清潔主義、歓ぎ、人慾、進展主義、統一主義、教え 梅園浩先生 NO.5
○清潔主義
清潔主義のところでも出てくると思うんですけれども、祭で、特に一番象徴的に出てくるのは、清潔ということです。祭の中で何が一番大事かというと清潔ということだと思うんです。心の中で清潔であり形の上でも清潔である。一番やかましく強調されます。ですから、祭式なんかのときに、祓いということから先にお祭が始まっていきます。何でも修祓から、潔斎から始まるのです。
○歓 ( えら )ぎ賑 ( にぎ )わう
しかし、では、清潔だけでいいかというと、全部祭の中で、清潔、楽天、進展、統一の四つは必ず調和して出てきます。象徴的に今、清潔と言いましたが、楽天だってそうです。祭は楽しまなかったらいけません。祭とまではいかなくても、朝晩の礼拝でもそうだと思うんです。
聖師様のお歌の中に楽天主義に関して、
ゑらゑらに歓 ( ゑら ) ぎにぎはふ人の家は
神の幸ひ自ら来たる
というお歌がありますが、朝晩の礼拝にしたって月次祭にしたって、清潔であって、同時に楽しくなければ嘘なんです。だから、一つの家庭でも朝晩の礼拝が家族揃ってできる家は、大体に、だいたいにえらえらに歓ぎ賑わえる家だと思います。家の中で喧嘩ばっかりしていると、朝やっぱりいっしょに祝詞はあげられません。まして、けんかしながら感謝祈願詞なんか、なかなかあげられません。
○人慾 ( わたくし )のために争う
去年か一昨年、いやもっと三、四年前の山口本苑の大祭の時に、自民党のその当時の大蔵政務次官をしていた林さんという方が、山口本苑の大祭にお参りになりまして、いっしょに感謝祈願詞をあげたんです。その後、簡単にスピーチをしてもらいました。
すると林さんは、実は今日は本当に、神様の前で、恥ずかしい思いをしましたと言うんです。
どういうことかというと、感謝祈願詞をあげているときに「人慾 ( わたくし )のために争うことを恥らひ」という言葉が出てきます。その当時、自民党の内紛で、その火中にあったのです。自民党の中の争いというのはいかにも政党の中の争いで、公の争いのようだけど、考えてみたら、実は私利私欲の固まりの争いで、ほんとに党利党略というか、私利私欲というそういう醜い争いなんですよと。
だから、今、神様の前で「人慾 ( わたくし )のために争うことを恥らひ」と言われたら、もう恥ずかしい思いがした。皆さんにお説教する資格がない。自分は今、誠に慚愧に耐えぬというお話をされていました。
やっぱり家庭でもそうです。家族が揃って礼拝できるというのは幸せな家庭だし、また、本当にさしていただくうちに、そういう家庭が自ずからできていくものだと思うんです。だから、仲良くなるのが先なのか、祝詞をあげるのが先なのか、これはちょっとわかりにくいですが、鶏が先か卵が先かのようなもので、初めはちょっと気まずいけれど、家族そろって朝夕拝していると、だんだん気持ちも揃うようになってくる。気持ちが揃うと祝詞をあげるのも勇んでくるし、和やかな雰囲気というのができてくるんです。そういうものです。だから祭というものは、朝晩の礼拝、月次祭一つにしても、大本の大祭にしてもそうですが、清潔であって楽しくてはならないのです。
○進展主義
それから聖師様は、特に進展主義というのをやかましく言われたそうです。祝詞でも、だらだらとあげるのは好かん。もっと速くあげいと言われたらしいです。はよあげんかいと。結局、後ろから、どっど、どっど押し上げられるようなリズムに乗った祝詞じゃないと、聖師様は機嫌が悪かった。だから、聖師様は、本当はみんなといっしょに祝詞あげるの、好かんと書いておられるところがあります。自分ひとりで思うようにあげるのが一番いい。大勢であげると、どうしても後ろに引っ張られるわけです。
本部大祭で見ているとそうです。先達される方が、だった、だったやられるんだけれど、みんなが唱和する段階になると、だらあっとされて、もう飴を日なたに並べたようになって、だらあっとなってしまう。そういうのは神様はお好きではない。だから、みんな参拝したときは、心構えて、先達に楽に祝詞をあげてもらえるように後ろからも応援する。先達に合わせながらリズムに乗っていく。これが大事です。
祭典なんかでもそうです。司会者というのがたいて祭典につきますが、司会者がぼおっとしていることがあって、次のことを言わない。献饌というのを忘れていて、祭員が動かない状態があります。これはいけないんです。進行する司会者が忘れておっても、修祓が済んだら献饌へと祭員はどんどん動けというんです。司会者が言おうと言わなくとも、次のため、どんどん動いていく。それを盛んにやかましく言われたらしいのです。
