三元説、おむすび、みろくの世、祭るべき神 <梅園 浩先生>NO.3
○三元説
世間一般では、霊と体、陰陽二元説ですが、大本の場合は、陰陽二元を結びつける力を忘れてはならんということで、霊、力、体という三元説をとっています。ですから、それがわかってくると神様の名前でも霊力体で出てくるんです。大本には、神様の名前がたくさんあると思うんですが、整理すると、すべて霊力体でおさまってくるわけです。
私たちが祈りの対象としている主神、主の神とも、独一真神とも言います。独一真神と呼ばれる神の名が三つあります。一つは天御中主大神という。これは古事記なんかに一番最初に出てくる名前です。それから天照皇大御神というのも出てきます。これも主神です。霊界物語には大国常立大神というご神名が出てきます。これらは全部主神を表しているわけです。
なんで主神で三つも呼称がいるのか、呼び名がつくのかということですが、それは霊力体という三つの角度から主神を見たときにつく名前なんです。霊的に見れば主神は天御中主大神であり、働きという面で見たときは大国常立大神という名前になってくる。主神の御神徳が完全に発揮されてきた時を天照皇大御神という。これは体的な面から主神を見たときです。
ですから、そういう三つの角度から常に主神、一言で言えば天帝と言い、主神と言い、独一真神と言うこともあり、固有名詞でとらえる時には、霊的に見れば、主神は天御中主大神、力の面から見ると大国常立大神、体の面から見れば天照皇大御神ということになるんです。そうして整理してみるとよくわかるんです。
そうして大地の金神さんでも名前が三つ出てくるわけです。霊的に言えば大地の金神、金勝要大神。二代様のご本霊だと言われています。それから、体は国常立尊です。主神は大国常立大神と言いますが、開祖様に懸かられた国常立尊の神様は、大地の金神の体なんです。そして、働きというのは素盞鳴尊です。これは聖師様に属する、瑞の御霊に属するお働きですけれども。だから、大地の金神も霊力体に分けていくと、霊は金勝要大神であり、力は素盞鳴尊であり、そして、体は国常立尊ということになってくるわけです。三つの角度から見ていくと、大地の金神様がそういう表現になってくるわけです。
○おむすび
そういう陰陽二元でできながら、それを結びつけるのが力であり、そして結びつけられることによって、新しい力が生まれてくる。ですから、日本の言葉というのは非常に面白いんで、お父さん、お母さんがあって、その結び合いによって生まれてくる子どもだから、息子なんです。そして、女の子だったら娘になるわけなんです。だから、非常にいい言葉だと思います。結びの力によって男女の間に生まれてくる子どもだから、息子であり娘なんです。
だから、普段、家庭で作るおにぎりですが、まあ、おにぎりとおむすびとは、ややこしくなってきますが、本来、両手で作るのはむすびです。片手で作るのがにぎりです。だから、お寿司のにぎりというのは両手でやるんじゃなくて、片手でやっているんです。にぎり寿司であって、むすび寿司ではないわけです。
ただ、両手でやるのを、よくおにぎりと言います。むすびというと品が悪く、おにぎりというと品がよく聞こえますが、間違いなんです。日本語は両手でやるのがおむすびなんです。だから、そういう点から言ったら、日本の言葉は非常にいい意味を、深い意味を持っていると思います。だから、祭というところから出てきていると思うんです。
○みろくの世
みろくの世を建設するということが、お筆先の中に出てくるわけですけれども、そのみろくの世とはどういうことなのかといえば、天上の義を地上に写すということに他なりません。神様が天国で実現されておる姿を地上に写し出していく、それが祭の実現であり、みろくの世の建設となってくるわけです。だから、大本でいうみろくの世の建設というのは、天上において行われていること、天界において行われている世界を地上に写し出していく、天の姿を地上に祭り合わせていく、それが、いわばみろくの世の建設ということになってくるわけです。
さらに、個人的な生活の面で言えば、神様の御心を私たちの個人的な生活の上に実践するということは、祭の実現ということにもなってくるわけです。
祭というのは、神様をお祭りして、お供え物をして、手をたたいて祝詞をあげるということだけではなくて、広い意味で言えば、天上の義を地上に写す、みろくの世をつくるということが、祭の実現であり、あるいは、神様の御心を私たちの生活の中に実践する、すなわち四大綱領の実践そのもの、これが実は我々の生活の上においての祭の実践ということになってくるわけです。
それが、狭い意味で祭といった場合に、いわゆる神と人との調和、神と人との祭り合わせということで説かれる。これは狭い意味での祭です。広い意味での祭はさっき言ったとおりです。
○祭るべき神
狭い意味での祭で大事なことは、祭るべき神に対する正しい認識を持つということですが、昭和二十年の十二月三十日でしたか、鳥取県の吉岡温泉で、聖師様が朝日新聞の記者に語られた、いわゆる吉岡発言の中に非常に大事なことがある。あの中で言われていることは、日本は神の国、日本人は神によって選ばれた特別な民族だと思って言ってきたけれども、実際には、日本は本来祭るべからざる神を祭っている、信仰すべからざるものを信仰してきたと。これが結局は日本の方向を誤らせてきた。
本当に正しい神様を祈る、祭るというのは、それは例え軍国主義であろうと平和主義であろうと決して変わるものではないと。世の中が変わったから祭るべき神様が変わるというのではなくて、世の中がどう変わったって神様に変化はないんだ。ただ、今までの日本人が祭ってきたのは、祭るべからざる、間違った神様を祭ってきた。その反省をする必要があるということを言われているわけです。
大本では祭るべき神、一番根本の神は宇宙を造られた神で、天御中主大神、あるいは大国常立大神とも先ほど言いましたが、独一真神です。宇宙を造られた根本の神を抜きにして祭というのはないんだということです。その神様を祭らずして祭というものは完成されないのです。
だから、まことの神を祭るということは忘れてはいけないし、大本では、祈りは真神にのみに捧げよと教えられている。やたらにあちこちの神様を拝み倒すというのはおかしいんで、大本で言えば、祈る対象は主神しかないというんです。
それを、真神に霊をもって祈る道、祈る無形の祭を幽祭という。これは祭の中において基本になる問題です。
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