『女たちのテロル』ブレンデイみかこ 一陣の風のような

(1)

 この本は三人の女性の反逆者(国家権力に抗ったもの)の取り上げたものだ。その名は金子文子、エミリー・デイヴイソン、マ―ガレット・スキニダ―である。金子文子は大正大逆事件として死刑の判決を受けた人としてそれなりに知られている人といえるが、後の二人はそうとはいえない。というよりは僕は本書で初めて知った。これは僕の知見の狭さだけなのかもしれないにしても。

ただ、彼女らはいずれも百年を前後する時代の人たちたち、あるいはそのころの事件の人なのだが、読んでいて、そういう時代の意識は感じなかった。読みながら何故だろうか、と思ったのだが、これは今という時代が困難に感じている主体の存在の問題がはっきりと伝わってくるからだと思う。本書の表紙に「生きる主権は我にあり」というコピーがあるが、主権とは主体的意識と言っていい。それは生きる意識であり、また、権力に抗う意識のことである。僕らは今という時代の中で、この主体的意識というのを自己確認することが難しいことを実感している。

 例えば、憲法改正の動きに直面しても、それに抗する主体の意識というか、その存在を自己の内部でうまく見いだせないということがある。憲法改正に反対する主体意識がもう一つ盛り上がらないたない。そして、そのことを自問自答せざるをえないのである。憲法といえば主権の問題であり、歴史的な主権の登場なのだが、その肝心の主権ということが、もう一つ湧き出てこないのである。マルクスはこの主権というのは絶えざる運動の事であり、その中にあるものだという。フーコーは「生の政治」というが、権力に抗し続ける主権の意識は自己確認をすることが難しいのが間違いないことである。かつて吉本隆明は「主題の空虚」ということを言っていたが、今は主体の意識が空虚に直面している。本書では三人の女性たちの持つ強い主権の意識(主体の意識)を伝えるが、そこが本書の魅力あるものにしている。

(2)

金子文子がその激しい生涯を閉じた(宇都宮刑務所栃木支社で縊死したとされる)のはわずか23歳であるのは驚かされる。彼女は9歳の折に母の再婚(父は他の女と駆け落ち)のため、朝鮮半島にわたり、父方の祖母(岩下家)の養女になる。16歳で実家に戻るが、この間には祖母からも虐待され、自殺を考えるほどだったという。この朝鮮時代には1919年の朝鮮独立運動を目撃し、深く感動したと言われている。彼女はこの時代にあらゆる疎外の中で幼いうちに見るだけのものは見てことの出来た子供だったし、それにめげない楽天性を持っていたといわれる。この辺はこの序章の中でいわれる通りだったのだろうと思う。彼女は家族から与えられるものによって、同時に拘束されるもの、自己を縛るものを持つという事もなかったのである。

彼女の朝鮮での生活では自殺を決意するまで追い詰められながら、そこから引き返した事、朝鮮独立運動を目撃し、感銘を受けたことが大きかったのだろう。これについて本書では次のように記されている。「文子が朝鮮で最も感銘を受けたのは芙江をさる直前に起きた三・一運動だった」。「十六歳の文子はそこで起きていることを漆黒の瞳でしんしんと読み取っていた。そして悟ったである。人間のまったき独立とは命がけで求めるものだと」(『女たちのテロル』

彼女は16歳の時に「地獄の家」といわれる母の実家に戻ってくる。これは三・一運動が起きた翌月だった。祖父母や叔父夫婦に優しく迎えられるが、母はいなかった。彼女はそんな中でやがて東京に行くことになる。文子が文子自身を生きるために。1920年のことで彼女は17歳になっていた。彼女は、上京後は様々の仕事をやりながら、正則英語学校や研数学院などに通う。1921年11頃からは社会主義者の経営する「岩崎おでん」に女給として勤める。

