原子力時代における哲学 國分功一郎

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 関電(関西電力)の原子力マネーのやり取りが暗闇から出て来た時に、僕はテレビの時代劇の場面を思い出した。『水戸黄門』でも『桃太郎侍』でもいいが悪徳商人が役人(代官等)に差し出す袖の下というやつであり、誰もがこれはなんだと思う不正な行為であった。テレビで弁明する関電の経営者たちの姿に失笑というか、憐れみを感じながらである。もちろん、この背景には原発の推進ということがあることはすぐに気づくことだった。原発推進には合理性と社会的妥当性がなく、こうした不正を伴って進められてきたのだ。

同時に、この不正を糺すのは容易でないと思えた。桃太郎侍のように出ていって、一刀両断というわけにはいかないのである。そこにはそういう方法では切り込めない構造が出来上がっている。この構造は独占体と言ってもいいし、官僚的権力構造(政治のみならず社会的な官僚機構)と言ってもいいのだが、そこには不正を隠し批判が及ばない装置というか構造ができ上っている。関電の役人は保身を画策しても無駄だろうが、この構造が変えられなければ、こうしたやり方は巧妙になって行くのだろうと思える。原発推進がこうした金まみれの中で進められて行くことはやまらないと思う。

 問題はやはり原発の推進(再稼働も含めて)にあることは明らかである。福島原発事故は未だに収束しておらず、汚染水一つの処理もできていない状態のなかで、原発の再稼働は画策されている。それを推進する電力業界も官僚も、また政府もなぜ、原発を稼働し、存続させるのかを語らない。それを明確にできない。

人々の意向を無視して事をすすめる権力構造(「お上」のやること)でことを進めているだけだ。金まみれの原発推進も含めて原発存続の理由はその推進主体側からは明らかにされず、それは原発存続に疑念を抱く方に課せられている。おかしなことだが、このことは原発の存在と存続を否定することを考えることも難しくしている。これが原発をめぐる状況といえるが、久々に原発問題を考える適宜な本があらわれた。『原子力時代における哲学』である。

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この本は4回にわたる講義をまとめたものだ。「原子力時代のおける哲学」と題された講義である。その構成は「第一講 一九五〇年代時代の思想」、「第二講 ハイデッガーの技術論」、「第三講 『放下』を読む」、「第四講 原子力信仰とナルシズム」となっている。全体的にはハイデッカーの技術と原発についての考えを検討する形で展開されているが、「3・11」(東日本大震災)の後に多くの人たちから切望されながら、誰も進められないできたことの展開と言っていいと思う。この講義をやるにあたっての著者の立場を次のように語っている。

「僕の率直な気持ちとしては、一方で、原子力発電がコスト高であり経済的に割に会わないということさえわかれば、原発に関する議論はもう答えが出たも同然ではないかという気持ちがあります。原発が持つ潜在的な危険性の話をしなくても、もう利用し続ける意味がないことは明白なのです。これをまず最初に確認しておきたい。ただ、他方でその事を確認したうえで、やはりもう一歩議論を進めなければならないと気持ちもあります。というのも、これだけだと、コストが安く済むならば原子力発電していいのかという話になりかねないからです。それは違うだろうと僕は思っています。核のゴミをこの先どうすればいいのかも決まっていないし、再び事故が起こったら本当に取り返しのつかないことになる。というよりも、三・一一で既に取り返しのつかないことが起きてしまった。ならばコスト計算と合せて、それに並んで、それとは異なる仕方ででも原子力を考えていかなければならないではないか」(第一講 本講義の狙い)。

原発は「安全で安い。そしてクリーンなエネルギー」などの神話が原発について回っていた。それは、3・11の原発事故(原発震災)で崩壊した。第一に安全神話が崩壊したのだが、同時に、原発は安い、原発はクリーンである、原発の電気は不可欠であるなどの神話も崩れた。原発を存続させる理由はくずれ去ったのである。それ以降、原発を存続させる明白な理由を電力業者も官僚も政府も述べてはいない。これは驚くべき事態なのだが、原発を推進する方はその推進理由を語れない。そして語らないで再稼働は進めようとしている。僕らは原発を廃止すべき多くの理由を持っている。脱原発の理由は明瞭である。著者はコストのことを言っているが、これには異論はない。廃炉を含めれば原発コストは膨れ上がるだけであるが、そんなことはおくびにも出さずに「原発は他の電力に比較して安い」というコスト論をそのままにして推進しようとしている。ここで著者の上げているコストの事だけで原発をやめされるに十分な理由になることはあらためていうまでもないことだ。

