罪を贖い続ける贖い主 <2-1>   藤井 盛

○聖師が家の前の山口線を
 
 昭和十年二月二十三日、出口王仁三郎聖師が、我が家の前を走るJR山口線を、汽車で通っておられた。聖師の歌日記【註1】でわかった。
 
石見なる益田の神聖発会式すませて今日は徳山に入る    
〔昭和10・2・23 於松政旅館〕
 
歌日記によると、聖師は二月二十三日に島根県益田市を出て、山口県徳山市(現周南市)まで行かれている。山口線で益田駅から小郡駅(現新山口駅)まで行かれ、その途中で我が家の前を通られ、小郡駅で山陽本線に乗り換えられて徳山駅までという経路である。
今も、その線路を昭和十年当時と同様、蒸気機関車がSL「やまぐち号」として、三月から十二月までの土日休日、観光客を乗せて、汽笛を鳴らし黒煙を吐きながら走っている。
我が家は新山口駅まで約七キロメートルの位置にあり、線路は家の前約三百メートル先を走っている。昭和十年当時三歳であった父親や祖父母、伯母なども、聖師の乗った汽車を見たかもしれない。そう思うと聖師がたいへん身近になってくる。
   SL<やまぐち号>を我が家の方向から写す                    (昭和10年2月23日 聖師が乗られた列車が通過された。)
 
ところで、私の前の線路を通られたこの昭和十年の二月だけでも、聖師は十日・和歌山県勝浦、十二日・新宮、十三日・田辺、十六日・淡路島福良、十七日・奈良、十九日・長浜と忙しく各地を回っておられる。
その後も一旦綾部に帰られたものの、今度は山陰へと向かわれ、二十一日に島根地恩郷で歌碑除幕式、二十二日は昭和神聖会益田支部発会式にそれぞれ臨席され、二十三日、山口線で我が家の前を通られて徳山に泊。翌二十四日に昭和神聖会徳山支部発会式に臨席され、夜は呉に泊。さらに二十七日は東京で、三月七日には台湾に発たれている。
このハードな旅から旅のなかで、聖師は盛んに歌碑除幕式と昭和神聖会発会式に臨まれている。
 
○歌碑と昭和神聖会と天祥地瑞
 
現在、全国には歌碑が四十七基ある。昭和六年九月八日の本宮山歌碑の建立に続き、昭和七年に六基、八年十三基、九年が十六基、十年には四基が建立されて、昭和八年から十年までを見ると合計が三十三基になる【註2】。
一方、昭和神聖会は、昭和九年七月二十二日、東京九段の軍人会館で発会式があり、直ぐの八月には京都地方本部ができ、その後全国各地に地方本部や支部が発会している。一年後の昭和十年七月には、地方本部二十五、支部四百十三を数え、賛同者が八百万人にまで達している【註3】。
また、同じ時期に、天祥地瑞の口述が昭和八年十月四日(旧八月十五日)から始まり、昭和九年八月十五日まで行われている。
ところで、これらの歌碑や昭和神聖会、天祥地瑞に共通していると感じるのは「言霊」である。これを、具体的に歌碑から順に追ってみたい。

歌碑建立   昭和8年13基  昭和9年16基  昭和10年4基

《昭和神聖会》             昭和9年7月22日 発会

《天祥地瑞》口述  昭和8年旧8月15日 ~ 昭和9年新8月15日




歌碑







             

○歌碑の言霊で清める
 
聖師は、昭和十年八月の自作自演映画「七福神」のなかで、七福神の一人である恵比寿、つまり「蛭子」と歌碑の関係について歌を詠まれている。
 
吾こそは言霊清き蛭子なり国のあちこち歌碑( うたぶみ)建つるも   
〔出典【註2】と同じ。次も同じ〕
 
また、歌碑について次の歌もある。
 よろづ代の道の礎( いしずえ)固めむとわれ国々に歌碑を建つるも
 
二首目の歌で、歌碑を建てて「よろづ代の道の礎固めむ」とあるが、なぜ歌碑がよろづ代の礎を固めるのか、私は、その理由が一首目にあるように感じた。それは、霊界物語第六巻に出てくる「蛭子」が思い浮かんだからである。
 
  淡嶋の国魂として、言霊別命の再来なる少名彦命は…蛭子の神となりて…その半分の身魂は…幽界の救済に奉仕され…この因縁によりて、後世猶太の国に救世主となり…撞の御柱の廻り合ひの過ちの因縁によりて、十字架の惨苦を嘗め、万民の贖罪主( あがなひぬし)となり…諾冊二尊は、天地顛倒の言霊を改め…
〔第六巻第二二章「神業無辺」〕
 
国生みの物語で、伊邪那美命 ( いざなみのみこと )が先に言葉を発したため、蛭子が生まれた話が記紀神話にあるが、霊界物語では、蛭子は、実は瑞霊・言霊別命であり、天地顛倒の言霊による過ちの因縁によって、後世のキリスト、万民の贖罪主 ( あがないぬし )となったと示してある。
つまり、蛭子とは聖師の御霊 ( おみたま )となる。いにしえの天地顛倒の言霊を、今度は「清い言霊」に替えて聖師が歌碑に刻んでいくということ、つまり、贖い主のお役として、歌碑を建てて各地を清めていかれた、そういう一面が歌碑の建立にあるのではないかと考える。
 
 = 北海の旅路遙けしわれは今 出羽の大野の雨聴きて居り =
  
ちなみに、自分が日本国中を隅から隅まで旅行したのは「一つには此の國土を天柱に繋 ( つな )ぐ爲 ( た )め」<註4>

【註1】大本教学第五号(教学研鑽所編)〔六一頁〕出口王仁三郎聖師歌日記❘霊界物語ご校正時のもの❘自昭和八年十二月十日 至昭和十年六月二十五日
【註2】大本教学第七号(教学研鑽所編)〔八一頁〕出口王仁三郎聖師歌碑集録 昭和四十五年二月現在 
【註3】大本七十年史下巻 〔二○三頁〕
【註4】惟神の道(みいづ舎)〔三五六頁〕

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