神島開きと神武天皇 (2-1)
〔令和2年8月30日 藤井 盛〕
〇妻との三つの旅
「お父さんが行くのは大本のところばかり」
三年前の平成二十九年十月に他界した妻が、ある時期からこう言い始めた。妻を大本の行事に連れて行くため、なるべく前泊や観光を入れるようにした。
今回の「神島開きと神武天皇」は、ずいぶんと硬い題名だが、妻が亡くなるまでの一年間に妻と行った三つの旅からできたものである。
一つ目の旅。平成二十八年七月鳥取大山での「世界平和祈願祭」に参拝して、神島開きに関係する出口王仁三郎聖師のお軸に出会った。
二つ目の旅。翌二十九年三月の大阪分苑春季大祭へ参拝し、神武天皇ゆかりの生國(いくくに)魂(たま)神社に出口聖師がよくお参りされていたことを知った。
三つ目の旅。同年八月、西宮の娘の家に行くのに併せて、これが妻との最後の旅と思いつつ神武天皇を祀る橿原神宮に参拝した。神島開きに当たって、橿原神宮に出口聖師が参拝されていたのを知っていた。
これらの三つの旅が重なると、自然に「神島開きと神武天皇」という題材に行き当たった。
〇神武天皇と出口聖師
大正五年の神島開きの経緯が「敷嶋新報」畝傍山の一と二(同年五月一日号)に記してある。それは、日本書紀の神武天皇東征の段そのままの記載から始まっている。
ところが、日本書紀の文面がそのまま載せてあるはずが、饒速日(にぎはやひ)の名前が記載された部分だけがそっくり抜けていた。
厥(そ)の飛び降(くだ)るという者は、是饒速日と謂うか。
何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」とのたまふ。
この箇所の意味は「塩土老翁(しほつちのおぢ)が言う東の良い土地には、天から降った饒速日がいる。そこに都をつくろう」というもので、神武天皇の東征のきっかけに当たるところであるが、饒速日の名前が抜けている。抜けていることは日本書紀を見ればすぐわかる。すぐわかることをわざと隠すことは、あぶり出しのような強調効果がある。
では、なぜ饒速日を強調されたのか。それは、出口聖師ご自身が語っているように、饒速日が出口聖師であるからである(註1)。
神武東征の時代、饒速日と現れた出口聖師(註2)は、神武天皇に刃向かう長髄彦(ながすねひこ)を討ち、大和朝廷の成立を助けている。
(註1) 饒速日命は十種(とくさ)の神宝…をもらわれた。王仁は饒速日だ。十種の神宝は天の数歌…のこと (昭和十七年十一月十六日 桜井重雄氏拝聴) 〔新月の光 上巻三四六頁〕
(註2) 至仁至愛(みろく)の大神は数百億年を経て今日に至るも、若返り若返りつつ今に宇宙一切の天地を守らせ給ひ
〔天祥地瑞 第七十三巻第一二章「水火の活動」〕
○神武天皇と国祖と天祖の親密さ
さて、神武天皇は塩土老翁(しほつちのおぢ)の勧めにより、東の良き土地を目指して東征を開始し、また、饒速日の助けを得て朝廷を成立させる。
塩土老翁は結果的に神武天皇と饒速日を結びつける働きをしているが、出口聖師はこの塩土老翁は国祖国常立尊だと言われている(註3)。
また、塩土老翁は、神武天皇の祖父に当たる山幸彦(=彦火々(ひこほほ)出(で)見(み)命)を助け、龍宮に案内している。
なお、私は、今年七月の「沓島・冠島開き百二十年記念現地祭典」に参拝し、これを「大本講座『冠島・沓島開き120年』」でユーチューブにアップした。
この中で塩土老翁(しおつちのおぢ)について、「記紀神話に出て来る山幸彦が塩土の翁(おきな)に案内された竜宮は、この沓島だと言われている」(註4)「この塩土の翁は、大和朝廷を立てた『神武天皇』と『饒速日』を結びつける役目を果たした」と字幕で説明した。
