『学生たちの牧歌1967~1968』(中村桂子)
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『学生たちの牧歌1967~1968』は副題として中村桂子小説集とある。中村桂子は1960年代の後半は中央大学の学生であり、『白門文学』という同人誌に小説を書いていた。学生作家として知られ、注目されていた。この時期の中央大学の学生で作家になった人に北方謙三がいるが、学生時代は彼よりも知られた存在だった。その彼女が1967年から1968年の中大での学生たちの闘争を描いたのが表題よなっている「学生たちの牧歌」である。
いわゆる全共闘運動は1968年の日大全共闘運動と東大全共闘運動が中心として取りあげられるのだが、中央大学(中大)の1967年~1968年の運動はその先行的なものであり、学生会館の管理運営権の獲得や学費値上げの撤回など学生たちが勝った闘いとして知られていた。だが、この闘争はあまりとりあげられないできた。小熊英二の『1968』でもプレ全共闘運動として取り出されているが、日大や東大の比すればさかれてページは少ない。この時期の中大の学生たちの闘争はあまり知られないで現在に至ってきたといえる。
小説という形で、1967年~1968年の学生たちの闘いの姿を描きだしているが、これはいい方法だと思った。以前に連合赤軍事件を小説の形で書いた『夜の谷を行く』(桐生夏生)を思い出したのだが、当時の運動は政治的色彩の強い闘争だったのだが、その実態と実相を描くにはこの形はいいのだと思う。この小説集は表題作の他に4つの短編からなっているのだが、表題作が中心であるから、僕の感想というか評もこの作品にそって進めたい。他の作品もなかなかいいのだが、ここでの評は割愛させてもらう。
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この小説は主人公の狩野が娘の亜由美に伝える小説、つまりは小説の中の小説という形で展開されている。ここにはあの時代のことを子供たちに伝えておきたいという作者の思いがあるように推察する。僕も時々、子供というよりは孫たちに1960年代のことを伝えたいと思うことがある。僕にとって1960年代の記憶はそれほど濃密で強いものだが、彼女にとってもあの時代(1967年~1968年)はそうなのだろうと思った。この小説は1967年の春に狩野が親友の東条美津子にあい、ある依頼を受けることからはじまる。東条美津子は小説ではS同盟となっている、女子活動家である。S同盟は中大社学同(社会主義学生同盟。中大ブンド)のことで、中大の学生運動に最も影響力のあった政治組織(セクト)だった。1967年といえばその冬に中大学生会館闘争の最終決着があった年である。中大の学生会館問題は1960年代の前半から続いてきたもので、1965年には大学封鎖闘争(バリケード占拠)を生み、中大コンミューンという言葉も生み出した。1965年の大学封鎖(バリケード占拠)は全共闘運動の原型といえるものだった。これはその年の早大学費闘争に引き継がれ、他の運動に波及して行った。中大ではこの年から1970年まで、バリケード占拠が行われた。一般に全共闘運動といわれるものをその発端から終末までを展開したといえるが、1967年(学生会館闘争)と1968年(学費値上げ阻止闘争)はそのピークにあった。
1967年の初めの学生会館管理運営闘争はその前年の闘争の処分(退学者を含む大量処分)の反対闘争も含めて盛り上がり、学生側の勝利に終わるが、そのいきさつはこの小説にもよく書かれている。最後は学生会館の大鍵の管理権(運用権)と所有権をめぐる対立に行きつき、管理(運用権)で収める社学同と所有権を主張するセクトの対立なった。この対立は大学での大学の改善をめぐる闘争についての考えを当時の左翼の政治集団が持っていなかったことを暴露するものだったが、中大の社学同はそれについての一日の長のある考えを持っていた。当時の言葉で言えば、改良と改良主義の違いを認識していたといえるだろう。当時の左翼は改良主義批判一色で改良闘争の意味もあり方も分かってはいなかったのである。大学闘争は大学の改革(改良)闘争という限界を制約づけられてあったが、そういう改良闘争のあり方について左翼のグループは明瞭な考えを持っていなかった。
