聖師の御神格を隠して来た歴史 ③ 藤井 盛

〇聖師の御神格隠しが極まる

「三代教主伊都能売御霊論」

「聖師を救世主とは言わない約束」は、なおも続く。その極め付きが、聖師の御神格を三代教主に置き換えたことである。

昭和二十九年十月二十九日の全国主会長会議において、総長の伊佐男氏は「三代教主は伊都能売御霊であり、開祖や聖師、二代の生きた現れ、過去の凡ての教御祖の現れである」という挨拶をされ、三代教主を伊都能売御霊としたのである。私は以下、これを「三代教主伊都能売御霊論」と呼ぶことにする。

「四魂揃った活動は伊都能売の活動であり、直日先生はこの伊都能売の神格と活動をなされている…直日先生は二大教祖の道統を継承され言わば現に生きていられる開祖様、聖師様、二代様であり…直日先生を過去の凡ての教御祖のお現れであるとの絶対的信仰」

(昭和二十九年十月二十九日、主会長会議 出口伊佐男総長挨拶)

つまり、三代様を「伊都能売御霊」として前に立てて、その陰に聖師の「伊都能売御霊」、「救世主」たる御神格を隠そうというのである。「聖師を救世主とは言わない約束」をより強力な手段で貫こうとしたのである。

ところで、先に、聖師がみろく下生たることの教典上の根拠を示したが、同時に聖師が厳瑞二神を合せた伊都能売神であり、それは肉体を具備した神であることの霊界物語上の根拠を示しておきたい。

◆ 太元顕津男(おほもとあきつを)の神は大太陰界に鎮まり給ひて至仁至愛(みろく)の神と現じ給ひ、数百億年の末の世迄も永久(とこしえ)に鎮まり給ふぞ畏けれ。

至仁至愛の大神は数百億年を経て今日に至るも、若返り若返りつつ今に宇宙一切の天地を守らせ給ひ、今や地上の覆滅せむとするに際し、瑞の御霊の神霊を世に降して更生の神業(みわざ)を依さし給ふべく、肉の宮居に降りて神代に於ける御活動そのまゝに、迫害と嘲笑との中に終始一貫尽くし給ふこそ畏けれ。

◆ 大太陽に鎮まり給ふ大神を厳の御霊と称へ奉り、大太陰界に鎮まりて宇宙の守護に任じ給ふ神霊を瑞の御霊と称へ奉る。厳の御霊、瑞の御霊二神の接合して至仁至愛神政を樹立し給ふ神の御名を伊都能売神と申す。

即ち伊都は厳にして火なり、能売は水力、水の力なり、水は又瑞の活用(はたらき)を起して茲に瑞の御霊となり給ふ。紫微天界の開闢(かいびゃく)より数億万年の今日に至りていよいよ伊都能売神と顕現し、大宇宙の中心たる現代の地球(仮に地球といふ)の真秀良場(まほらば)に現れ、現身(うつせみ)をもちて、宇宙更生の神業(みわざ)に尽し給ふ世とはなれり。 

われは今伊都能売の神の功もて

曇れる神代(みよ)を光(てら)さむと思ふ

(第七十三巻第一二章「水火の活動」)

ちなみに、松本清張氏の絶筆「神々の乱心」は、時代背景を第一次大本事件から入蒙あたりに置いて、大本をモデルとして書かれたものであるが、聖師のみろく下生が積極的に著されている。

「ミロクの霊を享(う)けた『聖師』出口王仁三郎」(上巻17頁)・「弥勒の下生」、「弥勒が王仁三郎」、「弥勒が現世に現れたのが王仁三郎」(下巻67 頁)・「弥勒下生達頼喇嘛(ダライラマ) 素尊汗(ハン)」(下巻69頁)

このような記述が大本関係ではなく、一般書籍にあることに驚かされる。

もっとも、清張氏のいとこの山川京子氏が大本信者で、東京で支部長であったと聞くが、聖師のみろく下生たることを世に伝える清張氏は、立派な大本の宣伝使と言うべきである。

 ○土井氏の反論文と三代様

 この伊佐男氏の「三代教主伊都能売御霊論」に土井靖都氏が反発され、その反論文の一節で明らかになったのが、本稿冒頭の「聖師を救世主とは言わない」という約束である。

 そして、この約束部分に続いているのが次の文章である。これを要約すると「聖師を救世主とは言わないという約束であったのに、こともあろうに三代様を伊都能売御霊にしてしまった。伊都能売御霊とは聖師お一人のことである。聖師が救世主であることを否定してしまっては、大本は崩壊してしまう。くやしくて夜も眠れない」となる。

「今日三代様を突如として伊都能売の御魂にまします事が宣旨されました」「厳瑞二霊を合せ給える事が即ち伊都能売の御霊であらせられ、これは聖師御一人の特色の事」「聖師救世主否定の意義を持ち来すものとすれば‥大本教団の崩壊を持ち来する」「眠りなりがたきこと幾夜」

