天人道の常~造について~生産的職業 梅園 浩先生 NO.13
○天人道の常
人間の世界だって同じことです。お先真っ暗で、八方塞がりで、人間をつぶすために神様は天道を作っておられないのです。どんなに行き詰まったように見えても、人間が神様の道に従って努力していけば、必ず開けるようにできているわけです。神様が作っておるとおっしゃるわけです。
それを我々が信じたらいい。どんな目に遭っても、常に希望を持って進むことができると思うんです。決して希望を失ってはいけないし、希望を失うということは、天道を信じないということになってくると思うんです。この点、私たちが生きていくときに、天人道の常ということを確信するということは、大事なことだと思うんです。
我々が愛善の神の懐の中に、今も抱かれているんだということを考えたら、悪くなるはずはないというか、悪くなるというのは、結局、自分が人道に背いた時には、自ら悪く落ちこぼれていくわけなんで、だから、その時に考えることは、自分がどのあたりの人道や天道に背いたのかということを、やっぱり考え、そして、軌道修正をしていくことが大事なんだということなんです。
だから、聖師様の思想から言えば、地獄というものを神様は決して作っていない。神様が作られたのは、いわば、天国しかないんだということです。地獄は人間自らが、自ら神に背いて自ら作っていくのが地獄なんだ。地獄を初めから用意しておられるような神様を我々は拝んでいるんじゃないんだということです。それを確信するということ。それは、天人道の常というところでも大事なことじゃないかと思います。
○造について
四大綱領の四番目です、造。生業、適宜の事務。生業ということは、ある意味で職業ということでもあるわけで、大本においては、職業に従事するということを非常に大事にされています。
霊界物語の第一巻を読みますと、業の意義というのが第二章に出てきます。その中に「すべて業は行である以上は、顕幽一致(けんゆういっち)、身魂一本(しんこんいっぽん)の真理により、顕界において可及的大活動をなし、もって天地の経綸に奉仕するのが第一の行である」とあります。
現界において、我々が現界的活動をし、そのことが天地経綸に奉仕する第一の行である。職業を通じて我々がいろいろな苦労をする。それを信仰的に言えば、天地経綸に奉仕する第一の行なんだということをおっしゃっています。また「たとへ一ヶ月でも人界の事業を廃して山林に隠遁し怪行異業に熱中するは、すなわち一ヶ月間の社会の損害であって、いはゆる神界の怠業者もしくは罷業者である」つまり、ストライキをしているようなものだと。宗教家、よく信仰する人が、自分の仕事をほったらかして、山にこもったり滝にこもったりして一ヶ月こもるというのは、これは、ある意味で現界における仕事を、一ヶ月なら一ヶ月さぼったということになるんだというぐらいに、きつく言われているんですね。
聖師さまのお歌の中にも、
朝夕に汗して働くなりはいの中にこもれる宗教のひかり
というのがありますが、私たちの日常の仕事の中で、苦労し、その中で業を積むというのが、むしろ現界における最大の行、第一の行なんだと。それは大本の一つの特徴ということになってくるんだと思います。
その四大綱領の中の四番目に造ということが出てきます。適宜の事務。我々が職業を持つというのは、生活のためという意味もありますけれど、もっと信仰的に言えば天職遂行です。天地経綸の主体者としての、人間の天職を遂行するための分業として職業はあるんだという、そういう職業観に立てと教えられているわけです。そういう意味で、職業には貴賎の別はないということにもなってくるわけです。
○生産的職業
そして、そういう天職遂行のための分業としての職業となれば、正しい職業ということは、常に生産的でなければならないということです。世の中には非生産的な職業も多いし、むしろ生産を破壊するような職業、それは大本でいう正しい職業とは言えない。生産的であるということは、霊体両面において言えることですから、必ずしも林業とか、漁業とか、農業だけが生産的だというわけではないわけです。だから、そういう物質的な生産と同時に精神的な生産も当然、生産的職業ということが言えるわけで、そこに芸術家も同じように大事な存在になってくると思います。教育者もそういう点では生産的な職業ということになってくると思います。
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