大地の母 ⑤
上田家は藤原治郎左衛門正一を中興の祖とし、村の伝承によると、文明年間(一四六九~八七)に大和から落ちて来たとされる。正好・正忠・正武・為正・正輔・正安以上七世は、みな藤原治郎左衛門と称した。正安の代まで、西山の麓高屋という地に高殿を建て、高屋長者といわれて百余年住み、その後は愛宕山(穴太にあり、京都の愛宕山とは別)の小丘に砦をかまえこの一帯を領していたが、明智光秀のために没収されたという。
梅吉より七代前の祖先政右衛門の代になって、上田と改姓した。改姓の理由は、「藤原姓であると、万一誤って藤蔓を切れば家が断絶する」との巫女の妖言を妄信したせいとか。当時五町歩(一万五千坪)の二毛作の上田を所持していたから上田姓になったともいわれる。
上田家の産土である小幡神社所蔵の文書によると、「一巴上田、二巴斎藤、三巴藤原」と家紋のとり決めがされていたが、北上田系の家紋は藤原にちなんで三巴である。 宇能が上田家に嫁入った頃は、家から隣村の天川まで他人の土地を踏まずに行けたという。学者の家に生まれ、女性としては珍しい教養の持主である宇能を吉松が妻にし得たのも、上田家には、それに見あう家柄と財産があったからだ。それを吉松一代で見事に無にし、百五十三坪の宅地と破れ家、買い手のつかぬ三十二坪の悪田一枚残すのみとなった。
酒は飲まぬ。煙草はすわぬ。神経質なぐらい清潔好き、その上、正直で勤勉な吉松である。それでいて一家を貧困に追いやったのは、博奕好きという性癖に起因した。二六時中、賽をはなしたことがない。吉松は農事のひまを一刻も無駄にせず相手を探しては丁半、丁半。夜ふけてもやめぬ。相手がくたびれて眠りこけ、行燈と二人になっても丁半、丁半。強くない証拠に、昨日は一枚の田がとび、今日は一山が移転する。
世に賭事好きは多い。熱中して破産する者も珍しくない。が、変わっているのは吉松の女房宇能への言種である。
「心配すなや。お天道さまは空とぶ鳥さえ食わしとってや。魚や獣は明日のたくわえしとらんが、別に餓えて死にもせん。人間かて餓えて死ぬのは千人のうち何人、あとは食い過ぎて死ぬ。人間、四日や五日食わんでも死なんよう、あんじょうできとる。気楽なもんや」
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