が初めて人前に洋装で現れるのは明治19年という。

大本柏分苑

大本柏分苑のホームページです。 5件のSNSがあります。 ①アメーバブログ ②フェイスブック ③TWITTER ④YOU TUBE ⑤ライブドアブログ 下記それぞれの画像をクリックして下さい。

0コメント

  • 1000 / 1000