聖師の御神格を隠して来た歴史 ④ 藤井 盛

そして、これを受けたかのように、十月二十九日の主会長会議で伊佐男氏により、突如「三代教主伊都能売御霊論」が打ち出されたのである。さらに、この伊佐男氏の論に対して、本稿冒頭の土井氏の反論文が出たのが十一月六日付けである。ところで、『現代人』の同年十一月号を見ると、杭迫氏(亀谷)の第五回目の反大本原稿に併せて、杭迫氏の原稿に対する土井氏の反論文が掲載されている。そして何より注目すべきは、その土井氏の反論文掲載を伊佐男氏が依頼していることである。伊佐男氏が杭迫氏と土井氏の仲立ち

という形で、三者の名前が『現代人』昭和二十九年十一月号に並んでいる。

大本幹部の伊佐男氏と元特高課長の杭迫氏とは第二次事件のなかで、逮捕や拘留、取り調べなどを通じて、当然、お互いの顔を見知った関係であったことは言うまでもなかろう。

さて、ここからが私の推測である。

杭迫氏の「反大本」原稿の『現代人』掲載が、昭和二十九年七月号であるが、この年の三月、第五福竜丸が米国の水爆実験で被ばくする事件が起こっている。

これに大本はすばやく反応し、原水爆反対の署名運動を全国に展開し、六月には百六十万人もの署名簿を国連事務総長へ送っている。旧弾圧側はこの大本の全国的な社会運動から過去の大本の全国的な「昭和神聖会」運動を連想し、危険と感じたのではないか。そして、急に『現代人』七月号から杭迫氏の「反大本原稿」の執筆が始まったのではないだろうか。

ところで、この反対署名運動の中心を担った出口榮二氏が、伊佐男氏が「三代教主伊都能売御霊論」を挨拶で述べた十月二十九日に合わせるかの十月二十七日付けで副総長の職を更迭さ

れている。

この榮二氏の更迭のことが、伊佐男氏の挨拶と合わせて「愛善苑」誌十二月号に載っているが、更迭理由が「対外的活動に忙しく内部事務がおろそかのため」という「こじつけ」のようなものである。

しかも、榮二氏の活動について「東奔西走している」とのみあるだけで、全国的署名運動や国連への署名簿の送付などの原水爆反対運動には全く触れていない。つまり、無視というか、大本とは無関係を装っているとしか言いようのない扱いである。

あたかも旧弾圧側の杭迫氏の反大本の主張を受け入れたかのように、大本の社会的活動が封じられてしまったのである。

この昭和二十九年の動きを整理してみる。

〈昭和二十九年〉

三月 第五福竜丸が水爆実験で被ばく。出口榮二氏を中心に反対署名運動を展開。

六月 百六十万人の署名を国連事務総長へ送付。

七月 元特高課長杭迫氏が『現代人』に反大本原稿の掲載を開始。

十月二十九日 主会長会議で伊佐男氏が「三代教主伊都能売御霊論」を発表。

   榮二氏副総長更迭(二十七日付け)

十一月六日 土井氏が伊佐男氏の論へ反論。

(日付不明)杭迫氏に対する土井氏の反論文の

『現代人』への掲載を、伊佐男氏が宇佐美氏へ依頼。

『現代人』十一月号 杭迫氏の反大本原稿(五回目)と杭迫氏へ対する土井氏の反論文掲載。

 大本の全国的運動に旧弾圧側が反応。その旧弾圧側に対応して榮二氏が更迭されるとともに、伊佐男氏の「三代伊都能売御霊論」が発表されている。これを見ると、大本の動きが再弾圧への警戒感を極度に高めたものであるとともに、旧弾圧側にも、弾圧めいた考えが戦後もなお継続していたと想像することは容易である。

戦前の大本の活動は、聖師の「みろく下生」たる教義を基に昭和神聖会等の社会運動が展開されたのであるが、これを国体保持の観点から当局が弾圧したものである。第一審判決を見ると大本を「大

本教義に基づき国体変革をなすもの」【註12】として、国体変革の基となる教義を危険視している。

大本が聖師の「みろく下生」たる教義を持ち続ける限り、弾圧側と弾圧される側の構図が、戦後もなお続くことを伊佐男氏や幹部役員が認識していたため、その教義を封印してきたということである。

しかし、そうした弾圧・被弾圧の構図が、この昭和二十九年に一気に表に出たため、再弾圧を避けるために、より強い聖師の御神格隠しとしての「三代教主伊都能売御霊論」が必要となったのである。

