大江健三郎さんからの手紙
十数年前、ある文学賞の記念パーティーだった。大江さんは出版社の編集者やロシア文学者の亀山郁夫さんと話し込んでいた。編集者に手招きされて、私はその人と対面した。あいさつをすると「大江健三郎」と書かれた名刺を手渡してくれた。
話を理解できなかったのは、緊張していたからだけではない。話題がフランス語の形容詞と当時話題になっていた文学作品との関わりについて、だったからだ。相づちすら打てないこわばった若者を前に、大江さんは終始穏やかにほほえんでいた。
難解。
それは大江文学についてまわる批評の一つだと思う。確かに意味の折り重なった文章を読み解くのが容易ではない作品もある。
なぜ大江さんは難解な文章で表現するようになったのか。難解と言われることをどう考えているのか。ずっと聞いてみたかった。
2014年に『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)が刊行されたとき、その機会が訪れた。8月29日、先輩記者に連れられて、自宅でのインタビューに同席した。大江さんは分厚い文庫本を手にしながら朗らかに語ってくれた。
「いまだったらこの文章を書かないだろうというのは『さかさまに立つ「雨の木」』です。文章が非常に複雑でね、こんなものに付き合っていられるか、という読者がいるんだろうと思ったのが、『雨の木』の連作です」
このタイミングしかないと思った。緊張しながら「複雑とおっしゃいましたが、その複雑な文章を選び取っていかれた。それはなぜなのでしょうか」と尋ねた。
質問に想像以上の答えが返ってくることは記者の至福の瞬間だけれど、言葉は考えもしない方向にまで連なっていった。
このインタビューから半年後、大江さんから記者に手紙が届きました。そこに書かれていた「不安」の意味を、記者は読み違えていました。そして最後の講演で、大江さんが語ったこととはーー。
「特に僕が30代くらいのときはね、複雑な問題を書こうとしているんだから、とイメージについても会話にしても、人物描写にしても書き加えていくということをしていたんです。書き加えていくと、文章は最初にわいてきた文章とは違って、読みにくくなります。難解というのは読みにくいということです。そこに難しい思想が書かれているというのではなくて。難解と言われるのが最初に出会った批評ですが、僕は難解で何が悪いとどんどん書き加えた」
それは小説家になって、「最初の習慣」だったという。「どんどん書き加えれば濃密になるし、広がりも深みもできると考えていたんです。そのうち中期短編の中間ぐらいで、僕は文章というものは1行書き加えたら、その代わりに1行消さないといけない、というのが人間の文章を書く行為の一番自然な習慣なんだと考えたんです」
そして大江さんは障害のある子どもがいる家庭のなかで、「私」が世界をどう見たのかを長編小説に書くようになった。最後の小説と言っていた13年の「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」まで手法は変わらなかった。でもこのとき、その先にまで大江さんは言及した。
「それで最近考えているのは、あと何年か生きるうちにもきっと文章は書くと思うんですね。この20年間やってきた私という書き手の設定から自由になって、すっかり自由な物語が書けるようだったら……。長編小説を書く時間はないんですが、あと2年と考えているんですね、自分がよく文章を考えて書けるのは。そのときに自由な主題でもって、いままで書いてきた私という書き手から自由になって、ある中編小説というべきかな、そうですね、30ページくらいのものを書いて、それを四つくらい書けたら、最後の小説ができるかもしれないと思っているんです」
また大江さんの新作、それも新しい形式の小説が読めるかもしれない。驚きとともに、私は大江さんの柔らかくて難解ではない語りに魅入られていた。何と濃密な時間だったかと、取材が終わってからもしばらく呆然(ぼうぜん)としていた。
だから大江さんから数カ月後に届いた手紙の意味を、私は少し読み違えてしまったのだと思う。
◇
大江健三郎さんは書くことを習慣にした人だった。取材や寄稿、コメントの依頼には、いつも丁寧な返事が手紙やファクスで届いた。
あの取材の数カ月後、私は大江さんにインタビューを申し込んでいた。沖縄の普天間飛行場の辺野古への移設をめぐって、政府が埋め立てを始めようとしていた時だった。かつて大江さんが沖縄を訪れて書いた「沖縄ノート」をもとに、話を聞かせてほしいと投げかけていた。
しばらくして、手紙が届いた。消印は15年6月。大江さんは少し慌てたような文面で、丁重な断りの文章をつづっていた。フランスに渡っていて、私からの取材依頼の手紙を読んだのが遅くなったという。