この作品ではS同盟はそれまで大鍵の所有権を主張していたのに、管理権(運営権)で妥協し、ストライキを解除したと書かれているが、この問題は学生と大学との対立を極限まで続けることに意味を見出す考えと(これは左翼的闘争至上主義)と、闘争を何らかの目的のためにやるのであり、闘争は手段であり、方法であって続けることも収めることもあるという考えの対立だった。これは当時の大学闘争でも政治闘争でもあった対立する考えで、全共闘運動等では内部対立を生じさるものだった。僕は学生会館闘争を管理運営権で収める側にあったが、彼女の目からは理念(大鍵の所有)を抑えるもののように映っていたのはそうだったのだろうと思う。当時、中大は全共闘運動(大学闘争)の最強も展開と言われていたが、その指導の役割をになった中大社学同(中大ブンド)にはボス交主義(妥協主義)のレッテルが張られていた。これは左翼の闘争至上主義の伝統からはそう見えるものであり、それは全共闘運動などにもついて回ったものだと思う。
ここにはこういうことが存在した。大学闘争は学生会館自主管理権の獲得や学費値上げ阻止という主題(改良的主題)を持つものだが、他方で学生たちの大学生活での疎外感(教育される存在、知識人になる過程での不満)の解放を目指す契機があり、それがもう一つの主題をなした。大学のバリケード占拠に加わり、そこで自由感や解放感を得ることだった。大学闘争における戦術だったバリケードを支える主体的意識だった。このエネルギーというか、意識を当時の左翼思想は認識も析出もできなかった。自らが提唱する運動が生み出したものを認識することもとらえられもできなかった。
当時、中大の社学同はこれをあたらしい「大学の自治」の創出、あたらし秩序の創出という主張を持ってたいしていた。当時の大学の秩序は「大学自治」(教授会の支配)が通例だった。私学では理事会の支配力が強く(日大はその典型)あり、教授会の自治は万全ではなかったがところもあったが、中大では教授会主導は成立していた。大学の秩序では学生は教育される、つまりは統治される存在であり、そうした中で教育される存在の主体性を提示した。学生こそが大学の主体であり、それが実現する大学の自治に変えよということだった。それでこそ大学の自由、学問の自由は可能だという主張だった。
学生が大学での疎外状態から自己を解放していくことは、学生が大学での主体的存在であり、学生が主体としてある大学の秩序(構成)を要求した。これは教授会による処分への闘いから出て来たもので、東大全共闘運動が処分問題を契機にしていたことと同じことだった。この大学での新しい自治の要求は学生を主権者として認めよということであり、教育という関係の中で作り出されていた関係を変えようとするものであり、教育するものと教育されるものの一方的な関係を変えることであり、教育概念の転換をせまるものだった。
この作品の狩野は社学同のシンパのような位置だったのだろうが、彼女にもこのことはそれほど意識されてはいないように見える。が、彼女は秩序や法を破って行く学生たちの行動に新鮮さを感じ、感動している。この意味では、大学の秩序を超えるバリケード占拠がもたらした学生の解放感や自由感を方向づける考えに共感はしていたのだと思う。学生会館の管理官の獲得と同時的に意識されていた教育される存在として一方的に関係づけられることへの批判はなかなか意識はされにくかった。それが当時の実状だった。
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彼女(狩野)は東条美津子に頼まれて選挙管理委員になる。ここから彼女は学生運動に踏み込むようになっていく。作者の分身ともくされてもいい狩野は、当時はまだ少なかった女子活動家になっていくのであるが、ここで様々の経験をする。当時、大学内では日本共産党系も民主青年同盟と社学同を中心とする新左翼系が競りあっていた。1960年の安保闘争によって出現した光景が続いていたといえようか。中大は大学闘争の伝統があり、1967年の初めには学生会館の最終闘争があり、社学同のヘゲモニーが強かったが、それも複雑な要素を抱えていた。学生会館闘争は学生側の勝利となり、それを主導した社学同の力は強くなっていたが、自治会をめぐる民生とのいざこざもあって、1967年の春の自治会選挙は揉めていた。これは現自治会の多数派である社学同の提起した自治委員選挙に対して、民主青年同盟側が別の選挙を提起していたからである。
