憲法と天皇、いわゆる天皇機関説をめぐって (2-1)

<対話風に>

A 天皇機関説問題はもう忘れられたものと言っていい。これは戦前では非常に有名な事件だけど、きちんとは総括されずにきた印象がある。今、君がこのことを問題にするのは安倍自民党の新憲法草案で天皇を元首にする議論が出てきているからなのか。2005年の自民党新憲法草案と今回(2012年)の新憲法草案との大きな違いの一つでもあるからね。

三上 これを検討して見ると、日本の憲法の構造がよく見えるところがあるからだね。憲法を歴史的に検討してみたい欲求もあるからね。これはもろに国体問題と関係している。天皇制の問題ともね。北一輝の天皇機関説論も独特でおもしろいけど、それも含めて議論して置きたい。1932年に日本共産党は三二テーゼを出す。左翼的な意味ではこれは天皇問題についての綱領だった。天皇制という言葉もここから広がった。これらも含めてふれたい。戦後憲法では天皇は象徴ということになるわけだけど、戦後の天皇論もね。天皇を含めて日本の国家をどう考えてきたかということだけど。

A 天皇や天皇制についての議論は、最近は影がうすくなってきた。でも、戦後もずうっと続いてはきた。国体というのはもう死語に近いけどね。若い人には国民体育大会の国体しか思い浮かばない。その国体もイメージは薄い。それはいいことだけど、だけど、戦前や戦中ではこれは大変だったわけだ。

三上 ちょっと概括的にいうと、明治維新を経て明治22年に大日本帝国憲法ができる。明治23年は帝国議会の開設になる。それ以降の日本の国家は近代国民国家であるといわれてきた。憲法にそった国家運営をしてきたといわれるからね。でも、実際の日本の権力形態も憲法もそのようにいうには問題が多すぎるものだった。それは日本がファシズム的な権力形態になり、「外に侵略戦争内に強権政治」に入っていったことで明らかになるけど、一般にはこの時代は特殊の時代として、つまりは悪夢のような時代であると概括されている。軍部の暴走としてね。しばしば、取り上げているけれど、司馬遼太郎は日露戦争から1,945年の敗戦ぐらいまでをそうした時代という。この特殊な時代の主役は軍部であって、この時代の天皇もそれに引き回されたものであるというイメージになっている。僕はこの時代を特殊な時代として、悪夢でも見ていたように流して(処理)しまうことに違和をもってきた。この時代が戦争を基調とした悪夢のような時代というのはいいけど、なぜそうなったか、なにがそれを可能にしていたかを把握したい。そうでないと、この時代を内在的に理解したことにならないからね。つまりは対象化しえないということであり、この時代の思想は対象化されないまま甦るということにもなりかねない。司馬遼太郎は日露戦争以前をいい時代としてこの特殊な時代と区別しようとする。[坂の上の雲]の時代というわけだ。僕は、そうではなく連続性においてとらえようとしたい。戦後という時代もふくめてね。そうしないと、現在の国家の課題というか、それが見えてこないというモチーフがある。見えにくくなっている日本の現在から未来へのイメージは明治以降の歴史が見えにくくなっていることと同じである、と言う意識がある。

A  左翼的な史観というか、歴史観に立てば明治から現在まで一貫したイメージは描けるじゃないか。

三上 僕もそうしたいと思っている。左翼の史観というか、その仕事によっていろいろのものを得てきたことは疑いないけど、その史観は内在的に歴史に入っていけないという不満がある。そこは乗り越えたい。三二テーゼやその天皇制論も言及してみるけどね。やっぱり、口上が長くなってしまうので、本題にはいろう。

