憲法と天皇、いわゆる天皇機関説をめぐって (2-2最終回)

Q 天皇機関説は公式の学説というか、憲法解釈として認められてきた。天皇機関説論争のころ、昭和天皇は天皇機関説でいいではないか、といったという有名な話もある。

三上 上杉慎と美濃部の論争があるけど、収まって美濃部学説が公認の憲法学説になる。美濃部の学説は憲法の運用を中心に置いた合理的解釈だったが、天皇や国体概念には踏み込まないで避けていたからね。国体と政体の問題が矛盾として露呈してくるのは日本の統治権力が危機に直面した段階においてだね。大正という過渡を経て昭和においてだね。それは社会的危機と政治的危機の中で革命が浮上してきたからだね。憲法制定権力(構成的権力)の登場する基盤が出てきたということだね。それを導ける理念や理論が存在したか、どうかは別だとしてもね。

Q 国体問題が浮上してきたことは政治的には政府と軍部の対立を通してだけど、それに昭和維新の運動が関係してくる。魔法の杖という統帥権の干犯ということが持ち出されてくる。これは北一輝が言い出したものと言われている。

三上 1930年(昭和5年)の軍縮会議における海軍と政府の対立のときだね。第一次世界大戦後の軍縮や平和運動の高まり、また、不況の中で政府は日本とアメリカとイギリスの間で戦艦の比率を定めた協定を結ぼうとする。このとき海軍の軍令部が反対して政府と対立する。この時、海軍の軍令部側に知恵をつけたのが北一輝である。統帥権の干犯だね。この時の政府は浜口内閣であるがこれは政治問題として軍令部の口出す問題ではないとした。その助言したのは美濃部だね。これはやがて天皇機関説批判の下地を形成するようになる。第一次世界大戦後は世界的な自由と民主主義の運動が盛り上がり、日本でも大正デモクラシーの運動もあり、議会や政府の力が強くなる。普選の運動もあって、政党政治が強くなっていく。重臣、政党、資本、軍閥という特権的な官僚層のなかで、政党と資本が力を増していくわけだ。議会と政党で、超然内閣から議院内閣制の形態に近づいていく。この政党政治と議会の運営の理論的背景をなしたのが民本主義や天皇機関説だね。これらは、明治以降の「議会」を足掛かりに藩閥政府に対抗してきた憲政擁護運動が基盤を獲得してきたことであるが、ただこの政党政治は安定したものではなかった。

Q 政党政治の背景には三井・三菱という大資本がいる。これに天皇の重臣は西園寺公望が生き残っていわわけだけど、これは立憲君主派で国際的に米英協調派だね。これに軍の対立が出てくる。

三上 これはまず、中国大陸で専断独走する陸軍との対立となる。1927年の張作霖爆冊事件、1931年の満州事変、1932年の満州国建国と続く中で陸軍と政府の対立は深まるけれど、政府はそれに引きずられていくだけという状態になる。それで、先のところで述べた海軍の軍令部と政府の対立が起こる。これは輔弼体制というか、官僚体制の内部での対立であり、その再編をめぐる動きだね。この中にはいろいろのことが起こる。1932年(昭和7年)に5・15事件が起こる。血盟団事件も同じ時期だ。左翼運動は1,930年前後が最盛期だが、治安維持法で抑え込まれていく。2.26事件は1936年(昭和11年)だから少しあとだ。この時期の昭和維新運動は国体を強調するが、その敵対対象として日本の官僚が出てくる。「君側の奸」ということで輔弼体制、天皇を取り巻く官僚(重臣、政党、資本、軍閥)が敵対物とされた。天皇を取り巻く官僚(機関)が諸悪の根源で、それを取り除いて天皇親政ということを主張する。反政党、反資本、反重臣、反軍閥というわけだ。この特徴は天皇親政の主張であるが、これは国体の強調である。政治的権威の確認運動みたいなもので、国体明徴という言葉がそれをよくあらわしている。このときに政党政治が標的とされたわけだから、その理念である天皇機関説が狙われたわけだ。