彼女は選挙管理委委員を依頼されるが、これは政治的にはかなり信頼されてのことである。というのはこの選挙ではかなり際どいことが行われるからである。ボル選(ボルシエビーキ選挙)とよばれる権力側(この場合)は自治会側に有利になるようなことが行われる。これは左翼的伝統であり、真相はわからないが、水増し投票のようなことが行われるのではないかと推察できる。いうまでもなく僕はこのことを知っていたし、止む得ない行為として認めていた。
投票用紙のすり替えである。彼女はこれを目撃するのであるが、こうまでして、つまりは公正と陰謀の狭間での選挙を経て、彼女は「私は戻ることができずに、得体の知れない学生運動の中にのめり込もうとしている」というようになっていた。選挙での問題は左翼が抱えていた暗部であり、暴力問題ともども棘のようなものだった。これは左翼的伝統でもあったが、自治会選挙の形式民主主義への不信もここにはあった。やがては自治会そのものを全共闘運動(中大の場合は全中闘)は廃止するのだから。こういう危ない選挙を経て自治会での社学同のヘゲモニーは確立し、彼女は学生運動にのめりこんで行くことになる。
(4)
1967年の初めには学生会館闘争があり、学生運動ではベトナム―反戦闘争が浸透してきていた。べ平連(ベトナム平和連合)ができるのは1965年であったが、学生運動は三派全学連が全盛期だった。中大は三派全学連を構成する社学同の拠点であった。ベトナム反戦闘争は砂川闘争や佐藤首相の南ベトナム訪問に反対する闘争として激化していた。街頭では警察の警備という名の抑圧力が増していたが、学生たちは投石などで対抗し、闘いは激化していた。こうした中で10月8日の羽田闘争が展開される。これは佐藤首相の外国訪問(南ベトナムなど)に反対する行動で学生が初めてヘルメットと角材で武装した行動であり、その後の行動形態(行動スタイル)になっていくものだった。社学同は中大の学生会館に角材を用意した。これは党派で戦略的に練られてでてきた運動形態というよりは、強化を強める警察に対抗するために角材でも使うか、という気持ちに提起されてものだった。これは行動する学生たちの内的緊張を高め、その行為で抑圧されるお一方だった警備の壁を突破する解放感をもたらした。
彼女はこれには参加はしなかった。彼女は翌日の新聞をみて「しまった!」と思い、彼女の内で何か動き出す気配を感じた。これは「10・8ショック」という言葉で語られるような影響を受けたということであり、多くの人が経験したことだったと思う。続く11月12日の佐藤訪米反対闘争には参加した。この闘争は中大講堂での決起集会後に学生たちは東大駒場寮に泊まり込みそこを出撃拠点として羽田に向かった。彼女は直接に羽田に向かい、この闘争に参加する。電車は蒲田駅で止められていたから、歩いて闘争現場を探した。「目を真っ赤に腫らしたセータ-姿の東条美津子を見た時、わたしは懐かしさに思わず抱き着いた。<催涙ガスに目をやられちゃって> 美津子は片手にレモンを持っていた。彼女はレモンを白い前歯でカリリと嚙だ」(197頁)。当時の闘いの現場を彷彿とさせる。催涙弾にはレモンが効くとされていた。行動には控えめな意識を持っていた彼女は10・8羽田闘争に触発されるものがあったのだろう。
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普通は大学の一、二年生のころに学生運動に参加し、高学年になると退いて行くのと違って彼女は四年生になって参加するという逆のケースだった。1967年は学生運動にのめり込んでいた彼女は4年も終わりに近づいていた。学生たちは四年生ともなれば普通は就職活動にはいるのだが、彼女はそれをしていなかった。1967年は二つ羽田闘争もあり、学生運動も盛り上がっていたが、中大では学費値上げの動きが出ていた。学費値上げの動きはかなり速い段階から噂をされていたが、大学は学生の反発をおそれぎりぎりまで発表を控えていた。年もせまって学費値上げの動きは出てきていた。