A 天皇機関説問題が浮上するのは、国体明徴ということと関連してでてくるが

昭和10年(1935年)ころだね。これは国体論と絡んででてくる。

三上 国体論は尊王攘夷という明治維新のところまで行くところがある。国体論の主張が会沢正志の『新論』からはじまっているからね。憲法の1条の規定(天皇主権)を国体として理解すれば、これはアジア的専制というか、日本の古代の統治権力を理想化したものとなる。古代の封建的統治権力を理想化したものが律令制であり、[聖人の道]というならさしてかわらない。この律令制の精神である[聖人の道]に[神ながらの道]を対置しただけのことだ。これは憲法学説的には穂積八束や上杉慎吉の[神権君主論]になる。国体神権説ということになる。これは明治の藩閥政府の専制支配の道具として使われたということもある。これに対抗したのが一木喜徳郎や美濃部達吉の憲法学説だね。それは天皇機関説とよばれた。彼らの間で猛烈な論争がおこる。大正時代のはじめだ。ここではいったんは美濃部の学説が勝利して収まるのだけど、昭和になってこの論争は再燃する。それは軍部と政府の対立や昭和維新の運動と結びついている。当時は政党政治が続いていたけれど、その理念的バックボーンが天皇機関説だったから、そこに批判が集中した。そして昭和10年(1935年)の天皇機関説事件で公的には葬られる。その間の30年間くらいは、天皇機関説は憲法の公的学説だった。これが葬られることと政党政治からファシズムにいたる道とは重なっている。

A 憲法1条や4条の解釈をめぐっての議論だけど、ちょいと分かりにくい。

三上 美濃部と上杉の論争としてあるわけだけど、これは二つの領域がある。一つは憲法1条に関係するもので国体論というものだ。天皇主権ということだね。国体論と主権論だね。もう一つは4条の統治大権論で立憲論と絡むところだ。これは政体論の領域といったらいいのかな。

A 国体ということを上杉の方は主張する。これは1条を主とした展開で、天皇機関説の方は4条を中心においている。上杉の国体論は北一輝が革命的復古主義と批判していたものだけど、明治維新についての理念からある意味では一貫している。

三上 国体論でいうと、上杉は国体を民主国や君主国かで区別する。日本の国体は君主国であり、国民に主権がある民主国ではないという。天皇が統治するという文言は天皇に国家の主権があるということで、日本は君主国でそれが国体だというわけだね。憲法制定権力の主体が君主にあれば君主制国家であり、憲法制定権力の主体が国民にあれば民主制国家ということになる。近代の政治概念ではね。日本は万世一系の天皇が統治権を有してきた特殊な国家で、これを国体だというわけだ。君臣一致国家、順逆論などがそのイデオロギー(理念態)だが、これは国家の歴史に合わない偶像であると北が批判していたことは有名な話だ。これに対して美濃部は、国家主権は国家にあるという。ここがちょっとわかりにくいところだね。これは国家主権が国民にあるか、君主にあるかというのとは違って国家にあるという考えだからね。主権在民というか、主権が国民にあるといえばわかりやすかった。

A これは北もそうだけど、国家主権説は隠れ蓑みたいなところがあったように思うね。

三上 国家主権説は憲法制定権力の主体が皇帝(君主)にあるか、国民にあるかの決着がつかずにあったところから妥協として出てきた学説だからね。ドイツでビスマルクが君権を強化し,専制を強化しようとするに対抗するためでてきた抵抗の理論だね。明治の藩閥政府の専制権力の行使に、穂積八束や上杉慎吉の神権君主論が使われたのに対する抵抗として一木喜徳郎や美濃部達吉の天皇機関説が出てきた。憲法も議会も君権を制限しようとしてでてきたわけで、その理念的な根底をなすのが憲法制定権力の主体の問題だった。誰が構成する権力かといわけだ。上杉は天皇に主権をというとき、それに絶対的力を与えるということが意図され、それが明治藩閥政府の専制的権力の根拠になったにしても、国家の精神性というか、理念性を強調したかった。美濃部が国家主権というとき、国民に主権があるといえない政治的力関係があったにしても、美濃部は国体というところで君主国というのを否定はしていない、理念的な弱さがある。もともと、国家主権説は妥協的なところに活路を見出そうとしていた理論だからね。彼は国家主権説を立てた。これは君主でも国民でもなく、国家に主権があるということになる。

