出口和明の、木庭次守氏への昭和四十六年の取材メモ
八月十四日、出口和明の、|木庭《こば》次守氏への昭和四十六年一月二十二日の取材メモが見つかりました。下記の内容は聖師が同氏に語られたもの。一部『大地の母』や『新月の光』に引用されていますが、『新月の光』で伝えられていないこともあり、お知らせします。
(大正という意味)大の字さかさまの世であったが、大正に入って大の字が元に戻ったという解釈。今まではみろくの世をつくるという所で開祖を中心に拝んでいる。これが大間違いであった。明治は和光同塵の時代であったが、大正になって大本も日本も大いに正しくなった。大本自体としては大正五年に大の字がもとに戻った(神島開きが大正五年)。みろくの世になるぞよという、その世の中心になる「みろくの神」を長年ひどい目にあわせてきた。天の系統にみろくの神は降りられる。天津神系に。国祖は国津神系に。自分は本当の天皇で、天皇家は分家である。
ににぎの尊は天皇系で、三種の神器で日本を治める。にぎはやひの尊は丹波にその系統があって、それが出口家で、かげから日本の天皇家の無事を鎮魂してあげようという立場である。二代さんは教祖さんより...艮の金神を押し籠めたのは天皇であるということをよく聞かされたので、天皇を憎んでおられ、聖師が艮の金神を押し籠めた天津神系、天皇の落胤ということを聞いてびっくりされる。
聖師を好きやけど反面憎まれる。先生は有栖川宮熾仁の御落胤やと言うので、そんな馬鹿なことがと穴太へ馳せ、母のよねさんに聞く。産着と短冊を見せられ、無意識状態のまま京都へ。梅田常次郎宅にいる三代直日さんの所に駆け込む。どこをどう歩いたか、気がつけば二条城だったという。聖師は「うちのお母は発展家でなあ、伏見へ預けられたらわしできたんや。丹波よいとこ女の夜這いというやろ」と仰られたこともあった。
父はだから可哀想であるとも言われたし書いてある。短冊が二枚あったが、火事で焼けた (実際には短冊の一枚は火事から救い出され綾部に現存している)。落胤の証拠になる物件を置いておくと危ないという考えが母よねにはあった。それを十分に知っておられたので、聖師は青春時代から阿呆に見せかけられた。十年ほど顔を洗わなんだり、歯茎にはぐそをいっぱいつけたりして。
現在の天皇には体系だけ伝わってわしだけ霊体一致や。継体天皇で天皇の霊系は終わってしもうた。開化天皇がわからなんだら物語はいくら読んでも駄目だ。昭和二十年八月十五日から開化天皇の時代に入る。結構なお日柄に入ると仰られる。「わかき日本の春は近めり」とは古い日本はあかんという反語として言われたのである。(以上取材メモから)
饒速日を取り上げたのは、「王仁は饒速日だ!」という聖師の『新月の光』の中での言葉と、本当の天照大神は誰なのかという探究心からです。しかし「自分は本当の天皇で、天皇家は分家である」との言葉が記録に残されていることは知らなかった。そして、聖師が自分を有栖川宮熾仁の落胤であることを高熊山ご入山前に知ったという『大地の母』の設定は誤りで、聖師の母よねは聖師が幼少の頃から、世間にはその事実を隠そうとしながら、喜三郎に伝えようとしたことがわかりました。
そして「開化天皇がわからなんだら物語はいくら読んでも駄目だ」とはすでに『新月の光』で発表されています。ゆえに一連の原稿の中で開化天皇の神業に言及したのですが、「昭和二十年八月十五日から開化天皇の時代に入る。結構なお日柄に入ると仰られる。「わかき日本の春は近めり」とは古い日本はあかんという反語として言われたのである」という言葉はさらに衝撃を与えました。
開化天皇の世界統一の神業は、『霊界物語』十九巻記載のように、高熊山ご入山一八九八年の三十五年前、一八六三年から始まりました。そして世界統一の神業は、日本統一の神業の完成、明治維新を世界に応用する形で成し遂げられるものでした。その応用の形の一つが実際には第二次大本教事件と第二次世界大戦などで示された型の思想ではないでしょうか。そして、それは玉鉾の光、切り紙神示、聖師数表とも密接不可分のものではないかと。
はじめに、「開化天皇」の世界統一の神業の前段階ともいうべき信長・秀吉・家康らの活動、日本統一の神業、そのさらに前段階である鎌倉時代に、頼朝に滅ぼされ、かつ実は蒙古に逃れてジンギスカンになったと聖師が示される源義経について記載します。ジンギスカンと義経、明智光秀と千利休の写真を比較しながら、聖師の霊格・ご教示の卓越さを信じることができました。
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