こうした中で、原発の存続についてコスト計算とはとなる形で原発の存在を考えざるを得ないと著者はいう。これは脱原発の側にもたらされている負荷(余分にやらなければならない類のこと)だが、原発がそう簡単には廃絶されないことを考えればやらなければならないことである。

原発は科学技術の成果であって、そこから撤退はありえないと言ったのは吉本隆明だったが、これについて同次元での批判が必要なのである。

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そこで著者は原発が建設される時代の思想、「一九五〇年代の思想」を取り上げる。原発が日本に持ち込まれるのは1954年であるが、このころは原発について疑問を抱く思想はほとんど存在していなかった。彼は一九六〇年代が思想的に注目される風潮に対して違和感を述べて、五〇年代に派手ではないが静かに進んでいた何かがあったのにそれが注目されにくくなっているのだとして、「一九五○年代の思想」という言葉を出す。これは原発についての事に関すればその通りであるといえるだろう。そこで二人の思想家を取り出す。一人はギュンター・アンダースとハンナー・アレントを取り上げている。アンダースは核兵器反対論者であり核兵器の問題を哲学的に論じた人である。彼はこの時代の核兵器反対運動のリーダーというべき人物であるが、一九五〇年代の時点では核兵器については極端に思弁的な議論をしていても、彼の論文には原子力発電の話が全く出てこない。それを著者は指摘している。50年代は核兵器に対する反対運動は盛んであり、知識人の多くはそれに参加しているのに、「原子力の平和利用」(原子力発電)については考察、とりわけ批判的な考察はほとんどなされていなかった。この事情はハンナー・アレントについても言える。彼女は原子力に警戒していたけれども、それを当時の科学技術の一例として見ているだけで本格的な批判的考察はなかったのである。ただ、アレントは科学技術の達成としての原子力に警戒心を持ちそのもたらすものに反技術主義的な観点からの批判を持っていて、その意味では先駆的な立場にあった、その点では注目している。

「原子力の平和利用」という言葉がたいした疑問も持たずに通用していたというよりは「原子力の平和利用」は今からでは想像できない程の魅力をもっていた。これは著者の指摘だが、原爆、つまりは核兵器に対する人々の批判に対して、原子力発電は魅力あるものと考えられていた。僕は1960年に大学に入り、左翼運動をやるが、ここでは核兵器をめぐる問題は、核実験を含めて大きな政治的主題として現れたが、原子力発電のことは視野に登ることもなかった。これには二つの理由が考えられる。一つは当時の左翼運動では社会主義ということが大きなモチーフになっていて、社会主義の評価と科学評価は一体のものだった。社会主義の肯定と科学の肯定は同じことであった。もう一つ、科学に対する信頼というか、幻想は今からは想像できない程に強かったのである。

大江健三郎についての指摘がある。「つまり、核兵器を否定し、「原子力の平和利用」に賛成するという立場は、若き大江―1961年というとまだ二十六歳ですーに一貫して根付いていたように思われます」(第一講 大江健三郎と原子力)。これは現在の大江健三郎を批判してのことではなく、1960年代に日本では原発がどのようにとらえられていたかの例証として取り出しているのだが、左翼もまた、原発については思想的な対象にしないか、科学的なものとして肯定的だったのである。ここで著者が取り上げるのは一九五○年代で原発に批判的だったハイデッカーである。原子力の本質的な危険について指摘しえたのは彼だけという状況だったのである。

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 「原子力の平和利用」という言葉が象徴するように、多くの人が原子力発電に肯定的な中でハイデッカーはそれに批判的だった。著者は1955年になされた彼の発言を取り上げる。孫引きとなるがそれは取り上げる。つぎのような「『決定的な問いはいまつぎのような問いである。すなわち、我々は、この考えることの出来ないほど大きな原子力を、いかなる仕方で制御し、操縦できるのか、そしてまたいかなる仕方で、この途方もないエネルギーが―戦争によらずとも―突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危機から人類をまもることができるのか?(S18-19/20頁)』」(第一講)。

原子力の平和利用に疑問を抱かない時代的雰囲気の中でその危険性を指摘していた。この秘密はハイデッカーの技術に関する考察にあった。それを著者は第二講「ハイデッカーの技術論」第三講「『放下』を読む」として言及している。ハイデッカーは技術を生活に不可欠なものと認識しているが、同時に技術については否定的な面もあるとしていた。技術といえばそれは現代では科学技術を意味する。