当時、社学同(その上層部のブンド)を含めて学費値上げ闘争は「勝てない闘争」として考えていた。革命的敗北主義であり、いかなる負け方をするかということだった。これには1967年の明大学費闘争の敗北が影響している。それに、社学同(ブント)は学費値上げ阻止闘争自体を目標として考えていなかったことがある。党勢というか、党派としての拡大を念頭においていたのである。僕も今までの経験から見て勝てるとは思えなかったが、党勢の拡大を前提的に考えることには疑念を抱いていた。これは大学闘争をめぐって僕は所属していた社学同やブンドの面々と対立していた理由をなしていた。僕は勝利とか敗北ではなく、運動(反対闘争)で形成されるものに期待していた。闘争を通してその参加者が自由や自立した意識を得て行くことであり、闘争にはその課題を解決することと闘争の中で得るものとがあるという考えがあったからだ。マルクスが共産主義をイデオロギーではなく絶えざる運動において生成して行くものとこたえていることに示唆されて考えていたことだった。
この学費闘争において彼女は四連会(四年生闘争連絡会議)に属しながら闘うことになる。普通、学費闘争などでは卒業を控えた学生たちが運動の反対派になるということが予測された。だから、四年生の団結というか結集が勝敗のカギになると思われた。この四連会はセクトなどの経験者も含めてノンセクトの面々だった。中大では1965年以降の大学占拠闘争の展開のなかで、つまりは運動の中でこうした自立的存在を生み出し、その基盤を形成していた。運動が生み出すものであり、主権者を生成していた。中大で指導力を持っていた社学同は党勢拡大ということに強い意識を持たず、どちらかというとそういう思考に疑念もいだいていることもあり、自然にこれらが力をもつことに寄与していただけに過ぎない。それにしても中大では毎年のバリケード闘争でノンセクト的な自立層を創り出していたのだ。中大の学費闘争は学生の団結力によって、予想超えた展開となって勝利した。この辺の描写はこの本の白眉というべきところとなっている。ここは読者にまかせたいところである。
学生たちが指令とか指導とかではなく自由に考え、討議し、行動する姿は随所にある。この本では最後の場面でのことに触れている。学費値上げは撤回されることが明瞭になり、この闘争の勝利が明瞭になる段階で、ブンドの指導部(政治局)は介入してきた。簡単に言えば、バリケードは解かず、佐藤訪米まで(秋まで)政治的バリケードとして続けよというものだった。僕は当時、ブンドの学対という位置にいたが、当然、勝利にそってバリケードは解くということを提起していた。政治局や他の学対と対立していた。この政治局や他の学対の考えは大学闘争と政治闘争の違いも、わからない馬鹿げたものであり、議論以前の問題だった。僕は政治局の面々から監禁状態に置かれ、その隙に自治会の委員長が政治局も面々に説得され、その方針を演説する羽目になった。この暗闘は一般にはみえにくいことだったし、この混乱を社学同やその周辺のメンバーはよく分からなかったといえる。
ブンド帰れという合唱の中で学費闘争の指導部を形成していたブンドは孤立し、政局局が介入して押し付けて来た方針は通らなかった。当たり前である。そして学生たちと一緒にバリケードをとくことになった。ブンド帰れと言える学生(党派から自由な存在)を生み出してきたのはブンドの指導してきた学生運動の成果であり。僕は達成をみた。僕はブンドの政治局から学対を排除されたこともあったが、学生運動からさる契機になった。ブンドは勝利した学生たちと喜びあえばよかったのだし、なぜそれができなかったのだろう。多分。それはブンドがこの学費値上げ反対闘争(運動)の中で生み出されるもの、生みだそうとしているものについての考えがなかったからだ。これは全共闘運動の意味を見いだせなかった政治党派の欠陥を映し出してもいたといえる。この問題は後の日大闘争など(勝利的局面での対応)にも大きな影響を与えたと思う。
この辺のところを読むと、死んだ子のことを嘆いているわけではないが、いろいろと心痛い思いをもさせる。それがこの本のすぐれたところともいえる。
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