(註3)この翁(おきな)の真(まこと)の解釈は、国常立尊となるのであります (大正九年十月四日 五六七殿講演筆記 神武天皇御東征之段)
〔出口王仁三郎全集 第五巻二一九頁〕
(註4)大本七十年史上巻〔二○八頁〕
また「敷嶋新報」には、神島開きの大正五年が、神武天皇崩御の祭祀「神武天皇二千五百年祭」の年に当たり、また「大本開教二十五年」にも当たると記してある。
大正五年の辰年は…神武天皇二千五百年祭に當り給ふ、此年を以て開教二拾五年の春深玄なる御神慮の下に神軍の初参を遂げたり。
神武天皇は大和朝廷を立てた現界の治世者であり、一方、国祖国常立尊は地上神界の主宰者として再出現されている。現界と地上神界双方の治世が、大正五年において、ちょうど「二十五」という共通の年回りで一致しているというのである。しかも、出口聖師が天のみろく様のご顕現であるということがわかる神島開きの年においてである。
この神武天皇と国祖国常立尊には共通することがさらにある。いずれも出口聖師の御霊(みたま)を「助け人」としていることである。
出口聖師が自分だと言われた「饒速日」が神武天皇の大和朝廷成立を助け、また、出口聖師としてご顕現される「天祖・みろくの大神」が、国祖神政の再現をお輔けになるのである。このように、神武天皇と国祖国常立尊、そしてこの両者を助ける出口聖師と顕現される天祖の三者の関係は、至って親密である。
加えて、神武天皇の母である玉依姫は、国祖国常立尊が冠島・竜宮島に納められた瑞の御魂・潮干の珠(註5)である。
(冠島に納める)玉依姫(瑞の御魂・潮干の珠)
↑ (東征を勧める) ↓(母親)
国祖=塩土老翁 → 神武天皇
↑ ↑《朝廷成立辛酉》
(再出現を輔ける) (朝廷成立を助ける)
天祖 = 饒速日 = 出口聖師
また、大正十年辛酉(かのととり)の旧九月八日に、霊界物語口述の神示が出口聖師にあった。神島開きに関しても、第三回目の渡島で出口聖師が神宝を持ち帰られた日や第四回目の渡島のために綾部を発たれた日(旧暦)も、いずれも九月八日である。
このように、大本の重要な出来事は九月八日や辛酉など三革(註6)の年に起きるが、大和朝廷成立も辛酉である。
なお、霊界物語を見ても、辛酉の九月八日に神素盞嗚大神と国祖国常立尊の分霊国武彦が由良の港の秋山館で会われ、翌九日、桶伏山で三十五万年後の再会を約されている(註7)。
またその三年後の甲子(きのえね)の九月八日、再び秋山館で神素盞嗚大神と国武彦が会われ、神武天皇の母の竜宮島の竜の宮居に鎮まる玉依姫から渡された麻邇の宝珠を迎えておられる(註8)。
(註5)霊界物語第一巻第三五章「一輪の秘密」
(註6)三革:暦(こよみ)の干支(えと)で天地の変動があるという年 革命(辛酉)・革令(甲子)・革運(戊辰)
(註7)霊界物語第十六巻第五章「秋山館」・第六章「石槍の雨」
(註8)霊界物語第二十六巻第一章「麻邇の玉」・第二章「真心の花〔一〕」
○出口聖師の橿原神宮参拝
三者のこうした密接な関係を背景とするなか、出口聖師は大正五年四月五日(旧三月三日)、神武天皇を祀る橿原神宮や畝傍山神社を参拝された。この折、出口聖師が、国祖のお筆先に出た「一つ島」(註9)は神島だと言われて、六月二十五日(旧五月二十五日)の神島開きに至っている。
このように、この際にも出口聖師や神武天皇、国祖の三者の関わりが見られる。
(註9)朝日のたださす夕日のひでらす高砂沖の一つ島一つ松松の根元に三千世界の宝いけおく 〔「高砂みやげ」村野竜洲『神霊界』大正六年一月一日号〕
ところで、橿原神宮の参拝について敷島新報にはこうある。