A 国家権力の主体ということは、例のネーションということになるけど、近代の国家理念の中心にあることで、革命と関連していた。

三上 繰り返しになるけど、国家主権説はドイツで発達した。それは憲法制定権力をめぐるドイツの状態(妥協的状態)から生まれた。ドイツでの君権専制に抵抗する理論として生まれたけど、憲法制定権力の主体が誰かという事は後ろに押しやっての議論であるからね。ドイツでは結果的には君主(皇帝)側に主権があるということになり、国民主権は弱かった。ドイツで後にファシズムが出てくることも関連する。大きく言えば君主主権説と国民主権説が対立している構図があるけど、その妥協として国家主権説がでてくる。これが問題だったわけだ。君権主権というのは天皇統治ということで、国体というように表現されたわけだ。

A  美濃部の国家主権説は、国家は国民の利益のためにある法人であり、主権は国家にあって、天皇はその最高機関という。天皇の統治は国民のためになすもので、天皇自身とか天皇一家のための利益のためのものではない。天皇の統治は権利ではなく、権限だというわけだね。

三上 でもこの国家法人説は国家の主権をめぐる問題、君主(皇帝)か、国民かのところを曖昧にした妥協的なものだったということがあり、この主権(国体)ということでは美濃部の方は曖昧だったといえる。後でいうけれど、この統治権力論は権力運用論であって、権力の権威というか、精神的源泉を問うものでなかった。上杉は国家法人論を民主主義国家論であり、それは国体論の否定だと批判する。これはドイツでの国家法人論が皇帝専制への抵抗としてあることを知っていたわけだ。美濃部の国家法人論は国家主権が国家にある体裁をとるが国民主権論の一種であると批判する。上杉の見解は家産国家(家長国家)の考えだというのが美濃部の側からの批判だね。北一輝が革命的復古主義として明治国体論を批判していたのを想起して欲しいのだけど、この理念態というところで美濃部は妥協的で、その分、権力の運用ということで政体論の方に

中心が置かれた。

A 美濃部の議論は4条に重きがある。こちらは天皇が統治を総覧し、それを憲法の条項にそって行うというものだね。

三上 これは天皇主権というのに対して天皇の統治大権といわれるものだ。もう一つの領域と言った政体論のことだ。国家権力の主権が天皇にあるか、国民にあるかが国体論であれば、どのような政権運営(権力の運用)形態を取るかというときに出てくるのが政体論だ。立憲制というとき、それが構成的権力の所在を意味する限り、それは国体の概念を意味する。それがどのような権力の運営(運用)形態を意味するかというとき、政体を意味する。だから、イギリスが立憲君主制であるというとき、国体は民主制(主権在民)で政体は立憲君主制というわけだ。ドイツは理念的には国体のところを妥協的で曖昧にしたまま、立憲君主制を取った。だから、ドイツとイギリスでは立憲君主制と言っても違う。二重に違うわけだ。国体論としてイギリスは民主国でドイツは君主国だね。政体論では立憲君主制で君主の権限が違う。イギリスの場合には君主の権限は制限されているが、ここには国民主権ということが作用している。民主制という国体が背後で機能している。ドイツはここが妥協的で曖昧で、その分だけ皇帝の権限が強かった。国体というときドイツは君主国家論である。そのところでの抵抗が国家主権説で生まれた。国家主権説は抵抗の隠れ蓑的なものだから、その分だけ理念としては弱い。それは法律的にはという言い方になる。法律的には国家は法人という言い方は、国家精神というよりは国家運用においてということの意味合いが強い。ドイツも政体は立憲君主制だが、イギリスのように皇帝の専制権力を制限するところで民主制という国体が機能しないから、それを国家主権論で援用して、権力運用のところに重点が行った。日本はドイツの憲法を模倣しているが、ちょっと特殊である。ここは注視して欲しいのだけど、国体ではドイツよりも君主国家的であった。憲法1条の「万世一系の天皇これを統治する」というのはそういう規定であり、国家法人説で抵抗する以上に強かった。これの伊藤博文の解説(憲法義解)をみれば明瞭である。

