『リニア中央新幹線をめぐって』(山本義隆)
―原発事故とコロナ・パンデミックから見直すー
(1)
少し前のことだが、佐藤愛子は『九十歳。何がめだたい』というベストセラー本の中で、「新幹線」(のぞみ)が東京―大阪間の走行時間を三分短縮したことを称賛しているのに対して、「何がめでたい」とかみついていた。なんでそんなにスピードアップに熱中するのだと疑念を呈していた。彼女は三分短縮ということに疑念も持たず、それを当然ごとく押し進めていることを批判したのである。これらを「文明の進歩」として疑わない風潮というか、社会の動きに疑問を抱いていたのだ。むかし、特急が運行しはじめたころ、「列者が三分停車ではキスする暇さえありません」という歌があった。こんなユーモラスな歌も思い出していたのだが、僕は佐藤のコメントに共感しつつ、リニア工事の談合事件や築地市場の豊洲移転問題も同じだと思った。
リニア工事の談合事件はリニア中央新幹線の建設工事をめぐるゼネコン大手四者(鹿島・大成建設・大林組・清水建設)の談合が発覚したのであるが、僕はその時にリニア新幹線がなぜ必要なのだということが頭をよぎった。現在の新幹線より高速な鉄道を必要としているのかと疑問を持った。その少し前からリニア新幹線が原発2基分に相当する電力を要し、これが原発再稼働に関係しているということを危惧してもいた。ただ、このリニア中央新幹線は既に工事が進行していることは知ってはいたが、その全貌というか、実態を把握することはできないでいた。静岡県知事が工事による大井川の水量減水問題で工事認可を差し止めたが報道された時もそうだった。
この本はリニア中央新幹線の全貌をその計画の発端からその問題までを摘出したもので、タイムリーな本である。待望していたものだと言っていい。本書は序章「なぜいまリニア新幹線を問うのか」から、第一章「リニアは原子力発電を必要とする」、第二章「6000万のメガポリスの虚妄」、第三章「リニアをめぐるいくつかの問題」、第四章の「ポスト福島、ポスト・コロナ」までの四章で構成されている。どこから読んでもいいのだろうが、僕らがなか把握しきれなかったリニア中央新幹線についても明確な知見が得られると思う。
僕は先に佐藤愛子の疑念の共感したと言ったがリニアの報道に触れるたびになんでこんなものが必要なのか、巨額の金を要するが果たして採算がとれるのか、その工事が演じる生態系の破壊にどう対応するつもりなのか、という疑問をいだいてきた。それにこの事業は原発事故を経験しやコロナに直面している今では時代錯誤的な産物ではないかと思っている。こういう素朴な疑問に応えてくれている、それがこの本である。
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リニア中央新幹線とは何だろう。「<リニア>というのはJR東海(東海旅客鉄道)が計画中の、完成したら東京―名古屋を40分、東京―大阪を67分で結ぶと言われる中央新幹線の事であり、同時に、これまでの新幹線とは異なるその車両の<リニアモーターカー>を指します」(「リニア中央新幹線をめぐって」山本義隆。5P)。現在の新幹線「のぞみ」では東京―名古屋間1時間35分、東京大阪間2時間21分(最速)を、それぞれ40分、67分に早めた高速鉄道である。それに超電導のリニアモーターを用いてのものである。
新幹線が登場したのは1964年のことであり、僕は当時、大学生だった。実家は三重県にあって帰省したり、上京したりするのは東海道線を使っていたのだが、名古屋から東京まででの7時間近くの時間を要したことを記憶している。新幹線の登場は所要時間を大幅に変え、驚きだったし、その利便性に感激した。当時、僕は京都にでかけることが多かったのだが、いつも夜行列車で出かけて行き、夜行列車で帰るのにうんざりしていたことがある。せめて特急に乗りたいというのが切ない思いだったが、こうした思いを一挙にかなえてくれるものだった。新幹線の利便性。機能性、安全性の恩恵を受けてきた。そういう思いがある。
多分、リニア中央新幹線はその延長に、つまりは第二新幹線としてより高速な鉄道として計額されたのであろうが、その利便性、機能性、安全性において新幹線を上回るものと考えられていたのだと推測される。技術開発で社会を豊かにして行くという考えがそれほど疑われずに通用した時代に企画されたのだと思う。原発事故を経験し、コロナ問題に直面している今は、こういう通念はもはや通用しないし、疑われざるを得ない。こういう通念も含めて見直しを必須とする事態にあるのだ。だが、動き出したこの事業(プロジエクト)は以前の構想にそって進む、つまりは暴走となっている。そして、それに抵抗する(見直しを要求する声)がいろいろなところで現れる事態になってきている。この背景にはこれまで進められてきた、エネルギーと資源を大量に消費する資本主義経済と石油化学文明の産業的展開、一言でいえば高度成長経済が生活を利便で豊かなものにすることが疑念にさらされるようになってきていることがある。開発ということへの疑念と言ってもいい。コロナ問題はそれをより切実なものしているともいえる。
(3)
リニアをめぐる経緯については本書で簡潔な説明がなされているが、そこで注視しておくべきことは2011年の5月に認可されていることである。2011年の5月と言えば、福島の原発事故から2か月後である。しかも、建設の妥当性を審議した国交省の委員会は計画の中止や再検討を訴えた声(7割)を無視してなしたものであった、と指摘されている。僕はこの十年、原発再稼働の動きに注目し、それに反対する行動を展開しているが、日本の権力機構はそれを無視し、電力業界の要求に沿った決定をしている。国交省が地域住民などの声を無視し、JR東海の計画を認可したことはおどろかないが、国民の意向(民意)が無視される事態に、これは何だという思いがする。いつだって、何だって権力者側の一方的な決定でことは決められる。