Q 昭和時代の輔弼体制の中心、つまり日本の統治権力の中枢に政府と議会が出てきた、これと軍部が対立していく。軍部は統帥権の干犯を旗印にして、この対立の相手が理念的には天皇機関説だ。

三上 2・26事件の青年将校たちの主張をみるとはっきりするけど、彼らは[君側の奸]を除いて天皇親政を要求する。これは国家精神の革新運動であって、具体的な権力の構想はない。機関をめぐる権力を運用する上での革命の構想は何もなかった。僕はこのことを考えるたびに、三島由紀夫が東大全共闘の討論で言った、「直接民主主義と天皇親政は似ている、どちらもある意味で空疎な概念である」というのを思い出す。これは国家精神というものを、あるいは共同の精神を求めているというところで似ている。それが権力の運用をどうするかという構想と連動しないと空疎だということだね。国家機関とは暴力的な衝突をするけど、それをどうするかの構想はなかった。コンミユーン的な国家をもとめるにしても、この両側面を必要とするわけだ。昭和天皇は彼を取り巻く重臣たちを殺されて怒り、青年将校たちに立ち向かった。青年将校たちは天皇親政を求めて天皇に裏切られていく。神のために立ちあがったけど、神に排除されたわけだね。彼らは現人神としての天皇と昭和天皇の矛盾に直面したといえる。昭和天皇は天皇機関説支持ということは現人神としての天皇ということを信じていなかつたのかもしれない。つまり、精神としての天皇を求めて、機関(官僚)としての最高の存在の天皇に粉砕された。本当に天皇親政が精神としての国体の実現なら天皇をすげ換えるつもりでやるしかなかった。天皇親政というのは観念であって、あるべき天皇であって現実の天皇と矛盾することもあることを知っておくべきだった。このことと、天皇親政下の権力機関の構想は別だけどね。北一輝はその辺は分かっていたと思う。その意味で彼は天皇機関説だった。

Q 国体論というか、天皇親政論は明治の藩閥政府の専制政治というか、その復権になった。今度は軍部と革新官僚の強権政治(ファシズム)になった。上杉の神権君主論が復活したような動きだね。

三上 政党政治と天皇機関説が葬られて、軍部と官僚の強権支配(ファシズム)が換わってでてくる。昭和12年ころからそれが明確になる。その理念的なものとして国体論が強調される。2・26事件がその露払いの役割をはたすが、天皇機関説事件が昭和10年(1935年)に起こる。政党政治とその理念としての天皇機関説を葬った事件だ。その過程で国体明徴ということがしきりにいわれたけど、これは誰も明瞭に説明のできるようなものではなかった。革命的復古主義で君臣一致論や順逆論がそれだけどね。1937年に文部省教学局は[国体の本義]というのをだす。これは天皇機関説事件と国体明徴運動に対応して出てきたもので、日本の国家としての初めての[国体論]に関する文書だね。[大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治した給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ我が国体の精華とするところである]とあるわけだけど、神権国体説だね。これが共同の幻想として席捲し、政体は強権支配体制(ファシズム)になるわけだ。後は記紀神話をそのまま日本の歴史にしているわけだけど、荒唐無稽のこういう神話が何で人々を席捲したのかよくわからないとして悪夢のせいにしてきたことはよく知られている。国家の権威は本質的には宗教であるからだし、天皇の「生き神信仰」のようなものが働いたからだといわれる。

