善と悪、美と醜 ⑤最終回

絶対善も絶対悪もなし

すべて宇宙のいっさいは、顕幽一致、善悪一如で、絶対の善もなければ絶対の悪もない。絶対の極楽もなければ、絶対の苦難もない。歓楽のうちに艱苦があり、艱苦のうちに歓楽がある。また悲観を離れた楽観はなく、罪悪と対立した真善美もない。善悪不二というのは浄土教では「ぜんまくふに」禅宗では「ぜんなくふに」と読むが、本来、善悪の差別対立などないことを意味している。仏典の「煩悩(ぼんのう)即菩提(ぼだい)。生死即涅槃(ねはん)。裟婆即浄土。仏凡本来不二」は、神の道からいえば「神俗本来不ニ」であろう。

山一つみても、頂上もあれば谷もある。木をみても、幹もあれば根もある。人間の体も、頭もあれば足もある。男があれば、女もある。どんな美女でも尻の穴があるから美を保てるので、もしなかったら、美どころか、命さえ保てない。善ばかり思っていたのでは、霊界のことよりできぬ。善悪、美醜上下、明暗すべて裏表・・・きれいごとばかり並べても、大地に住む限り、多少の悪と、隠された醜の部分はまぬがれぬ。

だからといって、「多少の悪ぐらい、神きまは大目に見て下さる」と開き直ってはいけない。また事実そういう弊害もあったらしく王仁三郎は述べる。

「信者の中には善悪不二とか正邪一如という聖言を楯にとって、自分の勝手のよいように解釈している人もあるようだが、これは神が善悪不二といわれるのは中有界に迷える人間に対していわれるのであり、かつ神は善悪にかかわらず慈愛の心をもって臨ませられる見地からおおせられる言葉である。決して人聞がうんぬんすべき言葉ではない」(『霊界物語』五二巻一七章「飴屋」)

つまり神は、人の善悪正邪の区別によって、その大愛に厚い薄いの差をつけられない。だからといって、その真理に甘えてはならなし、。

みろくの世にも悪は滅びない

みろくの世になると至善、至美、至真、天はあくまで青く、明るく、水は水晶のように澄みきって・・・と思う人もあろうが、そうばかりではない。やはり昼もあれば暗夜もある。月夜には水気が大地に下がって露ができ、植物の成育を助ける。だが月夜ばかりだと、水気が多過ぎてかえって害になる。そこで暗夜があって調節する。人間もまた、昼ばかりでは体を十分に休めることができぬ。光には影があり、時には光をさけて影にやすらう。肉体のある限り、みろくの世になっても影の部分、必要悪はなくならぬ。

今の世は、悪いことをしても世間をごまかし表を飾れば、立身出世もできるし、大もうけもできる。正直でくそまじめなばかりに虐げられ、苦しめられ、悲惨な境遇に泣く人がたくさんある。それは悪魔が君臨する世だからだ。

これからは、もうこんな不合理は許きれない。善いことをすればどんどん善くなり、悪いことをすれば片端から打ち砕かれ、悪の思惑の一つもたたぬようになる。それがみろくの世である。

生存と生活は違う

正しい神と正しく向き合えば、当然に神格が内流する。航路を見失った船が、北極星によって正しく向きをとるように。だが内流を受け止めるために、人はどうやって向きを変えるのだろう。理屈で

わかっでいても悪をやめられないのが人聞の弱きだからいろんな宗教は戒律でしめつける。

仏教の五戒十重(じゅうじゅう)の五戒は、生きものを殺さない、盗みをしない、男女の間を乱さない、嘘をつかない、酒を飲まないだが、これを完全に守れるだろうか。

小乗仏教の僧の場合、五戒を守っている人もいる。インドのジャイナ教の空衣派は空気を衣としているから、まっぱだかで、口に布を当てている。息を吸った時、誤って小虫を口に入れ殺さぬようにだ。うっかり足を出し、蟻を踏み殺したら一大事。息をするのも歩くのも大変だ。戒律を完全に守れれば確かに聖者だろうが、それで神と向き合えたろうか。五戒に意識を縛られて、生活しているとはいえまい。

王仁三郎は「生存と生活は違う」 という。生活とは、神から与えられた命を完全に活かすことだ。多くの人が生存と生活を混同している。王仁三郎流にいえば、文化生活など、文化風をよそおった生存に過ぎない。大部分の人聞がたくましく生存しているか、弱々しく生存しているかの違いだけで、はたして生活しているといえるかどうかを蚕は繭をつくって蛹となり、孵化して蛾となって子孫を残そうとの本能はあっても、蒸されて絹糸にされようなど思ってもいない。

しかし蚕を殺さなければ人の身を包む絹布はできぬ。人は絹を着なくても生きてはいけよう。生きものの皮をはがさずとも、凍え死なない方法はある。だが魚を食うのも、米や野菜を食うのも、そのものの命を断つからには、不殺生戒をまぬがれぬ。大魚は小魚を食い、猫は鼠を食う。それが彼らの生活であり、この天職を果たさねば生きられない。

仏教の場合、植物と動物は区別しており、動物を食べるのは畜生道だが、植物を食うのは戒律にふれない。仏教用語に有情とあるが、情は心の意で、いっさいの生類の総称だ。つまり無感覚な草木や山河を非情とか無情というのに対しての言葉だ。しかし命という意味では、動物も植物も同じこと。植物の命は殺してもよいが、動物の命ならいけないという差別を、神はしていない。宇宙を一つの大生命体とみた場合、それぞれがその中でどう役割を果たすかが大事であろう。

戒律を完全に守る医者は嘘をつけない。癌患者には、お釈迦きん流に「病気ではあるが、癌であるかないか、そういうことには答えません」と告げる。少なくとも嘘はつかなくてすむだろう。患者はその返事を癌と同義語ととろうし、そのショックで患者が死ねば、不妄語(ふもうご)戒をまぬがれでも、不殺生戒を犯すことになる。

開けたる 御代の恵みを浴びながら 生存難に苦しめる世なり

生活は 世の人のため国のため 活きて働く人の業なり

衣食住 外に望みのなき人は 生存競争の衡(ちまた)にさまよう

大本柏分苑

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