霊界物語 第41巻 捨身活躍 三番叟を読む。
北光の神(聖師)は竹野姫、テームス、リーダー等を引き連れ、気を利かして一間に引き上げて了った。後にセーラン王(熾仁親王)、ヤスダラ姫(和宮)は暫し沈黙の幕をつづけていた。ヤスダラ姫は心臓の鼓動を金剛力を出して鎮静しながら、顔にパッと紅葉を散らし、覚束な口調にて、
『セーラン王様、お久しう御座いました。御壮健なお顔を拝し嬉しう存じます。』
と僅に言ったきり、恥しさうに俯むいて顔をかくす。セーラン王は目をしばたきながら、
『貴女も随分辛い思ひをしたでせうなア。私もテルマン(江戸)の国の空を眺めて、渡り行く雁に思ひを送ったことは幾度か知れませぬ。私の真心は貴女の精霊に通じたでせうなア。』
『ハイ、一夜さへ王様の御夢を見ないことはありませぬ。今日ここで貴方にお目にかかるのは夢の様に御座います。夢を両人が見て居るのではありますまいか。夢なら夢で、どこまでも醒めない様にあって欲しいものですワ。』
① 『霊界物語』四十一巻には「入那の国」が出てきますが、日本の京都を中心とした地域とみています。韓国語では、日本の「日」を「イル」と発音します。ハルナの国が「ハル・東」、ナ・「地」を示し、東京を示すように、那とは出口王仁三郎聖師の記述では、国や地を示してますから、当時の日本の中心、京都を示しても不思議ではありません。そして『霊界物語』の発表された当時、韓国は日本に併合されていましたから、「イル」という発音が「日」を示すことは、知られていたと思います。
ちなみに、テルマン国は、関東・江戸ではないかと。テルマンの「言霊《ことだま》返し」は「トルマン」と同様「ツマ」であり、「ホツマ・秀妻」の国、優れた国、日本の東部なのでしょう。テルモン国も「照る紋」という意味で、三葉葵《あおい》の紋などが翻《ひるがえ》る江戸と考えています。
そして、右守司カールチンは、時の右大臣岩倉具視を示すのではないかと考えています。現実の歴史では、岩倉具視は実の妹、堀河紀子...《もとこ》を孝明天皇の典侍《ないしのすけ》〈高級女官の最上位〉とします。堀河紀子は、典侍でも天皇の寵愛《ちょうあい》を当初は一身に受け、皇子女を生む側室の役割を持つ者でした。実際に壽万宮《すまのみや》と理宮《ただのみや》の二人の宮をもうけています。
四一巻のセーラン王は、孝明天皇であり、かつその次の天皇として予定されていただろう有栖川宮熾仁《たるひと》親王を指すと考えています。とすれば、セーラン王の、当初は寵愛《ちょうあい》を受けた妻、カールチンの娘、サマリー姫は、堀河紀子を示すのでしょうか。王仁三郎はカールチンを「変わった朕」と謎をかけています。孝明天皇の後に有栖川宮熾仁を追い落とし朕になり替わろうとする朕なのかなと。朕とは天皇の自称です。王仁三郎は語りました。、マッカーサーはへそだ。朕の上にある。
② 中世のヨーロッパ史では、叙任権闘争に始まり、強権的な王を嫌うドイツ諸侯はこれに喜び、破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議した。王は窮地に陥り、政治的支持を失っていることに気づかされた、そして1077年、北イタリアのカノッサで教皇に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。神聖ローマ帝国に及ぶ教皇と皇帝の争いは、いわば霊界と現界の確執ではないか。王仁三郎が大神の神格と天皇の権威の両方を持っていた事に注目したい。霊界優位は当然だが、現界の立替え立直しも必要になる。
③ 大地の母 冒頭部より
日は天から地から暮れかかる。木枯らしは、いつか細かい雪をまじえていた。その天と地の灰色のあわいを、旅姿の娘が行く。翳った瞳が時おり怯えてふりむく。雪の野面を烏が舞い立つ羽音にも……。
伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍てつく欄干の上をなでる。国訛の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。
誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。
伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。
早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。
そんなある夜、驚きと恐れにおののきながら、世祢は引き寄せられるまま、固く眼をつぶった。抵抗できる相手ではなかったのだ。それに……それにお名を呼ぶことすらためらわれるあのお方を、いつか待つ心になっていた。雲の上の出来事か妖しい夢のようで、現実とは思えなかった。
幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。
東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。
虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。
待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。
「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」
あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。
京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄となられて関東に御降嫁。しかしあの方は、未だに深く宮さまを慕っておられる。二十一歳にして前将軍家茂未亡人静寛院宮と変わられ、江戸におられる薄幸の人を――。
東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫さまと皇室との御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。
東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。
――ただそれだけで、うちは幸せなんや。
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