つまり、「三代教主伊都能売御霊論」は再弾圧防止対策としての方便、旧弾圧側に対する「カモフラージュ」ということである。このように私は推論する。

【註11】『錦の土産』

「伊都能売の御魂霊園の天人なる大八洲彦命の精霊を充たし瑞月の体に来たりて口述発表したる霊界物語は、世界経綸上の一大神書なれば、教祖の伝達になれる神諭と共に最も貴重なれば、本書の拝読は如何なる妨害現はれ来るとも、不屈不撓の精神をもって断行すべし、例へ二代三代の言と雖も、この事のみは廃すべからず。邪神界殊に八十八派の兇徒界の妖霊は一応尤もらしき言辞を弄し、月の西山に入りたる際、得たり賢しと聖地へ侵入し来り、先ず第一に二代三代の身魂を誑惑せんと雄猛び襲ひ来るべし」

      (『錦の土産』大正十二年旧十月十三日)

【註12】大本第二次事件 第一審判決

「万世一系の天皇を奉戴する大日本帝国の立憲君主制を廃止して、出口王仁三郎を独裁君主とする至仁至愛の国家建設を目的とせる大本と称する結社を組織…昭和三年三月三日が…みろく大祭を執行し…大本教義に基き我国体を変革す

ることを目的とする結社を組織し」

(原文カタカナ)

○なお続く再弾圧への警戒

その十年後の昭和三十九年二月に刊行された『大本七十年史』編さん当たっても、なお再弾圧への警戒が続いている。聖師の「みろく下生」たる教義は封印されたままである。

◆出口伊佐男 「人間出口なお、人間出口王仁三郎といったようなたて前から、神霊感応と相応じて人間的に改造させられながら大成してこられた」 

直日 「全くそうですもの。…信者さんは、あまりよろこんでないでしょうけど」

(『宗教文化は誰のものか』永岡 崇)

◆「開祖さまや、聖師さまのお示しになったご業績も、これを冷厳に史学の眼(まなこ)でとらえ、あたうかぎり、人間の問題として取りあつかわれています…宗教の大切な要素である〝奇蹟〟とか〝神格〟の叙述について、もの足りなさをかこたれるかも知れません…ある時は傷ついた、苦い体験の記録である」                          

(「『大本七十年史』によせる」 出口直日)

三代様の「傷ついた、苦い体験」とは第二次事件のことであろう。三代様の事件体験は過酷で、それ故か、昭和二十年十二月八日の事件解決報告祭にも参拝されていない。その過酷さは、次に示した悲痛な短歌【註13】や昭和三十七年九月の出口榮二氏総長更迭事件での発言「私のねがい」【註14】にもうかがうことができる。

再弾圧への警戒のための対策として「聖師の御神格隠し」が行われたということのみではなく、その警戒感が、三代様の実体験に基づいた感情的

で根強いものであったことは否めない。『現代人』昭和三十一年七月号に、三代様の『現代人』訪問【註15】の記載があるのも、再弾圧への警戒の一環と考える。

なお、榮二氏総長更迭事件は、昭和三十七年七月のモスクワにおける軍縮平和会議に出席された榮二氏が、帰国後の九月、総長の座を更迭されたものである。また、この更迭を三代様に勧めたのは昭和七年に聖師に引退を迫った大島豊氏で、大島氏を三代様に引き合わせたのは伊佐男氏【註16】だという。これも再弾圧を防ぐための一環であったのだろう。

【註13】短 歌

・死にたしと吐息もらせばをさな子は死ぬなといひて膝によりくる

(『ちり塚』昭和二十八年発行)

・夫の名を呼びておもひきり揺すぶりなば或ひは正気に帰りまさむか (同)

・逆賊と呼ばれし過去ある吾にして明智光秀の城跡に住む  (『西王母』昭和三十九年発行)

・治安維持法違反に問われ亡き母は還暦の日を獄にいましき   (同)

【註14】三代教主「私のねがい」 

「私たちのお道には、かつて昭和神聖会というのがありました…私はこの運動に真向うから反対しました。…社会の目は昭和神聖会を政治運動のような形でとらえました。そしてそのことが第二次事件をひきおこす大きな要因になりました。…大本事件は私たちに深い傷手を与えました。その時に受けた生々しい傷痕は多くの人達の胸に残り、いまなお消え去ってはおりません」  (『おほもと』昭和三十七年八・九月合併号) 

【註15】月刊『現代人』を三代様が訪問

       (『現代人』昭三十一年七月号編集後記)

註16】戦後愛善苑発足より愛善苑を応援してきた京都の宗教誌『中外日報』の記事

「出口伊佐男(故人)が、昭和三十七年に出口栄二氏(次の四代教主となる出口直美教嗣の夫君)を総長の椅子からおろすために、全精力を使った」

(『中外日報』昭和五十六年 七月二十四日号)


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