<有栖川宮熾仁親王と出口王仁三郎>

有栖川宮熾仁親王(1835~1895年)は明治12年(1879)に嘉仁親王(大正天皇)が生まれるまで、明治期、皇位継承権一位の立場にあった。慶応3年(1867)王政復古の大号令で樹立された新政府では、総裁(首相)で、東征大総督にて新政府軍を率いて江戸城無血開城を果たす。その後元老院議長、陸軍参謀総長、伊勢神宮祭主など明治天皇を支えたことになる。和宮は孝明天皇の異母妹で、8才の時に父・仁孝天皇の命で19才の熾仁親王と婚約する。公武合体の一環として、孝明天皇は14代徳川家茂の正妻にして、熾仁親王との結婚直前に婚約が破棄され、江戸に下った悲劇の皇女である。

そんなとき、明治元年(1868)京都伏見の船宿で、丹波亀岡から来た女中の上田世祢(19才)と出会う。この船宿は世祢の母宇能の弟が経営していた。宇能の父は中村孝道(言霊学者)で有栖川宮家の侍医をしており2人は知り合った。熾仁親王の生母は亀岡の局(つぼね)・佐伯祐子、丹波守・佐伯祐條の娘である。熾仁親王が7才の時、死別した。母の姿と重なったのか熾仁親王は度々この船宿に通う。熾仁親王日記(1868~1869年)には調馬の事として70回も書かれている。太政官からの東上の命令(1869年)で熾仁親王34才は世祢との別れに、短冊、白綸子の小袖、菊の紋章を刻した白木の短刀、巾着を授ける。短冊には<わが恋は深山の奥の草なれや、茂さまされど知る人ぞなき>と<我恋は見山かくれの草なれや、志けさま佐れど志る人のなき>である。私の恋は深山の奥の草のように生い茂り、恋心が繁れども、誰もそれを知る人はいないという意味か。

熾仁親王が京都を去った後、世祢は妊娠したことに気づいた。もし男の子だったら殺される。逃げるように亀岡の実家に帰った。母の宇能はすぐに婿(上田吉松)を迎え、明治3年1月に結婚、7月12日に男の子(喜三郎)が無事生まれた。熾仁親王の子だと発覚しないよう、出生日を1年遅らせて、明治4年7月12日として届け出た。当局に判らないよう身体を汚し、アホに見せかけ<八文喜三>というあだ名は十文に二文足りないらしい。一方、神童、地獄耳とも呼ばれた。上田家は、亀岡市穴太寺に近い農家である。7代前の先祖に絵師・円山応挙、さらに藤原氏にたどり着く。

明治31年、喜三郎は細民をいじめるヤクザと大ゲンカ、袋叩きにされる。枕元で祖母・宇能に諫められる。ハッと我に返ると、富士浅間神社・木花咲耶姫の神使・松岡芙蓉仙人が立つ。喜三郎の身は二キロ離れた高熊山の岩窟の中に座す。寒い冬の中、襦袢一枚で何も食べず、水一滴許されず、一週間の霊的修業を行う。2時間の現界修業、1時間の霊界修業を繰り返す。霊界物語第1巻で、<過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは、数百年、数千年の後まで知悉し得られたのである>と述べている。高熊山修業後、鎮魂帰神法(神人感合術)を始め、審神者となり神の道を究める。喜三郎が鬼三郎となり、王仁三郎に変化する。

ところで、熾仁親王と孝明天皇は男系では11親等も離れており血縁関係は希薄だが、なぜ熾仁親王が皇位継承権一位の立場だったのか?それは世襲親王家という制度で、親王を代々世襲していく特別な宮家、天皇家に血縁が近い有栖川宮家はその一つ(他には伏見宮、桂宮、閑院宮)。天皇に男子が生まれない時、皇統を継続する使命があった。天皇の皇子は親王宣下を受け一代限りの宮家である。天皇の皇子は皇太子を除いて出家する。世襲親王家も跡継ぎ以外は出家していた。徹底した血統管理は権力闘争を防止する長年の智恵だった。近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家は朝廷の政治担当で、天皇にはなれなかった。王仁三郎には皇統があった。幼少時に暗殺しているならともかく、宗教の教祖として民衆のみならず、軍部や皇室内部にも支持があり、うかつに殺すわけでもなく、弾圧して闇に葬るしかなかった。実際に大正10年(昭和天皇が摂政)に一度目と、昭和10年に2度目の弾圧を実行した。

実は熾仁親王の落胤は王仁三郎以外にもう一人いて、名古屋の田中たまが生んだ<いく>とういう女性である。たまの名は熾仁親王日記に数カ所、記載があり宮内庁も認めている。いくの生まれた(明治22年)数日後に名古屋市長が熾仁親王に報告している。熾仁親王は短冊とルビーの指輪、そして産着をたまに与えている。短冊には<玉矛の道ある世をぞ仰ぐらん 万の民もひとつこころに>とあり、王仁三郎はみろくの世のお祈りじゃと語っている。全ての人から敵愾心がなくなり一つの心、みろくの世である。娘のいくは大本に入信しており、王仁三郎はいくの息子の家口栄二を、孫の直美の婿に迎えた。出口栄二は大本総長となり、1962年、北京で周恩来首相と会見している。当時の大本三代教主は三度目の弾圧があると、栄二と直美を追放してしまう。確かに内部で起こした大本第3次弾圧事件の真っ最中である。

熾仁親王の落胤だという事は、昔から大本内では公然の秘密だった。王仁三郎は熾仁親王の名を読み込んだ三百首に及ぶ短歌を詠んでいる。

神のため御国のためにつくしたる人の子神の柱とぞなる(熾仁の子)

熾(さかん)なる稜威(みいず)照らして仁徳の徳を広むる人の出でませ(熾仁)

ありとあるすべての物も山川もよりて仕ふる御代ぞ恋しき(有栖川)

さて、1898年高熊山修業を終えた喜三郎に、西北の方向へ行け、お前を待っている人がいると、神のお告げがある。穴太から8キロ程、離れた八木という町で茶店を開く福島久子(出口直の三女で後の霊界物語では高姫として反面教師役で登場)が母に懸った艮の金神を判ける者が東から現れる事を信じ筆先を持って待っていた。3ヶ月後、綾部で喜三郎は出口直と会談する。大本の開教は出口直に艮の金神が懸った1893年もしくは王仁三郎が高熊山に入山した1898年になる。

王仁三郎が大正時代に書いた回顧録に、自分はキリストで、直は洗礼者ヨハネに例えている。しかし当時の幹部から新参者は排撃され、主導権を握ったのは1921年第1次大本弾圧後になる。大本には浅野和三郎、谷口雅春、岡田茂吉らが入信、海軍から浅野正恭、秋山真之、飯森正芳の将校、宮中から鶴殿親子、柳原白蓮ともに霊界物語で紫姫、貴族の娘(サロメ)として登場する。大正6年貞明皇后が綾部を訪れたり、宮中某重大事件(1921年)では王仁三郎が鶴殿親子を通して色盲ではないと断言し、婚約に至ったらしい。また三女の八重野が高松宮に嫁ぐ話もあったという。当局は王仁三郎を脅威と感じていた。原敬内閣は紀元節の翌日、大正10年2月12日綾部の大本本部、大阪の大正日日新聞を家宅捜索、不敬罪と新聞紙法違反で起訴した。懲役5年の判決が出たが、大審院で審理中、大正天皇の崩御で1927年大赦令免訴、7年間の第1次大本弾圧は終了する。

大本柏分苑

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