平和問題~慣~五ケ条の戒律  梅園 浩先生 NO.10

〇平和問題   

 

 平和運動の問題ですが、あの頃、榮二先生が中国にも行ってこられて、だから、榮二先生は赤だということを言われる。中国は今になってみたら、日本から共産党こそ行きませんけど、自民党も行くし、向こうの鄧小平さんが来たり、天皇と会ったりということをやっている時代なんです。

そう考えたら、あの時に榮二先生を中心にして教団で進めた日中友好とか、国交回復とか、あるいは、原水爆禁止の運動とか、何にも赤でも何でもないわけです。しなきゃならなかった。今となってみたら当たり前のことです。だから、そういう点で、やはり教主様ご自身が、あの時に、そういう栄二先生は赤だというような連中の口車に乗ってストップさせたのが、自分の不明だったなということを、本当は考えていただきたい。そういう反省がなかったら、やっぱり歌を出されただけではまだいけません。

八十年というけど、かけがえがない水晶の種、水晶の御霊と言われながら、実際にやってきたことは、聖師様の物語をそっちのけにしてみたり、あるいは、平和を築くための運動に圧力をかけたり、そういうことをやってきたりすると、聖師様には決して褒めてもらえないと思います。だから、これからの余生を、教主様は本当によかったと思われるような余生にしていただきたいというのは、我々信者としての切なる願いです。本当に教主様のためにも。

  〇慣

 慣というのは、天人道の常と書いてありまして、宇宙を造られる時に、神様は霊主体従、霊体一致というそういう法則でもって宇宙を造られ、その法則に従ってすべてのもの、人間をはじめ動物、植物、鉱物、天地自然の間におけるあらゆる万物に対して、神様の目的のために役立たせるように、すべてのものには慣性が与えられている。

慣というのは習わしです。神様は宇宙を造る時の霊主体従、霊体一致という法則の下に、神様の理想を実現するためにその目的を持たせて、あらゆるものに良能、良質、すなわち、慣性を賦与されたと。そして、その神様が慣性を賦与されるときに必ず法則に従って、神様は良能、良質を与えておられるので、その神定の法則、神様の法則そのものを天道というんだと。それに従って万物の良能、良質が与えられているわけですから、万物の持っておるところの慣性というものは、天道の表現である、現れであるというふうに受け取ることができるということです。 

 そして、天道に従ってすべてのものの持っておる良能、良質、すなわち慣性を利用、開発して、神様のご理想の世界を造るための道具として生かす。その道が天地経綸の主体者としての人間の道であると。だから、時代がどう変わろうと天道が変わらない限り、人道 ( じんどう ) も変わるはずがないのです。人たる道は変わらない。天道すなわち人道にして、普遍不易の道なれば、常にいう常軌なり。これは普遍不易の道という意味です。

だから、天人道の常と言うのは、そういう意味であるわけで、だから、天道と言い、人道と言い、これは明治になってから生まれたものでもなければ、昭和になってから生まれたものでもなし、宇宙の発生と同時に天道は存在し、人道も存在しておるということなんです。

 そして、人間に与えられた慣性ですが、人の慣性、習わしというもの、良能、良性というものを育成開発する。五倫五常の道は、人間の特有の慣性だと聖師様はおっしゃています。

五倫五常の道は人間特有の

生まれしままの習わしなりけり

というお歌がありますが、五倫五常の道、中国では孔子が説いた儒教にも五倫五常の道というのがありますが、その五倫五常というは、人間の生まれたままのいわゆる良能、良質であり、慣性なんだと。それを開発していく、育成開発していく原動力になるものは、人間の内分的な面においては五ヶ条の戒律であると教えられているんです。

  〇五ヶ条の戒律

 五ヶ条の戒律というのは、一霊四魂という人間の霊魂が現す働き、これが五ヶ条の戒律になってくるわけです。一霊四魂、これがどういうふうな心の働きになって出てくるかというと、一霊から出てくる戒律は、省みるという働きが出てくる。それから荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四魂です。その四魂の現れは、恥じる、悔ゆる、畏る、覚るという四つの働きになっておる。

だから、五ヶ条の戒律というのは、一霊四魂のいわゆる省みる、恥じる、悔ゆる、畏る、覚るという、そういう五つの心の働き、これが自ずから人間の心の中の戒律として、人間の五倫五常の特性というものを育成開発してくれるんだというのが、聖師様の説明です。

ですから、聖師様は、決して人間に親を大事にしろとか、兄弟仲良くとか、友だちを裏切らないようにというようなことを言うのは、宗教の担当部門ではないと。大本はそんなことをするところではないということをおっしゃっているわけです。

人間というものは、魂が研けていけば、自ずから親を大事にし、兄弟仲良く、そして、友人を信用し裏切らない、そういうふうに心が働いてくるのは人間として当たり前のことなんだと。改めて宗教がそれを育てようということ自体が人間の特性を無視したことだと。

 その一つの例として、猫でさえもいいことと悪いことを知っているやないかと。食膳にある鯛をとったら猫は縁の下に隠れて食う。鼠をとったら主人の前で威張って食べると。良いことと悪いこととは猫でも知っているんだと。それを人間に対して親を大事にせいとか言うのは人間を馬鹿にしていると。人間を猫以下で扱っていることだとおっしゃっているわけで、大本においては、自ずからそれは、良能、良質として、五倫五常の道は人間に等しく神様が与えてくださっている。

ただ、それが働くか働かないかということは、人間の魂のいわゆる五ヶ条の戒律が、働くか働かないかによって違ってくるわけです。だから、大本においては、人の一霊四魂を磨く、いわゆる御霊 ( みたま ) 磨き、御霊の幸倍 ( さちはへ ) ませです。それこそ、それをするのが大本の勤めなんです。

宗教というものも、本来の宗教は、そういう人間の魂の磨きをかけるということが使命なんで、それさえできれば、人間は良いことはするけど、悪いことは自ずからしなくなる。そういうブレーキは持っているんだということを教えていただいておるわけです。

大本柏分苑

大本柏分苑のホームページです。 5件のSNSがあります。 ①アメーバブログ ②フェイスブック ③TWITTER ④YOU TUBE ⑤ライブドアブログ 下記それぞれの画像をクリックして下さい。

0コメント

  • 1000 / 1000