彼女が上京したのは1920年であるが、このころは第一次世界大戦後に様々の運動が盛り上がった時期だった。第一次世界大戦は1918年に終わる。大正7年である。この戦争を通じて日本は大戦前に比して工業生産は約五倍に農業生産は3倍になり、経済は急速に拡大する。第一次世界大戦後の終焉に伴う戦後恐慌はあるが、拡大した経済の中で様々の運動が現れる。1918年に富山から端を発した米騒動はその皮切りになるが、大正デモクラシイー、文化運動や社会運動などが社会的な解放運動として広範に起こるのである。日露戦後の大逆事件により、冬の時代を余儀なくされていた社会主義運動なども生きを吹き返すのである。新しい女たちの登場といわれた女性解放運動や部落解放運動等もこの時期に登場する。地方から上京した青年男女が社会主義者に接したり、その運動に身を投じたりすることは多かった。

 この時代は社会主義とアナキズズムが力を競い合っていたのであるが、彼女は社会主義には疑問も抱いていたようだ。そしてそこでであったのが朴烈であった。彼はアナキストであったが、彼女もまたアナキストだった。

(3)

 エメリー・ディヴィソンイギリスのサフラジェットの一人といわれる。サフラジェットとは19世紀から20世紀の初頭にかけてイギリスで女性参政権をもとめた女性たちのことである。ちなみにイギリスで女性に参政権が認められたのは第一次大戦後の1918年だった。ただ、これは男女の格差があり、それが解消したのは1928年だった。女性に参政権の提唱をしたのはミルであるが、それはなかなか認められず、その運動は長く続いてきたが、その運動の中でも過激な部分はサフランジェットとよばれてはいたが、その中でさらに過激な武闘派として有名だったのが彼女である。彼女は投石、放火、暴行など様々な容疑で九回も刑務所送りになっていたが、彼女らは刑務所に送られるたびにハンガースストライキやり、強制摂食をやられたと言われている。

「私が私自身をいきることは誰かにとって<いい子>になることではない。エミリ・ディヴィソンはこどものころからそのことを本能的に知っていた」(女たちのテロル)。このように記されているが、彼女は子供のころから反抗的だったようだ。エミリは刑務所で「悪い子」として仕置きされているが、それをも拒否しているのである。参政権は象徴だったのであるが、女は公的な発言も禁じられていた。それが、当時の時代だったし、それに彼女は抗っていたのだ。

彼女は自分が自分であること、言葉の真の意味での自己主張が封じられていることに反抗し、自己主張として参政権を選んでいたのだった。彼女は武闘派と目されていたが、平和的方法も認めていたという。僕らは過激な行動とか、武闘派的行動は革命派の専売特許のように思われる時代にあったが、これは一つの思い込みで、民主主義派も自由主義派もその運動に置いて結構、過激で武闘的である。運動(主権の表現が)が過激で武闘的な現れをするのは理念やイデオロギーではなく、それは権力のあり様によるのである。権力の関係においてなのだ。エミリは権力との関係としては専制的で抑圧的な時代のなかにあったのだし、彼女は武闘的であるほかなかったのである。

彼女は1913年に競馬場で国王の馬の前に飛び込んで死んだ。彼女の行動を見ていて思うことは彼女らが刑務所、いうなら監獄での闘いを果敢にやっていることに驚く。1968年のフランスではフーコーが提起していたと思うが、日本の1968年や1969年にはこのような刑務所での闘争は起こらなかった。これは何故か、あわためてこのことを想起した。

(4)

1915年12月にスコッランドから船でアイルランドに向かったのはマ―ガレット・スキニダ―という女性だった。彼女は爆弾の起爆装置を帽子に隠し、ダブリンの同志に運んでいた。この年のクリスマスに、アイルランド独立運動の中心人物であるマルキシビッチ侯爵夫人にダブリンから招かれたのである。彼女はスコットランドのグラスゴーに住むアイルランド系の住人だが、スコッランドにはアイリッシュ系が多く住み、ことあれば(大英帝国との間で)、アイルランド側で戦う用意のある人が大勢いた。大英帝国は第一次世界大戦中に各地に狙撃手になれるように女性に訓練をしたが、その中で訓練されたひとりだったが、彼女の狙撃術は大英帝国に向けられる。