「お返事が遅くなりましたのを心配しています」としながら、こう続いていた。
「六月のうちに沖縄へ講演にまいりますし、その聴衆にあなたのしてくださる私へのインタビュー記事がまっすぐ結ぶものとしてつたわることを望み、かつ自分の話しぶりに『不安』もあります。そこで次にまたお話できる『もっと静かな時』をまちたく存じます」
基地移設を巡って、世論がとげとげしく、騒がしくなっていた。自身の発言がどう伝わるのかという「不安」もあり、静かな時を待ちたいと考えているのだろうか、とそんな風に解釈した。
手紙を受け取り、沖縄の講演を聴きにいくことにした。インタビューしたいと思っていたことへの大江さんの言葉が聞けるはずだと思っていた。けれど大江さんの思いは聞くことができなかった。講演が直前になって中止になったからだ。すでに集まっていた聴衆には、体調不良と説明された。
手紙のフレーズが頭に浮かんだ。大江さんは前日、ボートに乗って基地の移設先を視察していた。そのときに何か感じたのかもしれない。もしかしたら「静かな時」と感じられなかったのかもしれない。
数カ月前、「大江健三郎自選短篇」のインタビューで元気な姿を見ていたから、なおさらそんな風に思ってしまった。
◇
その後も大江さんには何度か取材を依頼したけれど、受けてはもらえなかった。15年11月、ドイツの作家ギュンター・グラスを悼むイベントに登壇して以降は、公の場にもなかなか姿を見せなくなった。
そして私があの手紙を受け取ってから1年ほど後の16年5月、久しぶりに大江さんが登壇する講演が開かれるという案内が届いた。
大江さんは評論家の加藤周一さんと親交が深かった。同じ「九条の会」呼びかけ人でもある。亡くなった加藤さんの蔵書などを収めた「加藤周一文庫」が立命館大学にできたことを記念して、大江さんが思い出を語るという。
また大江さんの語りが聞けるのを楽しみに、私は聴衆のひとりになった。
大江さんは講演でも取材でも、綿密に準備をして原稿用紙に語るべきことをまとめて臨んでいた。この日も、きっとそうしていたはずだ。でも予定通りには進んでいないようだった。行きつ戻りつしながら、繰り返し、繰り返し、同じ言葉を訴えていた。
会場は大江さんの語り口を心配するような空気になっていた。それでも大江さんは懸命に話を続けた。「戦争に敗れた時、憲法にある天皇の条項を書き直すということを日本人はした。天皇は象徴、シンボルなんだと。苦しみを経て、天皇が大きい権力を持たないと書いた。それを今も持ち続けていることがどんなに大切なことか」と、護憲の重要性を何度も口にした。
「これが最後の講演になると思う」と言いつつ、繰り返し、繰り返し、憲法の大切さと、平和の大切さを、分かりやすい言葉で語り続けた。
「戦後100年経って、明治憲法と同じように天皇を『神』に戻して国を統一していこうと、日本人がするのではないか。その心配は今のところないけれど、いつぶり返すかわからない」と大江さんは言った。
そして議論が自由にできなくなる時代にしてはならない、と力を込めた。
「私たちがいなくなった後も、子どもたちが担っていく問題。一つの家庭で、親子が、夫婦が、兄弟が語り合えるようにしておかなければいけない」と。
大江さんは、きっと自身の話しぶりに不安があるのは分かっていた。あの手紙にあった「不安」は、文字どおり思うようにしゃべれないもどかしさを言っていたのだと思う。
それでも、大江さんは公の場に立った。訴えるべき言葉を、聴衆に語りかけた。
最後の講演は少しも難解ではなかった。分かりやすい言葉で、二度と戦争が起きないようにするための希望を聴衆に託そうとしていた。何でも語り合える自由の大切さを、繰り返し、繰り返し。
予定の時間を超えて、講演を終えた大江さんは、心の底からほっとした表情を浮かべて「終わった」とつぶやいたように聞こえた。自分の仕事はここまで、あとは君らが平和をつないでほしいと言われているような気がした。
◇
大江さんはそれから、表舞台に姿を見せることはなかった。でも、大江さんの声を私は聞いた気がするのだ。
最後の講演の翌年、私に娘が誕生した時のことだ。何があってもこの子が自由に語り、ともに生きていけますように。この子の生きる世界が平和でありますように。不思議と力がわいてきた。
大江さんが新しいスタイルの小説を書くことはもうない。難解な小説は、いまでも私には難解なままだ。
それでも、大江さんはこんな風にして、いつでも語りかけてくれる。最後の小説になった「晩年様式集」の最後の詩のような、希望をつなぐ深く優しい言葉で。
〈小さなものらに、老人は答えたい、/私は生き直すことができない。しかし/私らは生き直すことができる〉
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