Q ナショナリズムの運動ということも言われる。1,930年代にナショナリズムの運動が勃興したことが謎めいた現象といわれる。

三上 国民意識の表出ということからこれを解読する方法はあるように思う。国民は自然というか、自然な郷土意識というか、共同意識が資本主義化、あるいは近代化で掘り崩されて基盤が失われる故に反資本主義、反近代という形で表現されたということだ。共同意識の自然基盤が掘り崩されたがために発生する表出意識は表現としては日本主義というナショナリズムになった。小林秀雄の言葉にそうと、[故郷を失い、社会化した私]という表出意識が民主制というところにいかずに、天皇制というか、国体に行ったのは謎めいている。僕は先の三島由紀夫の発言が象徴しているところがあるように思う。戦後世代の表出意識は天皇に行かずに直接民主主義に行ったということだ。ここはなんだろう、と思う。天皇機関説も含めてこの時代の民主主義は官僚の権力運用の理念であり、精神なき民主制であり、魅力はなかったのだね。もっと正確にいえば大正デモクラシーの影響下にあった都市住民や知識人はちょっと違っていたのと思う。天皇親政か、プロレタリア独裁にしか精神性をあらわすものはなかった。その意味で日本共産党の「三ニテーゼ」は問題にしていいのだと思う。

Q これは日本共産党の革命戦略で、当面の革命を「社会主義への転化を含む民主主義革命」と規定したものだね。二段階革命論といわれるものだ。

三上 僕は二段階革命かどうかというのはほとんど意味がないと思っている。左翼の革命戦略は輸入思想でそれを日本適用しようとして苦労を重ねてきたとしても、今はさして意味がないと思う。ただ、この時代に天皇を問題にし、天皇制ということでその権力のことを問題にしたことは評価していい。天皇の問題を回避していた労農派よりは本質的なところに目つけたといえるからね。このテーゼの権力規定として天皇は天皇制という絶対君主制としてある。社会的には寄生的封建的地主階級とブルジョアジーに立脚し、「似非立憲的形態」に粉飾された絶対的君主制と規定されている。絶対君主制というのは神権君主制のことだけど、マルクス主義の権力分析は社会階級+機関であるから、日本の明治維新後の国家構成の分析としては構造的析出ができていない。この分析では国体の析出が出来ていない。つまり、政体+社会階級だ。それは、僕が分析してきたことと比べてくれていいわけだ。天皇制とは、軍隊・警察・官僚制・帝国議会を含む国家権力として包括的に規定されている。これは政体部分の析出だけど、輔弼の構造分析が不十分である。国体と政体の重層的で、矛盾的な構造分析ができてはいない。明治以降の官僚(近代官僚)を階級という視点で分析できてはいない。国家を運営することで富を収奪した存在としての官僚の分析だね。このテーゼでは基本的には社会的な階級関係に還元した規定である。天皇が明治維新以降に近代天皇制として存在した秘密を半封建的地主階級の残存ということに求めていくわけで、権力の生成の過程としてはたした役割や機能の把握がない。これがコミンテルンで作成されたもので、日本の共産党員がほとんど関与していないというのも不思議だね。それらは当時の事情としてはやいたしかたなかったにしても、日本の錯綜した権力分析は無理だったのだろうね。

Q 近代天皇が革命的復古主義としてあり、君臣一致や順逆論などの理念に支えられたものとしてあった。それは君権天皇などとして理論化されてきたものだし、これを国体論として日本国家が文章化もしてきたことは分析されている。

三上 日本におけるナショナリズムの骨格にあったものだが、これは日本の国家の権威というものであり、幻想の共同性というものだね。これはアジア的専制というべき概念でいいわけだ。他方で権力の運営(運用)というところで立憲君主的な形態も取った。この共同幻想と国家機関は重層的である。この重層性は権力の運用(権力実態)のところでもあらわれる。治安維持法による国体批判を取り締まる。これは強権的だ。これに対して政党政治の対応は違った。日本共産党は治安維持法で強権的に出てくる権力と闘っていたわけだから、これを包括的に天皇制と規定して、その打倒を民主主義革命とするのは当然といえた。でもそれのイメージも構想もはっきりせずに何を対象にしているのか明瞭ではない。国体という概念、天皇の国家主権とどうたたかうかは、直接的にはそれを専制権力の行使に使った政治権力とたたかうことだね。明治維新以降のたたかいではネーションがどう登場できるかだけど、この国体の理念とどうたたかうかということになる。三二テーゼは民主主義を提起するけど、それはイデオロギーで観念的な言葉に留まっている。先のところで天皇親政論と直接民主主義は似ていると言ったけど、ここは問題なのだね。天皇親政は天皇主権論(君主主権論)だし、直接民主主義は国民主権論で本質的に対立するものだからね。これが国家主権説に基づく立憲政体と対立する面で似ている、これは戦後民主主義にたいしても言える。戦後民主主義は国家主権論に根拠がり、国民主権論を理念(精神)としては持っていないからね。三二テーゼはネーション(国民主権)という考えはなかった。そこが問題だったのだ。

