和宮降嫁

和宮降嫁は岩倉具視が次の天皇になるために皇妹和宮の婚約者熾仁親王を追い落とすために仕組んだ策謀。実は熾仁親王は岩倉具視の一方的恋敵だった。(霊界物語41巻から)

万延元年(一八六〇)、大雪のなか登城する大老井伊直弼の行列に水戸脱藩の尊攘派浪士ら一八名が切り込み、井伊を刺殺する。桜田門外の変である。幕府の威信はますます低下し、政権を引き継いだ安部・久世は、尊攘派を牽制せんがため、朝廷に対し、和宮降嫁を強硬に申し入れてきた。

孝明天皇は最初、難色を示す。和宮にはすでに婚約者の有栖川宮がいるうえに、和宮自身も、江戸は蛮夷《ばんい》の集まるとことして恐怖していたからである。ところが幕府は引き下がらず、公武一和のためと重ねて押し戻し、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、次々と外堀を埋めていった。

孝明天皇は板ばさみになって苦悶するが、そこに策略家の岩倉具視が登場する。岩倉は幕府の執拗な降嫁奏請を逆手にとり、降嫁容認は屈服ではなくむしろ「関東へ御委任の政柄を隠然と朝廷へ御収復」する絶好の機会ととらえ、和宮降下を認める条件として、幕府に対して、攘夷の実...行や、国家の重要事の奏聞《そうもん》を命じることを天皇に奏上したのである。

岩倉の説得で孝明天皇は和宮降嫁を認めることを決意する。和宮はみずから天皇に「この儀は恐れいり候えども幾重にも御断り」と手紙を書く。無理もなかった。和宮はもの心つかぬうちから熾仁親王を慕い、その妻となる日を夢見つつ成人したのだ。十年の時の流れが、ふたりの心を固く結びつけている。しかし、天皇が九条関白に宛てた宸翰《しんかん》で、この問題がこじれるならば譲位を決意していることを知った和宮はついに承諾する。

文久元年十月二十日、和宮は桂御所をあとに中山道を江戸へ下った。全長五十キロにのぼるその行列のなかには、十四歳の八木清之助もいた。江戸大奥での和宮に対する待遇は礼節を欠くことも少なくなく、また武家風の生活習慣との齟齬《そご》ゆえ姑の天璋院《てんしょういん》との関係はぎくしゃくしたものになった。しかし、同い歳の家茂は誠実な愛情をもって和宮に接し、夫婦仲は睦まじく、時にほほえましいものがあったという。(王仁三郎は霊界物語41巻上で否定)

家茂と和宮の不可解な死因 脚気衝心《かっけしょうしん》。侍医は同じか。同じ毒を盛ったか。

ところが、それからわずか四年後の慶応二年(一八六六)六月二十日、長州征伐の最中、家茂は二十一歳の若さで大阪城で夭折《ようせつ》してしまう。公表された死因は脚気衝心《かっけしょうしん》であるが、暗殺の噂もあった。

和宮は剃髪《ていはつ》して静寛院宮と号したが、家茂亡くして六か月後の十二月二五日、今度は孝明天皇が三六歳で崩御する。いったいなんのための政略だったのか。国はゆらぎ、幕府はきしみ、かつての許婚熾仁親王は征東大総督として軍をひきいて江戸へ攻め寄せてくる。

いつの間に朝敵となったのであろう。三二歳の和宮は、江戸城に逃げ帰った慶喜の助命嘆願に専心する。江戸市民が戦火に巻き込まれぬよう教諭を発し、江戸進撃中止の嘆願書を書く。江戸は戦火を免れ、天皇は江戸城を皇居としたが、和宮のむなしさを救うものはなかった。

明治二年正月一八日、和宮は東京(江戸)をあとにして京都に帰るが、明治七年七月、再び東京に移り住む。そして明治十年八月、脚気を発病、侍医の進めによりて箱根塔之沢へ湯治に赴《おもむ》くが、九月二日、にわかに衝心の発作により、当地で他界したという。

和宮と家茂の死因は時期も場所もちがうのに二人して脚気衝心。診断医は同じなのか。岩倉、篤姫、慶喜達が疑われる。同じ毒を盛ったのか。、

●有吉佐和子『和宮様御留《かずのみやさまおとめ》』

文芸雑誌の『群像』に一九七七年一月号から七八年三月号にかけて『和宮様御留』という小説が連載されました。そこで取り上げられたのが『和宮替玉説』です。

さて、岩倉具視の意向を受けた京都所司代酒井忠義《さかいただあき》が公武合体のために和宮降嫁を急ぐのですが、第百二十代仁孝天皇の后妃のひとりであり和宮親子内親王の生母 勧行院(通称おすめ)が頑強に拒否します。何も知らされないで、少女フキが替玉、和宮に仕立てられて精神に動揺をきたしていくわけですが、その動揺と変調自体は、逃げるために作られたものかもしれません。そして、岩倉具視が仕立てた、髪の毛が淡く、いわゆる赤毛の、左手首のない和宮に取り替えられます。