著者は経緯上で問題点としてJR東海へ地域住民への対応をあげている。「なによりも問題なのは、JR東海が沿線住民に対して住民自身で判断できるだけの正確な情報を明らかにせず、住民からの危惧や不安の表明に対して誠実に対応してこなかったという点にあります。何回かの説明会でも、中略、それは<話あった>というアリバイ作りのためのものでしかありませんでした」(前同、16P)。これはかつて原発建設にあたって電力会社が地元住民にしてきたやり方と同じというが、それは原発の再稼働にあたってのやり方でもあると言える。官僚や事業主体が地域住民や国民の意向を無視する仕方、その構図は変わっていないといえる。権力側が独善的にことを決めて行くことは何も変わっていない。
この経緯の中で安倍前首相の関与についての指摘もある。この事業はJR東海という民間企業の企画であり、その費用はJR東海が負担することになっていた。膨らむ費用は9兆円近くになっているが、そのうちの3兆円を政府が財政投融資から融資するということになり、それも30年後から返済というただ同然のものである。この融資は安倍政権時になされたが、例に「お友達便宜」の類との事であるらしい。
こうした経緯の中で多くの問題を抱えて進んできたこの事業は人々に疑念をもたせたまま、掘り下げた検討もせずに進められてきたが、これは今、見直しというか、再検討を迫られている。官僚(それを進める行政主体)や事業体は独善的に進展を図ろうとする。この動きを見ながら本書は見直しをやっている。僕は原発再稼働にはリニアが関係しているということを知ったと先のところで記したが、こんな電力消費を要するリニアなどやめてしまえと思っている。
かつて原発推進の大きな柱は逼迫する電力需要と言われてきたが、福島原発の事故後に電気は足りていて、供給が需要を上回っている事態を明らかにした。電力不足を解決する原発という神話は根拠を失っているのである。リニアの消費電力は新幹線の4~5倍と指摘されているが、これは電力浪費である。電力需要の現象に悩む電力会社にとってはわたりの舟ということかもしれないが、国民にとっては問題である。本書の中でも、リニアが原発の再稼働や新設に依存すると指摘されているがとんでもない事である。こうした電力の浪費が許されるとしたら、この事業がそれだけの公益生、つまり社会的必然性を持っているということになるが、それは疑問である。本書でもそのことはいろいろの角度から指摘されている。
リニアは突き詰めれば現在の新幹線よりも高速であるということにつきる。それは現行の東京―名古屋間を一時間40分から40分に、東京―大阪間を2時間20分から60分にするというものであるが、その利便性ということが社会を豊かに活性化するのだろうか、という事に疑問があるのだ。このリニア中央新幹線の企画者たちは新幹線の延長上に、その社会性を想定したのであろうが、これは疑問のおおいところだ。確かにかつて新幹線がもたらしたもの、社会への貢献はあったにせよ、同じことが実現するとは思えない、
例えば、それほどの需要があるのかという疑問がある。事業というものは人々の欲求がある、需要があるということが前提的なことである。それは善とか悪とかを超えた前提的なことであり、事業の自然性なのであるが、果たしてリニアという事業にはそれはあるのか。現在の新幹線利用者(東京―大阪間)の10万人、それに航空機利用者の2万5千人が、利用者として見込まれていると指摘されているが、コロナ禍での利用者の減少を見るまでもなく、これははなはだ疑問なのである。それに現在の新幹線はどうなるのであろうか。リニアはその開発費用も考えれば、当然にも運賃は現行の新幹線より割高になるのであろうと推察される。この事業体であるJR東海は現行の新幹線の利用を減らし、リニアを使うように誘導するだろう。JR東海は独占体であるから、自分たちに都合のいいように(リニアの利用者を増やすように)方策するだろう。結局のところ、割高なリニアを利用すべき対応をするのだと思える。この推測は間違ってはいない。これは根本にはリニアの需要についてのあやふやで曖昧な認識にたっていることによるがが、これはこの事業に跳ね返ると思える。そして、そのつけは国民に押し付けられることになる。いつものことだと言ってすまされないことだ。
(4)
リニアが企画され、事業化が目された時には新幹線の成功があった。その背後の経済の高度成長も含めてである。その経験は人々は呪縛していたのだが、どこかで現在を続いていることいえるかもしれない。これは原発の設置や推進に似ていると思われるが、それ以上に開発への幻想があるのだと思う。僕は築地市場移転問題を思い浮かべるが、利便性、機能性の強化によって事業体を繫栄させ、地域経済や暮らしを豊かにするという幻想が人々を支配してきたことを実感させたのが築地市場移転問題だったように思う。当然、こうして幻想に疑問を抱いたのだが、それに対抗することの難しさも知らされた。政治家は都合のいいことをいい、振る舞うがその結末も見えた。小池都知事の築地市場移転問題での対応を見ればことは明瞭である。誰も彼女の政治的言動など忘れてしまうのだろうが。豊洲市場はどうか、その後の築地市場はどうなったか、誰も問わないが。
リニア中央新幹線は地域住民の反対を無視、工事は進められている。この工事は現在、静岡県知事の大井川水量問題での認可拒否で推しとどめられている。官僚やJR東海は様々のことを画策している。政治的な手を準備しているのだろうと思う。この手法は原発再稼働や推進のために官力や事業体(電力業界)が画策していることとあまり変わらないと思う。脱原発という事がなかなか難しいように、リニアの見直しも難しいかもしれない。だが、これに疑念を持つ人は増えているし、そこへの道をつけることは可能なことである。本書はそれへの武器というか、根拠を明確にしえるものになると思う。第三章の「リニアをめぐるいくつかの問題」や第四章「ポスト福島。ポスト・コロナ」には示唆に富む知見が散らばっている。手にして欲しい本である。
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