これに対して政体という意味での立憲君主制という点では、イギリスに近かった。というのは、天皇は政治権力の行使に出てこないからね。しかし、これにも注釈はいる。君主(皇帝)の専制権力も行使ということは、君主の独裁的な行為としてはなかったにしても、天皇の名による官僚の専制的の行為はあった。明治の藩閥政府というか元老がそれを代行した。輔弼体制の構造として超然内閣を取って、議院内閣制との差異を形づくっていたからね。輔弼体制にすべてを任せて、天皇が直接権力行使(権力の運用)をしないという意味でイギリス的であったが、輔弼体制の内部構造はドイツ的だった。議会の権限を抑制しようとした。その分、天皇の官僚が強かった。天皇に統帥権のある軍部と議会の力が強い政府との対立はこれを意味したのだね。こでは明治維新後のことをみるといいのかもしれない。明治新政府は古代律令制の復活を宣言する。祭政一致だね。これで権力機関として神祇官を持った構成にする。この体制というか、これは挫折して、明治20年の初めには議会開設と憲法ができた体制になる。西周が徳川慶喜の依頼をうけてヨーロッパの絶対君主制の研究をし、大君絶対制というのをあわわす。大君というのは天皇ではなくて、徳川のことだけど、そこで封建制では政体(権力機関)のことを学び日本の構想にしょうとする。明治新政府は大君を天皇にしてこの構想を密輸入する。それで議会開設までつなぐ。これは封建時代の政体(権力構成)からその後をどのように考えたかということだ。

A 日本の政治権力の構造を見ようとするとき、注意が必要ということか。西欧の制度を模倣しても違っているわけだから。対抗する側は西欧の理論の模倣だとこちらは現実を踏まえられていない分だけ弱い。明治(憲法制定)以降の日本は立憲君主制であったといわれるが、この評価にも注意がいるということになる。

三上 国家の主権という意味では日本はアジア的専制だよね。国体というかぎり。しかし、政体では立憲君主制的であった。なぜかというと、日本では国体と政体とは重層的で、関係なく矛盾的に存在しえた伝統があったからだ。国体は天皇主権で、政体は天皇統治(立憲君主制)という形態が存在しえた。ここでは注意がいる。この政体の中で軍の位置だね。軍は統帥と呼ばれていたが、天皇の直轄だったからな。軍と議会の歴史をみればいいわけだ。

政体のところでは立憲君主的形態をとれた。その内部でイギリス型の議院内閣制とドイツ型の官僚専制(超然内閣)とがせめぎあっていたわけだ。美濃部は憲法4条のこの憲法の条項にそって天皇の統治権は行使されるというところをとらえて、この統治権は恣意的な権力の行使を否定しているとする。そこで彼は議会を重視するという理論を立てる。

A ずうっと前に美濃部の「一身上の弁明」の中で「ウシハク」と「シラス」を使って説明をしているのをよんだ。そんな記憶がある。

三上 これは『古事記』の中にある言葉で、ウシハクは私領の意味で,シラスは統治するという意味だという。日本国を天皇が私領にするという意味で主権があるというのは家長国家の思想であるという批判と重なる。シラスは統治することだが、それは国民のためであって天皇の統治はその権能(役割)であるというわけだ。美濃部の中には憲法制定権力の主体が人民(ネーション)にあるという主権在民の考えはないという弱さがある。そこのところを国民のための統治ということで補完しようとしたのだが、国民主権を打ち出せない弱さは分かっていたのかもしれない。福沢諭吉も中江兆民もそうだった。それは前提にしても、国家法人説では天皇統治=天皇国家主権=国体論には対抗しえないというところがあるように思う。上杉たちの説では天皇主権論は近代的政体とのつながりが明瞭ではない。彼らの国体論は政体論としては律令制(太政制)がふさわしいはずだ。でも、明治維新後の王政復古の挫折もあったから、太政官制では日本の権力形態として機能しえない。大日本帝国憲法も帝国議会も統治権力の運用形態を西欧近代の制度に近づけた,それを真似たということになる。天皇の統治大権は憲法の各条項にある。これを、名目(儀礼)とするか、実質とするかは天皇の官僚と議会との政治権力の行使(運用)であらわれる。日本の戦前の政治権力、とりわけ、官僚の権限が強く独善的(強権的)といわれたのは天皇の統治大権を名目にしたものだった。官尊民卑という言葉はそれをあらわしている。

