祖霊を祭る~幽祭と顕祭  梅園 浩先生 NO.4

○祖霊を祭る

各家庭においては、祖先の霊 ( みたま )を、遠津御祖 ( とほつみおや ) や代々の祖等 ( おやたち )、家族親族 ( うからやから )の霊 ( みたま )、これを霊 ( みたま )さんと言いお祭りしています。これも私たちの信仰のなかで、一つの祭るべき神として考えていく枠のなかに入ってくるわけです。一家になかにおいて、祖先の霊と子孫の現界での生活とが、常に祭り合わされている関係にあるわけです。

 だから、霊界における祖先の霊が救われるというか、向上していけばいくほど子孫の生活というものは、さらに充実したより高い生活に祭り合っていくという、そういう関係にあります。

現界においていろんな悩みにぶつかることがありますが、その時に大本で「霊さんのお祭をなおざりにしていないか」とよく言うのは、その祭り合いの関係から出てくる考え方です。

しかし、例えば我々が病気するとか、家庭の中に問題があるとかを、全部、祖霊様の関係だとは言えない。ただ、病気にはいろいろな原因がありますが、その中の一つとして、祖霊様のお祭りがなおざりにされていることによって、あるいは、霊界と現界のバランスが破れているというか、そういうことが病気になって出てくることもこれはあるわけですから、これは無視できない大事なことだと思います。

だからといって、病気をしたら、全部霊界から来たのかとすると、これがまた、偏ってしまう。そこの調和ということも大事になってきますけれども、しかし、一家においては祖先の霊界における状態というのが、現界の家族の状態に写し出されてくるということは大いに考えられます。 

 聖師様は、霊界と現界とは祭り合う関係にあるけれども、元は霊界にある。霊が元で現界はその写し出される世界だと。だから、現界のことを写し世というんだと。これは日本の言葉として説明されています。そういう関係にあるわけですから、私たちがまことの神様を祭ると同時に祖先の霊を祭り、祖先の向上を祈るということは非常に大事なことになってくる。

  ○惟神 ( かむながら )霊幸倍 ( たまちはへ )ませ

 大本の祈りの言葉の中に、惟神霊幸倍ませというのがあります。朝あげる祝詞に感謝祈願詞 ( みやびのことば )という長い祝詞がありますが、初めの半分が感謝の言葉なんです。終わりの長い方が祈りの言葉になっている。これが感謝祈願の祝詞といわれるゆえんですけれども、終わりの方の祈願で、何を私たちは祈願しているのか。この祝詞、よく味わいながら読んでいただきますと、結局一霊四魂の開発、充実ということを祈っているんです。

この一霊四魂の問題は、また和明先生が見えた時の講座で出てくると思いますから、詳しく申し上げませんけれども、人間の霊魂、いわゆる一霊四魂というものの充実を図るということが、我々の祈りの一番の目的になってくる。その祈りの言葉をぐっと圧縮しますと、それが惟神霊幸倍ませという言葉になってくるわけです。

神様の御心のまにまに霊幸倍 ( たまちはへ )ませ。霊とは一霊四魂、それに幸はへをいただきたいというのが、惟神霊幸倍ませですから、神様を拝むときにはもちろんのことですが、私たちがご飯を食べるときでも、何をするときでも、まず、惟神霊幸倍ませという、これが祈りの言葉なんです。これが、大本の信仰の一つの特徴的なことではないでしょうか。

  ○父の信仰

 話が私ごとになるんですけど、私の父が広島で原爆に遭いました。昭和二十年の八月六日、ちょうど電車から降りたとたんに原爆が炸裂して、その時に、瞬間に出てきたのが惟神霊幸倍ませという言葉だったと言っていました。

これが、私たちが子どものときから教えられていることだし、あらゆる良しにつけ、悪しきにつけ、常に惟神霊幸倍ませということが、口をついて出るような、口をついて出るようなだけではなくて、もちろん、想念の世界になければなりませんが、想念の世界に持ちながら、言葉の上にも惟神霊幸倍ませの言葉が出るような信仰生活をすべきだと教えられています。