技術について広辞苑には次にように記されている「科学を実地に応用して自然の事物を改変・加工して人間生活に利用する技」。技術の前には科学があり、その前には先行して哲学がある。現在の科学を支えている哲学はソクラテス以前にあった「知を愛することからのある種の堕落によってはじまった」と考え、そこから科学と技術の批判をやっている、それがこのハイデッカーの試みである。著者は「途方もない推論の妥当性はともかくとしてハイデッカー自身が、現代を特徴づける何らかの関係をみていたことは間違いない」(第指摘しながらも、ハイデッカーが科学(技術)を考える事、つまりは哲学することに注目する。著者はハイデッカーの哲学、つまり科学(技術)の哲学的な検討が正しい考えを生んだとも、受け継げばいいとしていない。何が正しいのかわからないとしながら、ハイデッカーの技術論に注目し、検討する。この「第二講」「第三講」は自然と技術の考察として興味深いが、そこから何を考えるかは読者に委ねられているように思う。哲学の専門家でもなくても、今、科学や自然について、ということは人間についてどのように考えるかが問われているが、そのためのヒントが得られる、と思う。原発を考えることは科学について考えることであり、科学技術について考えることだが、それについて示唆されるところが多いと言えようか。

彼はハイデッカーが批判的な問題提起をしてことに注目しながら、彼の自然、科学、技術についての省察を検討しながら、結論のようなものは出していない。それはハイデッカーの提起をうけとめながら、自身が省察を続けようとしているからである。これは原発の哲学的な視点からの批判は難しく、批判的な対象とみることが現在の到達点というか、出発点だからと言える。技術を科学やそれに先行する哲学から考えるということは、示唆されることが多いが、ハイデッカーの技術論を深めていけばいいと僕は思ってはいない。この点は著者も同じようである。

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この本の「第四講」は原子力信仰とナルシズムと題されている。この中で著者は原発に対する考えが披瀝されている。いうなら、著者の原発についての哲学的な省察である。彼は中沢新一のいう「媒介された太陽エネルギーを利用してきた」人間のエネルギー利用において原子力だけは異質であるとする視点に注目し、同意する。生態圏の内部でのエネルギー革命は火の獲得からいくつもの段階を経てきたが、それは媒介された太陽エネルギーの利用であった。これに対して、原子力は核分裂連鎖反応というこれまで生態圏の外部にあり、太陽圏に属するものの持ち込みである。これは媒介の否定であり、外部にあるものの持ち込みであって、生態圏の循環を破壊するのである、だから、原発はこれまでのエネルギー革命とは異質であり、否定されるべきだという考えに同意している。その上で

人々が引かれてきた理由を解こうとする。

 それは「贈与を受けない生」への憧れという考えである。太陽からの贈与でいままでエネルギーを受け取っていたが、原子炉という魔法さえあれば贈与を受ける必要はないということだ。太陽から贈与というのは自然の贈与といいかえてもいい。この贈与という概念は制約ということを意味すると考えてもよい。

原子力信仰の根源にあるのは太陽から贈与を受けないで完全に自立・独立できるというという欲望だというわけである。この「贈与を受けない生への欲望」というのは分かりにくいが、これを著者は失われた神のごとき全能感を取り戻そうとするナルシズムと同型であるとする。自然からの制約から解放されいという欲望と言い換えてもいいのかもしれない。

そして、著者は次のように語る。「我々一人一人がそれぞれの人生の中でこのナルシズムを乗り越えていくように、人類が原子力への欲望、贈与なき生への欲望を乗り越えていくこと。そこではじめて最終的な脱原発が達成されるだろう」(第四講)。僕らは自然の制約にある。この制約は同時に贈与でもある。この制約からの解放は贈与を受けない生への欲望でもある。そういう面を含んでいる。人間は自然の一部でありながら、自然との交流の中で生は自然を乗り越えようとしてきた。科学や技術はその現在的な達成であるされる。この欲望はナルシズムであるという面がある。ここは非常に大事なところであり、僕らが考え考え抜かなければところである。「贈与なきエネルギー」という幻想は資源という制約から解放されたエネルギーという幻想であるが、これは乗り越えなければならないナルシズムであるというのが著者の考えである。自然の制約からの解放は自由に関わるが、何かということを問うことでもある。贈与というその中に制約からの解放も自由もあるのか、それを含めて考えるべき提起がなされている。

大本柏分苑

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