神界の御用も全く済まし得たり。祝詞の本文及び神務の次第は今は発表せざる可し。
祝詞や今回の御用の内容は発表しないとあるが、当時の参拝者の一人、内藤正照氏が出口聖師に聞かれたことを、徳重高嶺氏が昭和六年一月八日の日記に残している。
勅使が帰った後に、出口聖師と二十五名とが橿原神宮を参拝した折、聖師がくるりと回られてご神前を背にされたというのである。
礼拝 その折聖師様はくると神前にあとむきになり 何か話されたとの事 これは後にて承はれば国祖のしかくにておこし故 宮に鎮ってをきゝでなく 前にまわれて国祖のお言葉をきかれたからであると
〔徳重高嶺氏日記 昭和六年一月八日〕
橿原神宮に祀られている神武天皇の神霊が、国祖のお言葉を聞くために、お宮を出て、聖師の下座に回られ、また、聖師は国祖の資格で行かれたというのである。
○記紀神話の実在性
しかし、神武天皇に伝えられた国祖のお言葉を内藤氏は聞いていない。いくつか推測してみる。
◇出口聖師の霊が天のみろく様の御(おん)霊であり(註10)、かつて神武天皇を助けた饒速日は、出口聖師の現れであること。
◇皇室の先祖である天照大御神の三代の日(ひ)子(こ)番(ほ)能(の)邇(に)々(に)芸(ぎの)命(みこと)が御降臨し地球を治める以前は、伊邪那岐命に命じられて、出口聖師のお霊(みたま)である素盞嗚尊が治めておられたこと(註11)。
◇皇室のお血筋が、出口聖師によって受け継がれ大事にされていること(註12)。
こうしたことを国祖は神武天皇に伝えられ、かつて塩土老翁が、神武天皇と饒速日の間を取り持ったように、再び国祖が、神武天皇と出口聖師の間を取り持たれたのではないだろうか。
何を伝えられたか誰にもわからないことであるが、実は私にとってもっと大事なことがある。出口聖師が神武天皇に語られたことで、神武天皇の神霊が確かに存在することの証がなされたことである。
橿原神宮は、神武天皇が造った橿原宮があったという場所に、明治二十三年に創建されている。出口聖師の参拝はその二十六年後の大正五年であるが、確かに神武天皇の神霊は鎮まっているのである。先に述べた天祖と国祖と神武天皇の三者の親密な関係が、実在のこととして確信が持てるということである。
もとより、我々は、天御中主神や国常立尊など古事記や日本書紀に御神名の出て来る神々を信仰しているのであるが、社会一般には記紀の世界は、作り話の神話としか扱われていない(註13)。神武天皇の神霊の存在は、神話と言われる記紀の世界の実在性を大いに高めるものである。
註10)みろくさまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊がみろくの神のおん霊で、結構なご用がさしてありたぞよ。みろくさまが根本の天のご先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。 〔大本神諭 大正五年旧九月九日〕
(註11)霊界物語第十二巻二八章「三柱の貴子」
(註12)◇〔霊界物語第三巻余白歌〕にある有(あり)栖(す)川(がわの)宮(みや)熾(たる)仁(ひと)親王「たるひと」読込歌二十三首中の三首
軒ゆがみ壁の落ちたる人の家に産声あげし瑞御魂かも(二四)
高天原紫微の宮より降りたるひとつの魂ぞ世の光なれ(二七)
腹借りて賤ヶ伏屋に産声をあげたるひとの神の子珍らし(三六)
(註13)戦後の史学界は、天孫降臨から神武東征という「神話」を、まったく架空の絵空事と切り捨てた。
〔関裕二著 神武東征の謎 PHP文庫(一九頁)〕
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