彼女にマルキシビッチ侯爵夫人は目を付けたのであるが、招かれた彼女は蜂起に向けて少年たちを訓練し、その数学知識で戦闘用の図面も書いた。彼女はダブリンの一番貧しい地域をみることを望み、実現している。そこに英国が統治するアイルランドの姿を見た。すべてが英国と、一握りの裕福なアイルランド人のための統治だった。「主権の回復、統治者からの、金持ちからの、エスタタブリシュメントからの主権の回復、独立とは自らの人生に対する主権を取り戻すことだ、生きさせろ、なんて頼んでどうする、銃を取り、ダイナマイトを腹に抱いて、いきてやれ、生きる主権は我にあり」(女たちテロル)。彼女はこういう決意を秘めて来るべき蜂起に向かう。

 蜂起とは1916年年の4月24日から4月30日までダブリンで展開された復活祭の武装蜂起だった。これは7日目に鎮圧されたが、イギリスからの独立を目指すものであり、アイルランドの独立の引き金になったものである。彼女はクリスマス休暇をダブリンで過ごしてから、マルキビッチ侯爵夫人との約束通りに蜂起に駆け付ける。蜂起決行の知らせを受けたマーガレットは再びアイルランドに渡った。この蜂起は鎮圧され多くの指導者たちが逮捕され、処刑もされるが、マーガレットは戦闘中に負傷したため逮捕も免れた。

(5)

金子文子は当時の社会主義者やキリスト教者たちともつきあいながら多くの違和感を持ったようだ。そして、朴烈との熱烈な関係に入って行った。彼等は思想的にはアナキズムに近くなっていた。これは朴烈の影響も考えられる。朴烈は在日の朝鮮人の社会主義者や民族主義者やアナキストと一緒にグループを組んでいたが、時代のアナボル論争と分裂の浸透の中で、このグループも分裂する。朴烈と文子はアナキストグループになる。「わたしら同じ人間じゃん。という、一言でいえば、あまりに単純すぎる、しかし実際には徹底するのが非常に困難な平等思想を文子は持っていた。いや、あまりにもそれは肉体的・経験的な実感だったので、平等感覚、または平等本能といぅた方がいいのかもしれない」(女たちのテロル)。この彼女の身体化された感覚(思想)はアナキズムに行く他なかったと言える。彼女は様々の主義の持つ欺瞞に敏感にならざるをえなかったのだ。彼女と朴烈が関東大震災後に保護という名目で逮捕(拘束)されてから、憲法73条による代逆罪で起訴されるまでも過程は、これは権力によるでっち上げというしかないものだった。朴烈が爆弾の入手を画策したと言われているが、それもあやふやだったのだと思う。ただ、彼等は大逆罪をでっち上げられることで天皇制(国体)と戦う意志をより明瞭にして行ったようだ。

国体(天皇統治)を否定する言動を文子や朴烈がしたことは明瞭にして行ったことは疑いない。それは裁判記録などとして残されているものからも読みとれる。戦前(1945年)までの日本での国家と戦い、あるいは国家権力との闘いの最大のものは天皇統治(国体)との闘いだった。この闘いはことごとく敗北したといえる。これは何故であるかということは、僕らも問い続けてきたことであり、現在も解けてはいないが、彼女らが、天皇制(国体)を究極の敵としていたことはうたがいない。国体(天皇統治)ということを否定し、それともっとも対立するのは国民(地域住民や大衆)に統治の主権があるという考えである。国体に対して、当時の社会主義などはこういう考えを持っていたかは、どうかは疑問である。金子文子の本能的な平等思想といわれるものや、「私を生きる」という考えは主権の意識に近かったのではあるまいか、と思う。天皇統治は人の上に人を創る構造であり、彼等が天皇制を究極の敵としたことには、どのように意識されたにせよ、主権ということが無意識も含め強くあったのではないか。

関東大震災で拘束し、そのまま大逆罪までひっぱっていった国家権力はその無理を承知していたのか、天皇即位の恩赦で死刑を無期にまで減刑する。だが、彼女はそれをあざ笑うように縊死をはかった。この死因については多くの疑念があるようだが、彼女の闘いの意思が天皇制(国体)に向い、主権の意識がそれを根底で支えていたことは疑いないだろうと思う。今という時代を吹き抜ける一陣の風、そんなおもむきがこの本にはある。

大本柏分苑

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