原爆のあの炸裂した瞬間に惟神霊幸倍ませという言葉が出たというんです。これは、つけ焼き刃ではなかなか出ません。ピカドンの時になかなか出てこない、長い間の積み重ねの中からそういうものが自然に口をついて出たと思うんです。

また、その祈りの言葉が出た時、身の処し方というものをやっぱりその瞬間に考えたようでして、怪我一つせずに生き延びることができたんです。まあ、考えてみても、電車の中に残っていても、電車から出て歩いていてもみんな死んでいるんです。電車から降りた瞬間に、電車の腹の陰に隠れていたんで無傷だったんです。その瞬間に無傷だったということも有り難いけれども、考えてみると、その瞬間に惟神霊幸倍ませという祈りの言葉が口をついて出たということが、やっぱりお陰ということだと思うんです。大本のお陰の一番の根本がそうだと思うんです。

  ○祖霊への惟神霊幸倍ませ

ところで、私たちは祖先を拝むときにも、惟神霊幸倍ませと言います。我々の魂に幸わいをいただきたいときにする祈りは、主神にのみすべきだというのに、なんで、祖霊さんに言っているのだということになってくるんですが、祖霊様の前で言う惟神霊幸倍ませというのは意味が違うんです。

私たちは、祖霊さんに幸わいをくださいと言って、惟神霊幸倍ませを言うのではないのです。祖霊さんが、主神からより多くの幸わいをいただきますようにと、祖先の前で拝んでいるんですが、想念としては主神にお願いしているわけです。

  ○幽祭と顕祭

 ですから、幽祭は真神に誠と礼をもって祈る無形の祭、祈りの世界です。顕祭というのは、祈りというのが今度は形に顕れている。祈るということによって幸わいをいただき、その幸わいに対する感謝という、真心からの感謝という形に表れてくるわけです。

だから、子どもでもかわいいなと思ったら、つい手が出て頭を撫でてしまう。それと同じことで、神様によって守られているということを私たちが感じたときに、感謝の気持ちというものが行動に現れてくる。これが顕祭です。

顕祭というのは主神だけでなくて、天使にも形をもって感謝する道、これが顕祭。もちろん祖霊様に対しても、これが現れてくるわけです。ですから顕祭として現れてくるときには、お宮となって現れる。あるいは、お供え物、祝詞、柏手という形、姿として現れてくるわけです。それが顕祭であって、これは感謝の道だと。祈りと感謝、これが祭の中における一つの幽祭と顕祭・幽と顕、霊と体という形。ここで、またむすび合わされていくわけです。

 ですから、大本の教えは幽祭だけに偏っても完全ではない。顕祭だけもいかん。幽祭と顕祭とが霊主体従の関係で祭り合ったときに、本当の完璧な祭ということが教えられておるわけです。私たちの日常の祭の中において、幽祭と顕祭というのが大事だし、それから、形に現す奥に必ず心がなければなりません。

 細かいことですけれども、月次祭をする。そうするとお供え物を買ってきますが、そういう時にも幽祭と顕祭は大事ですから、みかん一つ買うにも、買い方があるわけです。どういうことかというと、心がこもっていないといかんということです。

今晩の献立はこういう献立にするから、月次祭のお供え物はこうしようでは逆になってくるわけです。スーパーに行って、一番いいお供え物は何か、その場で季節の物や珍しい物、新鮮なものなど、お供え物にふさわしいものを買うわけです。それで、お供えしたお下がりでもって夜の献立を考えるのはよいのだけれど、スーパーに行ったときに、夜の献立を先に考えて、それに便乗してお供え物をするのは体主霊従になってくるんです。細かいところで、そういう違いが出てくると思うんです。

大本柏分苑

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