天皇制の問題
元号と言っても、天皇制起源からきているわけで、こういう議論の中で、天皇制は民主制国家の中で果たして成立するのか、というような議論が、少なくとも総合誌あたりで出てもいいかとも思いますが。
明治天皇は、伊藤博文が血のつながりのない大室寅之祐という男を山口から連れてきて明治天皇に据えたという説があります。
大室寅之祐は長州田布施の出身です。吉田松陰の南朝革命論で、大室の養育係だった伊藤博文は、南朝(後醍醐天皇)の忠臣菊池家の子孫、西郷隆盛が上洛の際、度々,大室家に案内している。
1866年12月25日、孝明天皇(北朝)そして1867年7月10日、明治天皇(睦人親王)は岩倉、伊藤により暗殺される。
御前会議と言っても伊藤の意に沿わないことを明治天皇が言うと、伊藤は持っている杖で机の下で明治天皇の足を軽く蹴飛ばすなどということがあったという。
130年も生きたという神武天皇やら、古代人が信仰した太陽神である天照大神を、672年、壬申の乱に勝利して即位し、初めて天皇号を使用した天武天皇が、天皇の祖先(皇祖神)とデッチ上げたり、宣戦布告後、大本営として、皇居内の御文庫で昭和天皇は陸海軍に指令を出したり、神という概念が何も解らない雅子妃が皇后になったり、とんでもない天皇制こそ日本から排除すべきだ。戦友達の死を憂い、三島由紀夫が皇居で死にたかった理由を考えるべきでしょう。
天皇一家も、いろいろと普通の家庭と同じような悩みはあることでしょう。最近の「週刊誌」はそういう内容で「天皇一家」の実態を伝えています。人間ならば、親ならば、子供ならば、妻ならば、夫ならば、これらの悩ましい「家庭の事情」はなんらおかしくはないのだけれども「天皇一家」だから「大きな問題」になるのです。一言でいうならば、天皇一家が、ご家族が仲良く静かに生活していかれることには私は全く問題は感じません。
おかしいと思うのは、退位されるにしろ、新天皇即位にしろ、その儀式は、やはり「神事」そのものです。「人間天皇」を宣言されたはずですが、こういう儀式をしないといけないのはどういう理由なのでしょうか。それでいて平成天皇自身が「憲法に規定された象徴」とはどういう存在であるかを日々考え続けてきたと「告白」されているのですが、このような「神事」については、天皇自身は本当はどのようにお考えなのか、本来はそこまで踏み込んで語っていただきたいと思っています。
平成天皇の大嘗祭の折にはその「神事」の実態=実際どういう儀式を執り行っているのかについて誰も観た人はいないので、本当にそうであるのかどうかという前提で「朝日新聞」が連載しました。私はそれを読みましたが、俗にいえば、「人間が神様になるための儀式」だそうです。つまり、巫女と床入りする儀式だそうです。勿論、実際にそういうことをするのではなさそうですが、天皇の装束は床入りのための装束であり、沓を履かずに素足であると書かれていました。
「王様の耳はロバの耳」のお話のように、「内緒よ」「内緒よ」といって、側近から漏れ伝わってくるといったような記事になっていました。読んでいて私は「ばかばかしい」し、ある意味でこういうことをしての「天皇制」ならば、欺瞞ともいえるものだと思いました。 こういうバカバカしいことはもうやめにしたらいいのではないかとも思いました。
国民が「お疲れ様でした」「おめでとうございます」とねぎらいと励ましのできるような、新年の「参賀」のようなもので十分なのではないでしょうか。
かつて私は、授業で京都御所を参観し、教授からいろいろな説明を聞いています。天皇の寝室には櫛形の窓が着いており、隣室では僧侶が「天皇に悪霊がつかないように」と夜通し念仏を唱えているというような説明でした。いやはや、こういう夜伽をしなければならなかった僧侶やされる天皇もたいへんだなあと思ったものでした。
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