しかし思うに、三代様こそいい迷惑である。御自身が聖師の盾にされて、聖師の御神格を理解する者たちからの非難を、その身でお受けにならなければならなくなったのである。

ところで三代様御自身はどうかというと、自らが生き神にされることを否定されている。また、信者が自分に見せる態度が侮蔑的であり、けっして生き神とは思っていないことを自覚されているのである。

〔生き神の否定〕

「この世を作られた生神さまと同じように思われてはいやですね」

「私は開祖さま、聖師さまほど偉くないですよ」

  (『おほもと』誌昭和四十七年一月号

 出口和明著『第三次大本事件の真相』一八三頁)

〔信者の侮蔑〕

・吾がことをロボットと噂されゐるを知らざらむ厳しき手紙今日は受けたり

・吾が夫に面会して帰りゆく人あり吾を見ながら知らぬ顔して

・働きて食えよ教主の値打なしと奉仕者らしきが手紙寄越しぬ

(歌集『西王母』昭和三十九年発行)

ところで、伊都能売御霊とされた三代様と伊佐男氏の信頼感の強さについて和明氏の描写がある。昭和四十八年五月六日に伊佐男氏は亡くなられるが、その直前の五月二日に三代様が見舞われた時の様子である。

「二日、直日先生が見舞いにこられるとの知らせに、父は朝からひげをそらせ、寝巻を着かえ、身辺を正して待ちかねる。教主さまと会った瞬間の父の目の輝やきは、うって変って、まるで別人であった。これが重態の病人の瞳であろうか」   (『松のひびき』一一七頁)

また、伊佐男氏の入院中の三月八日に、三代様が伊佐男氏を大本教主補佐に任命されたことや、亡くなられる二日前の五月四日に子の和明氏を斎司にして伊佐男氏の後を継がせると言われたこと、また、伊佐男氏が亡くなられた昭和四十八年の八月、松山での歌碑除幕式に、和明氏が教主御名代で出席されたことも、三代様の伊佐男氏への信頼の厚さを反映したものと思われる。

よって三代様は、御自身が聖師の盾となって伊都能売御霊にされることも納得されていたのではなかろうか。

〇大本教法も聖師の御神格隠し

 土井氏は反論文の中で「聖師を救世主とは言わないこととなっていた」ことに続いて、大本教法にも次のように触れている。この私の原稿の一頁目の土井氏の原文にもある。

「大本教法には論議の結果に於て、…聖師を単に瑞霊と記され」

土井氏は、「聖師を救世主とは言わない約束」の下で大本教法が定められ、聖師を単に瑞霊とのみ記したと証言している。つまり、大本教法は聖師の救世主たる御神格を隠したまま定められたということである。

大本教法の制定は昭和二十七年で、昭和二十三年の聖師葬儀の誅詞(しぬび)と昭和二十八年の「みろく下生」のない「聖師伝」の間にあり、時期的にも「聖師を救世主とは言わない」という流れの中にある。

〈聖師の御神格を隠してきた歴史〉

昭和二十年十二月 大本事件解決奉告祭挨拶

「事件は我々(聖師)が悪かったから起きた」昭和二十三年一月 聖師の葬儀の誅詞(しぬび)

 「聖師を救世主とは言い切らず」

昭和二十七年四月 『大本教法』 

 「聖師を単に瑞霊と記すのみ」

昭和二十八年四月 『聖師伝』発刊

 「昭和三年三月の「みろく下生」なし」

昭和二十九年十月 主会長会議

 「三代教主伊都能売御霊論」

昭和二十九年十一月 土井靖邦氏反論

 「聖師を救世主とは言わない約束」

 ところで、梅園浩氏が昭和五十七年の大本山口本苑での講話のなかで、戦後のGHQ占領下と教法制定について述べておられる。

「自分は教典を定義する教法第七条の制定に携わったが、霊界物語をそのまま教典として出して三度目の弾圧を受けると困る。そのため、安全装置として『教主の裁定』という言葉を入れ、また、一部を霊界物語から抜き出し、用心しながら小説として出した」(要約)

監視組織が、特高からGHQに替わったとしながらも、教法制定当時、当局による再弾圧を意識していたという重要な証言である。「聖師の御神格を隠す約束があるなかで教法が制定された」とする土井氏の主張の裏付けとなるものである。

〇再弾圧への警戒が高まった昭和二十九年

さて、戦後愛善苑発足以来の、聖師のご神格隠しの流れの中で「三代教主伊都能売御霊論」の打ち出しはあまりにも度が過ぎている。

伊都能売御霊が聖師であることは、先に関係箇所を示した霊界物語のみならず、伊佐男氏自身にも触れた箇所がある『錦の土産』【注11】を見れば明白である。それを三代様に置き換えてしまうのは、余程の理由があったはずである。

これを解明するかのような動きがある。

まず、「三代教主伊都能売御霊論」が出たのと同じ昭和二十九年、元京都府特高課長杭迫軍司氏が、月刊『現代人』の七月号から反大本の原稿を掲載し始めている。『現代人』の編集者は後に大本総長となる宇佐美龍堂氏で、杭迫氏のペンネームは亀谷和一郎。表題は「宗教界の野望―大本教―」である。



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