A 君の考えは日本では憲法制定権力(構成的権力)が存在しなかった、それが存在しなかったが故にということになる。昔から言われてパターンであるようにおもえる。

三上 そのように指摘されても致し方ない。福沢諭吉にしても中江兆民にしてもそういってはいた。北一輝もそうだね。彼らが西郷隆盛に抱く幻想もね。ネーション、あるいはコンミューンという革命の幻想は明治維新のなかでは西郷の中にしか見出せない、ということになる。日本における憲法制定権力(構成的権力)が西欧的理念ではなく、国民の生活過程から発するものだとしたら、それは何だという問いかけになる。直接民主主義でもいいけど、その日本での可能性というか、日本的な存在様式は何かということになる。それを明治維新にさぐると西郷幻想になる。僕は奇兵隊のことをもう少し考えているけど。それはあるけど、政治思想という意味では政治権威と政治運用(機関)の矛盾的構成ということを考え続けてきたけれど。

A そこは権力論というか政治論の要にある考えだね。

三上 僕は政治権力の権威と力の重層的な構成ということを考えてきた。この重層的構成は矛盾的構成を可能にするし、日本の政治権力は歴史的にそういうありかたを特徴としてきたともいえる。例えば、天皇統治という国学的な国家理念(国体)と立憲君主論的な権力機関(機関の理論)(政体)は矛盾的に存在可能である。だから、神権君主制と立憲君主制は対立概念であるが、矛盾的に共存できる。これまでの政治論や権力論ではこういうことは理解できなかっただけだ。律令制下の国家理念と国家機関のことを考えればすぐにわかる。アジア的専制という国体の下に立憲君主制という近代的な権力運用の形態(政体)を持つ事は可能だった。民主主義の精神がなくても、民主主義的な権力運用の形態を持つことができる。民本主義は民主主義を排除して、民主主義的な政体を志向したわけだからね。政治権力は権威と力で構成される。国家でいえば、国家精神と国家機関であるわけだ。僕らが使ってきた言葉でいえば共同幻想と機関の関係ということでもいいわけだ。国家の本質は共同の幻想で、機関としては暴力装置であるといことになる。ヘーゲルが官僚のことを国家の肉体と言うときこれは機関のことをさす。国家には精神的身体と肉体がある。精神的身体は幻想(人々の国家意識、あるいは共同意識)の集合ということであり、肉体は官僚によって運営される機関ということになる。美濃部の天皇機関説は天皇を頂点にした官僚の体制ともいえる。天皇自身が官僚の親玉で、精神にあたるものは国家という抽象になる。精神というのは抽象であるが諸個人に内在するものだから、国家という抽象は弱いわけだ。上杉たちが国家精神のところで国体を主張する。これは革命的復古主義で明治維新を権威にしている。これにそって王政復古した政治権力を運用した機関(太政官制)はすぐに挫折した。明治のはじめだ。太政官制にかわる憲法と議会が政治権力の運用の規範になる。でも憲法や議会にはネーションという政治権威(精神)がなかったから、天皇の権威を残し、権力の機関(運用)で立憲君主的形態を取った。妥協的な矛盾的な構成になった。近代官僚(重臣、政党、資本、軍閥)は権力の運用の中にあるわけだから、運用に主眼を置く美濃部学説は受け入れられていった。統治権力が安定している時期は国家主権なんて問題にならない、権力の運用というか、機関のありかたが問題になる。この国体と政体という問題は、国家の幻想性(権威)と政治的力(機関的力)の重層的構造をあらわしているが、それらと対抗する国家戦略も重層的に考えるしかないということがある。

大本柏分苑

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