有吉は、和宮が、その屋敷跡が現在の目白の学習院となった豪農新倉家の家の蔵で縊死《いし》したとの伝承を紹介し、その伝承が御留の本のストーリーに生かされたことがわかります。和宮はもともと東下せず、「フキ」が、板橋本陣で小説の上で宇多絵とされる、岩倉具視が因果を含めただろう、左手首のない新しい和宮にすり替わったとするのですが。いずれにせよ有吉の本は三人の和宮を想定しています。縊死したとする和宮は、伝承では本物の和宮としながら、「御留」で入れ替わった和宮「フキ」を想定していることに不徹底さが感じられます。また有吉は、増上寺の和宮の髪は赤毛であったが、家茂の内柩に収められていたのは緑の黒髪だったと記しています。

『和宮様御留』は有吉の構想した小説であり、事実ではありません。

明治二年に和宮は暗殺され、骨は東京へ持ち帰られ、左手首は八木清之助が持ち帰って郷里に埋めたと推理しています。その場合、和宮が明治十年に亡くなったとされるその期間をどう埋めるかが問題となります。

和宮の替玉とは本当にいたのでしょうか。いたとしたら誰か?なぜか?

出口王仁三郎聖師は、『霊界物語41巻』の中で有栖川宮熾仁親王と和宮親子内親王に何をどう語らせたのか?

■第三章

●和宮の死去は明治二年か十年か

皇女和宮は出口王仁三郎聖師の父、有栖川宮熾仁親王の許嫁《いいなづけ》として、公武合体の犠牲になられ、江戸城無血開城にも貢献された方です。和宮が明治二年に箱根塔ノ沢で暗殺され、骨は東京に持ち帰られ、左手首は、八木清之助が持ち帰って亀岡市の郷里に埋めて五輪の塔の形で祀《まつ》られたことを仮説として呈示しました。明治十年に和宮が箱根で死亡したという公式事実から、和宮暗殺は明治十年であろうしていますが、和宮が京に帰ったのは、明治二年二月三日とされていますから、「調査団宛の手紙」を書いた老婆の指摘する明治初年の年代、和宮の暗殺はこの二月三日の前のことではないでしょうか。

「調査団宛の手紙」の主旨は、明治初年に「岩倉卿と祖母が主になって、小数の供まわりを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあい(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(もちん御駕籠《かご》)おかくまいいたし、祖母も薙刀《なぎなた》を持って戦いはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追いはらって岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早これまでと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた」ということです。それならば、明治二年二月二四日に明治天皇に会ったという和宮親子内親王とは、その面会の事実そのものが虚偽か、あるいは、殺されたであろう和宮の「替玉」であったのではないでしょうか。

大室寅之祐明治天皇は、江戸開城から半年を経た明治元年十月一三日、初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められました(東京奠都)

和宮が十一月一日に明治天皇と面会したという記録がありますが、天皇は御簾《みす》の外から顔を出して和宮と会見したのでしょうか。もしそうなら、和宮は明治天皇が偽物であることを見抜いていたはず。

ただ、兄孝明天皇が暗殺され、夫、徳川家茂も暗殺説が飛び交い、孝明天皇の子とされる睦仁親王も暗殺されたと悟ったならば、自身の命を考えるならば、和宮は黙るしかなかったはず。そして、辻ミチ子氏の『和宮』(ミネルヴァ書房)によれば、上京に当たり和宮には千金(千両、または多額の金額)が渡され、侍女たちにもお手当が出ます。勝海舟は日記に「万事朝廷にて御賄《まかな》いなし下され、かつ天璋院様へ三千両お送り下され、至厚のご趣意、岩倉殿深情に出ず」と記しています。

ここに登場するのは、「調査団宛の手紙」の老婆の指摘と同じ、岩倉具視です。この千両とか三千両とは、岩倉具視や伊藤博文が実行した孝明天皇暗殺と大室寅之佑すりかえに伴う「口止め料」ではないでしょうか。1月11日に天璋院篤姫を訪問し暇(いとま)乞いをし18日に東京を発った。

大本柏分苑

大本柏分苑のホームページです。 5件のSNSがあります。 ①アメーバブログ ②フェイスブック ③TWITTER ④YOU TUBE ⑤ライブドアブログ 下記それぞれの画像をクリックして下さい。

0コメント

  • 1000 / 1000