Q 戦後の天皇論についてはどうかんがえる。この三二テーゼも戦後に日本共産党の天皇制打倒論としてあらわれるけど。

三上 天皇は国家主権から、象徴になった。国家の主権は主権在民というか国民に存するようになった。憲法の規定としては。この象徴としての天皇の評価であるが、戦後に津田左右吉や美濃部達吉が出てきてこれを評価した。天皇は古代から権力行使の場面には直接あらわれない、宗教的(権威的)であることは民主的であったと解釈したわけだ。権力の運用としては民主的であったといわけだ。天皇が独裁的な君主として振舞はなかったというわけだ。だから、天皇が強権的権力行使の前面に出てきたのは例外で、その責任は軍部の暴走だというわけだ。天皇が統治権を有すという天皇主権が国体概念とともに排除されれば、いいわけだが、美濃部のこの見解は彼が君権とか、国体を否定していなかったことを示したことになる。彼は主権在民への憲法改正に反対したわけだから。

Q かつて天皇論で権力から叩かれた美濃部や津田の天皇擁護論は意外であったわけだが、戦後の保守派や右翼の支えになったわけだ。

三上 彼の天皇機関説論が国体や君権を否定していなかったことを逆説的に示したことだから。主権在民が国体概念であるということを支持しなかったのだからね。象徴天皇は主権在民の下であるわけだから、曖昧だけど、それが古代からの天皇の姿であるといえば、天皇は何かということになる。結局のところ文化概念としての天皇ということになる。それをソフト主張したのが、美濃部や津田や和辻で、ハードにやったのが三島ということになる。それならば、文化概念としての天皇はということだ。明治維新後の革命的復古主義の天皇は国体の根拠になったけど、戦後の文化概念としての天皇はそれとどう関連している。国家的宗教として強度を失いながらもそれは存続しているということだね。国家の法制的中枢からは排除されたが、国家的宗教としては存続しているわけということになる。これは,逆にいえば民主主義(主権在民)の精神(権威)がそれだけ曖昧であるということになる。大日本帝国憲法から日本国憲法への改定過程が憲法制定のし直しとしてあったなら、つまり国民の憲法改正の運動を背景にしていたのなら、主権在民の精神が曖昧ということはない。日本国憲法への改定は国民の意思(直接民主主義)の登場を背景にしない、大日本帝国の憲法改正(間接民主主義)の中での改正だったからね。戦後民主主義やポツダム民主主義への批判は主権在民という民主的精神の欠如の批判であって、民主主巍の批判ではなかった。プロレタリア独裁やプロレタリア革命を対置するのは悪しき接木で観念論(空想論)だ。重要なのは主権在民が精神(つまり肉体)を獲得できるかどうかにということだ。国民の政治的意思が権威として出てくることは、国民の意思が諸個人の意思の総和としてあらわれることだが、それは幻想という形態としてでてくる。というのは諸個人の意思は心の動き(表出)を本質とするからだが、この意思が宗教の形態をとってあらわれるのは歴史の中の制約だ。精神の営みということ(思想活動)が宗教という形態を取ってあらわれるしかなかったという歴史的制約の問題だ。この意思が宗教の形態から解放されることはマルクスが宗教と国家を関連づけたところをかんがえればいい。

国民の主権が宗教(君権の根拠)との闘争の中から出てきたことだね。象徴としての天皇は曖昧であり、文化概念としての天皇もそうであるが、それが主権在民の思想の曖昧さの陰画であり、戦後の憲法改正過程と憲法制定権力の問題を映していることが大事なところだ。

