大本信者は西園寺八郎の名を忘れない。
三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ>明治25年旧正月の筆先です。艮の金神=国常立尊(くにとこたちのみこと)が<世の替り目に神が懸りて、世界の事を知らせねばならぬから・・因縁の霊魂出口なおにかかりて再び世にあらわれ・・いいおきにもかきおきにもないことを示し給い・・創唱宗教の多くは啓示という形で神の御心(教)が人類に述べ伝られます。大本の御教も開祖出口なおと出口王仁三郎聖師のお二方を通して神の御心を人類に伝えました。
<艮の金神はこの世を始めた神なれど、あまり我が強うて丑寅へ三千年と五十年おしこめられて陰から構うておりたが、神の威徳はちっとも人民にわからんから表に現れて、神の威勢の光を出して世界を救けるぞよ。大もうなことであるぞよ>明治33年4月の筆先です。大本の神の御出現の意義が端的に力強く述べられ、艮の金神の世が出現して三千世界の立替え立直しをなし給う大宣言であります。初めの神でありとどめの神であります。古事記などの古典にみられる国常立尊の神に当たります。
今現在、実質的には聖地(4万坪)の本部側による乗っ取りで、当方は泣き寝入り出来ない状況があります。国家権力(偽天皇制)による2度に及ぶ弾圧を経験しており、30余名の殉教者があり、カトリック26聖人に並ぶものです。目の前の悪者を放置できません。彼らも必死でしょう。安倍政治が許せないのと同質です。当方の信仰心によるもので、ぜひともご支援の程、お願い申し上げます。司馬遼太郎の真髄(この国のかたち)で<たしかに戦前の日本はオウムみたいなもんですね、見ようによると大本教の方が国際的で、平和主義で、まっとうなところがありました。陸軍と右翼が満州事変以降、膨張主義をとり、それに見合う軍備は金がなくてしてません。金を出し渋る財政家の高橋是清を2.26事件で殺しても、金が出るはずもありません。昭和7年頃、ソ連の武官が日本軍を見学させてくれで、本物の大演習を見せたら、<日露戦争の模擬演習でしょうか?>と。軍部の暴走前に、言論人がもっと軍事知識をもつべきだった・・・
司馬遼太郎さんが<僕は戦後新聞記者になった時、最初に行きたかったのは亀岡の大本教本部でした。王仁三郎が建てた石造の月宮殿の廃墟を見たかったんです。昭和10年に、ダイナマイト数千発を使って砕かれたという、それがそっくりそのままになっていると聞いたものですから。。。大本教みたいな集団は国家のなかの国家のような臭いがしたかもしれません。それが大弾圧につながったのかどうか、よくわからないんですけれども。。> 明治天皇の写真がない、明治44年南朝正統の勅裁、明治神宮の昭憲皇太后の石碑、大正天皇に子種がない、そして昭和10年12月8日 昭和天皇の命令による大本弾圧で30余名の殉教者を出す、天皇としての自信をつけ、翌昭和11年2.26で<朕が先頭に立ち、鎮圧する>と豪語、北一輝は<若殿に兜とられて負けいくさ>の辞世を残す。司馬遼太郎は中国に勝てない戦力で米国に宣戦と批判、東条との親密さは異常だった事は良く知られる。
霊界物語67巻浮島の怪猫で,天皇制ファシズムの崩壊を大本信者は当の昔より知ってます。偽天皇制とは、明治天皇が大室寅之祐であり、昭和天皇が西園寺八郎の子であるなど、戦前不敬罪として日本人のタブー視された盲点です。出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王のご落胤で正当な北朝の天皇でした。
西園寺公望が昭和天皇に上奏し、大本弾圧を強行し、敗戦となりました。憲法1条の象徴天皇制は偽天皇であれば、削除し、本来の共和制に移行すべきです。
ヒットラーがユダヤ人を迫害した根拠に、ユダヤ資本の脅威がありました。ヒットラーは悪魔として葬られましたが、逃れたユダヤ資本は現代の資本主義を謳歌してます。ピケティのTAX HAEVEN理論を前進させて富裕層からの課税強化を全世界で実施すべきです。
精神論ですが、現代人に欠けている弱点だと思ってます。
1861年岩倉具視は和宮を将軍家茂へ降嫁させたが、幕府へ売ったと裏目に出て1862年孝明天皇から蟄居を命じられ、保身の為、倒幕派に身を置き、孝明天皇の排除を画策した。宮中には岩倉の命を受けて忠実に動く女官(堀川紀子、中御門良子)がいた。当時の人々が薩長と手を結んだ岩倉による暗殺とみたのは当然である。
孝明天皇と将軍家茂による平和の改革を破り、戊辰戦争を起こしたのは、岩倉/桂/西郷/大久保の仕業である。倒幕派の政治的野心が岩倉を中心にまとまり、頑強な攘夷論者の孝明天皇と会津/弱体化する幕府との間で天皇の奪い合いが生じた。戊辰戦争の錦の御旗はそれを象徴している。
明治維新前の人々は国家観/天皇観より藩の殿様が全てであった。甲州人とか上州人が最近の官吏とか平民のようなもので、障壁がありました。天皇家は当時3万石の小大名にすぎず、暗殺やら偽の世継ぎは、充分考えられる状況にありました。睦人親王は1853年11月3日(翌年ぺり-が来航)孝明天皇の第2皇子として誕生、母は中山忠能の娘、慶子である。
