大地の母 ⑥最終回

「好きばかりでわしが博奕打っとんにゃないで。孫子のためにしょうがなしにや。上田家はこれまで、小作人らの働きで栄耀栄華に暮らしてきた。それだけに罪も深く、たくさんの人の怨みがこびりついとる。わしは先祖代々の深い罪障をとりに生まれてきた。大木はいったん幹から伐らんと良い芽が吹かん。上田家も一度は家屋敷まですっかりなくさんなん」    「それはあんたはんのお考えですか」

「いんや、産土の神さんのお告げや。博奕をなまけると、覿面に神さんが夢枕に立ってのう、ごつう怒ってんじゃ。そのかわり、わしの孫の代になってみい、きっと世界の幸福者になるわい」

有栖川熾仁親王と和宮の悲恋の物語にあり、皇女和宮が岩倉具視らの策謀により箱根塔ノ沢に明治二年1月20日に岩倉差し回しの盗賊により襲われる。和宮自害。明治天皇、岩倉らに裏切られたと悟った熾仁親王は大室寅之祐明治天皇に無言の縦坑をして江戸に行かず京都にこもり抜く。そもそも公武合体、和宮降嫁は、孝明天皇が次の天皇に指名した和宮の婚約者有栖川宮熾仁親王と和宮の中を裂き、熾仁親王を孝明から遠ざけ、孝明天皇の次の皇位を自分のものとする岩倉具視の幕府を巻き込んだ策謀が始まりであった。そのため岩倉は自分の妹堀川紀子を孝明天皇の妃にあてがい。富貴宮という娘をもうけさす。

 具視は孝明天皇を自分のお稚児としていた。孝明は岩倉に逆らえなかった。まあ男同士の愛。そして岩倉具視がそれ以上に愛したのが和宮親子内親王。

 そして東征大総督をかってでてまで幕府と政府軍の内戦を避けようとした有栖川宮熾仁親王。熾仁親王の真意は。愛し抜いた和宮を江戸の戦火から救い出すことなのだ。西郷隆盛を参謀として。

 しかしその心も知らずか、寅之祐、伊藤、岩倉らは和宮を切って捨てた。その傷心の熾仁親王の目の前に現れたのは、母かなの郷里の女、上田世祢、後の王仁三郎の母親であった。世祢は子供を宿していた。和宮との悲恋に次ぐ、世祢との悲恋の物語が始まる。熾仁親王は明治維新の責任をとって、1895年東京品川御殿で切腹する。

大本柏分苑

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