後戻りというのが、また聖師様は嫌いです。これが進展主義で、祝詞を間違えたからといって後戻りする必要はないんです。間違えたら間違えたで次の段階に進む。後戻りしていると神様に背くわけです。そういう点から、祝詞をあげるにしても、祭典を進めるにしても進展主義ということを常に言われる。
○統一主義
当然、統一主義というのも祭典の中で生きていかないといけないわけです。だから、祭典の中での統一主義というのは、神様が中心で、人間の世界でいったら祭主が中心です。祭主が動くと祭員がそれにつれて動く。祭主の動きを常に注目しているのが祭員でなければなりません。
だから、さっき言いましたように祭主が先達するときは、先達の声の調子にみんなが合わせて統一されていくということが祭における統一主義ということで大事になってくると思います。人によって、声の高さ、低さがありますが、祭主がどの高さであげたか、その高さに合わせることが大事です。中にはそんなことは関係ないというわけで、我が道を行く人が一人や二人おるけれども、それが目立つわけです。まるで鶏の中に鶴が降りたような、いい声ならいいけれど、鶏かなんかしらんけれど、ガアガアというのが入ってきたりしますと、全体の調子を狂わす。中には一人だけ早いのがいたり、一人だけ遅いのがいる。これではやっぱりいかんわけです。祭の中にも四大主義というものが、それぞれ生かされてきて、祭ということになっていくわけです。
だから私たちは、広い意味の祭を考えていく、あるいは、狭い意味の祭を考えていくときに、常に四大主義というものを考慮しながら、祭を完成させていく。より次元の高い、より立派な祭を生活の上で、日々の朝夕拝の中で、あるいは、祭の中で、あるいは、広く言えば、これは、国の営みの中で祭の実現を図っていくのが、大事になってくると思うんです。
○教え
二番目にありますのが教えです。これは天授の真理と書いてありますが、これもさっき申しましたように、大本での教えというのは、聖師様が発明された教えではないということです。宇宙の創造の初めから一貫して流れておるところの大自然の法則、宇宙の生成化育の原理、宇宙の原理そのものが教えということであり、ここでは天授の真理というふうに言われておるわけです。
天授というのは、真神、誠の神様から、授けられた真理という意味です。中国では、天という言葉を使って、真神、主神を表すわけです。天授の真理ということは、真神から授けられた真理ということです。当然、それは真神神授の教えと解釈されますが、同時に、宇宙の成り立ちが霊体一致、霊主体従の原則によって行われているということでわかりますように、教えそのものが、霊体一致、霊主体従の教えでなければならんということが言えるわけです。
宗教によっては、体的な面を強く説く宗教もあります。霊的な面に偏重している宗教もあるわけですが、大本の場合は、霊主体従、霊体一致というのが、教えの原理として教えられていますから、その点は、私たちの信仰生活の中にも、そういう現れ方をするわけです。
例えば病気一つしたときに、お医者に頼るのか、あるいは、神様に頼るのかというときに、宗教によっては、もう一切お医者にかかったらいかんというのもあるわけです。大本の場合は決してそういう言い方はしていないのです。お医者さんそのものも、また、お医者さんがくれる薬も、これは神様が与えられたという立場を取っているわけです。
しかし、現代の医学そのものが神様の御心に沿ったものかどうかということになると、非常に問題があります。今の薬というのは病気を治すのが目的で作られたのか、金を儲けるのが目的で作られたのかわからん薬があるわけです。まあ、そういう点もありますし、そういう点で我々が厳しく審神 ( さにわ ) していかなければいけませんが、大本の場合は、神様に祈り、人間の持っている治癒能力と言いますか、自然の治癒力と言いますか、それを基にしながら、お医者さんの医学的な治療という、それを祭り合わさせていく、これがやはり大事なことだと思うわけです。
病気というだけではありません。すべての面で霊体一致、霊主体従を原則とする教えでなくてはいけません。宗教の中にも、霊体がばらばらになった霊的に偏重した教えというものもあるわけです。それは、間違った教えということになってくるわけです。ですから、教えというのが天授の真理である以上は、やはり霊界も現界も一貫した真理を説く教えでなければならない。三世貫通の教えでなければなりません。
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