Q それならば文化概念としての天皇というか、象徴天皇という曖昧なものを処理するのはどうしたらいいか。

三上 憲法から天皇条項を排除して主権在民がより明瞭になればいい。これは

国民の意思としての民主制が肉体を持つ事だね。文化概念の天皇を根拠づけてきたのは日本列島の歴史(文化の歴史)であるから、これを未来(普遍)と過去(起源)の双方から脱するようにすればいい。美濃部や津田が古代から天皇と民主主義は矛盾しなかったという歴史像を解体すればいい。歴史、つまりは時間の中の天皇制はたかが千年前後のものだというのは過去に向かっての脱つということだ。普遍というのはコンミューン型国家のことになるけど、これは憲法制定権力(構成的権力)ということになる。その発展といっていいわけだ。民主制が権威(肉体)を持つ事はコンミユーン的なものを基盤にできるか、どうかなんだけどね、それは基本的には精神なのだ。

Q 戦後の天皇は法制の中枢からはずされた。主権在民が規定され、天皇は象徴になったが、国政に対する天皇の権限は儀礼的なものになった。ここは戦前とちがうところだ。

三上 今の天皇は立憲君主制ではない。君主制の要素が象徴としての儀礼として保存されているというだけだね。天皇主権をよりどころにした官僚の専制は排除された。議院内閣制が権力運用の基本だからね。これは建前であってというところがある。アメリカの占領政策で日本統治のために天皇を残したといわれるよね。これは権力の運営のところで天皇の官僚を残したというか、それを利用したということだからね。戦前の日本の権力の運用は天皇の官僚と議会が基本的には輔弼という概念に包摂されながら存在していた。戦前の日本の国家機関の遺制というか慣習が強く残った。それが占領軍の天皇利用だった。天皇の政治的権限は天皇の官僚が強かったということだが、天皇が法制的中枢から排除されても、アメリカ占領軍がそれを引き継いだということだ。かつての天皇の官僚は背骨を失ったが、占領軍に温存されて残った。現在でも官僚の力が強く機能していることは日本の権力機関の中で慣習や遺制が強く残っているということだ。国民の意思が議会を媒介に、権力機関の構造を変えることが課題であるが、天皇権限の遺制的・慣習的残存と闘わなければならない。それは権力運営における官僚の力の逓減だね。権力を開くっていうことだよ。

Q 戦後の天皇の何を問題にするかということだね。

三上 僕は国体として登場した天皇論の系譜にある文化概念としての天皇を対象にすることがその一つだと思う。これは直接的には政治権力(権力行使、あるいは運用)の問題としてあらわれない。かつての国体と天皇イデオロギーが政治場面に登場するとして、反天皇論をいうのが意味ないのはそのためだ。戦後の日本共産党は天皇制打倒を掲げた。三二テーゼの焼き直しだ。戦後の左翼はそれを引き継いでいるけど、これは天皇制の何かの問題かわかつていない。僕らはかつて遺制的共同観念の問題として天皇を問題にすべきだといってきた。これは文化としての天皇の問題であるわけだ。政治の場面では天皇のことを問題にすれば、政治権力の機関的構成における官僚のことを問題にすればいいのだと考える。権力の運用場面での官僚の独善を問題にすべきだ。小沢一郎問題があった。検察の特捜部に対する批判があって、2・26事件の青年将校の動きと似ているという指摘があった。特捜部の検事は自分たちが正義で思って、権力をふるった。権力運用で検察の力を誇示したわけだが、田母神発言と同じ、官僚としては逸脱した振る舞いなのだ。かつては天皇が担保した正義を国家のための正義として、独善的に権力を運用する。これはかつての天皇の官僚としての軍隊や検察、あるいは警察の振る舞いの慣習であり、遺制なのだ。天皇の政治的権限の遺制というか慣習は官僚支配の強さとして残っている。議院内閣制が実質的な力を持って官僚は政策遂行集団にしなければならない。さしあたりはね。戦後憲法は9条(非戦条項)が中心にあるけど、それが重要なのはそれが憲法制定権力を象徴しているからだ。戦後の主権在民の精神の象徴であるからだね。

大本柏分苑

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