病弱な幼少で13歳の年、禁門の変で御所は被弾し、卒倒失神される。1866年12月孝明天皇が崩御、翌年15歳で122代天皇の座に就く。中山忠能は長州に尽力した為、謹慎中で睦人親王は複雑な心境であったとされる。徳川安泰の時代ではなく、天皇の役割は国政を左右し、政治の主導権争いになる。宮中は無秩序になり猿が出没して警固が充分ではなかった。1867年7月睦人親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。
9年前公開された、長崎で撮影されたフルベッキと幕末の志士50名のセンタ-に大室が座っている。右向きであるのは右の頬に疱瘡痕があるという。明治天皇の肖像画(御真影)も右を向いている。左耳の大きさ特徴がドンピシャと鑑定されている。大室は奇兵隊(力士隊)所属で大男であった。睦人親王が小柄で病弱タイプとは様変わりした。ドナルドキ-ンの記述に側近がどうして京都に居ないのかと尋ねると、京都は好きであるから、京都へは戻らぬと答えたという。御用邸が準備されても、一度も避暑/避寒に出掛けない。国民に顔をさらさぬ事が仕事でした。
明治42年10月伊藤博文がハルピンで安重根に射殺される。明治天皇は伊藤博文の呪縛から解放されるが、翌43年5月大逆事件が起こる。幸徳秋水が大審院で<三種の神器を奪った北朝の天皇を殺して何ゆえ大罪になるのか!秋水の魂は南朝にある!>という発言が外部に漏れ、驚いた山縣有朋は桂首相を呼びつけ、明治44年3月、明治天皇が南朝正統論の勅裁を出す。現在の文科省の学習指導要領では、南朝正統論は明治政府の間違いで、現天皇家は北朝であると断言している。少なくとも岩倉具視/伊藤博文に暗殺された孝明天皇は北朝であり、明治45年7月、明治天皇は61歳で崩御、皇后一条美子も大正3年4月64歳で逝去、昭憲皇太后と遺号される。
一条美子は明治天皇の皇后であるのに、なぜ昭憲皇后でなく明治神宮の祭神として昭憲皇太后になったのか?皇太后とは先帝の皇后を指し、孝明天皇の后になる。大正天皇は明治天皇の皇后であった事を断固拒否したのである。一条美子は明治天皇の后ではない、暗殺された睦人親王の后であり、明治天皇の先帝の后、つまり皇太后であった。皇太后とされた一条美子の実家の支流に鶴殿親子(ちかこ)がいる。美子はこの姪を特別に可愛がった。後に
鶴殿親子は大本に入信する。出口王仁三郎の霊界物語口述の御世話をなさり、物語では紫姫として登場し、吉野の後醍醐天皇(南朝)の祟りを鎮められる役割を果たす。
大正天皇には子種がなく、昭和天皇は西園寺八郎の子である事。大本弾圧の発端は西園寺公望の秘書原田日記に記され、公望が北朝の王仁三郎を討つ必要があったと断定してます。戦後、綾部駅に着いた昭和天皇が大本はどちらの方向かと、京都の蜷川知事に尋ね、知事が反対の方向を指したという逸話は、大本信者に語り継がれています。大本弾圧は1935年12月8日内務省が不敬罪/治安維持法により大本を叩き潰した。表面的にはワシントン・ロンドン条約/天皇機関説反対により岡田倒閣/元老への揺さぶりを鎮圧したとされる。実態はそうではない。首謀者は西園寺公望/昭和天皇である。昭和天皇の実父は西園寺八郎といわれ、終生八郎は昭和天皇に寄り添っている。西園寺公望の秘書原田熊雄の日記には、大本が政治家達に盛んに運動している事を逐一公望に報告し、大本(教)というものを取締まれと激を飛ばしている。何故公望はそこまで大本を憎んだのか、当方も日蓮宗などの嫉みか調べたが、そうではない。出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王のご落胤であるがゆえに、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると思った。昭和天皇も同意した。1935年6月御前会議で大本弾圧が決定された。弾圧のやり方は叩き潰す。日本宗教史上稀にみる醜いやり方である。細部にわたって公望は指示したとされ、1940年死去する。
上記の話をすると、決まって証拠不十分とのクレ-ムが付きますが、最大の証拠は伝統文化の喪失であります。1500年以上曲がりなりにも存続した日本の伝統文化が、明治天皇が姿を現さなかったり、戦争好みの昭和天皇により完全なまでに消え去った。雅楽でも東儀秀樹の個人的な見解であり、和歌でも歌会始の発声が伝わる位で一切の発展/魅力が無くなった。
イギリスには王立協会など教育機関があり、文化の伝承/人材育成があり、国民は自分達の文化が語れる。安倍政権が掲げる観光立国が地方再生の切り札なのは、中央の文化が無いからに他ならない。日本人が語れる文化が無い。大本がその一翼を担うしかありません。
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