聖師の御神格を隠して来た歴史② 藤井 盛

 

〇当局に憤る聖師・事件回顧歌集「朝嵐」

一方、聖師は、昭和十七年八月に未決を出られてから、当局に対する憤りに満ちた短歌を多く詠まれている。歌集『朝嵐』の事件回顧歌は千六百首にも及び、当局へへつらう伊佐男氏の態度とは真反対である。事件の違法や当局の聖地売払いの無道などを、聖師は強く非難し、また、拷問による獄中死や関連死の信者十六名を、心から悼んでおられる。信者一人ひとりの死を丁寧に詠み、あたかもそれぞれの傍らにおられたかのようである。いやきっと、聖師はそれぞれの信者の御霊(みたま)の傍らにおられ、昇天後の行き先に光を照らしておられたに違いない。

【事件の違法】

・リンゴ三個神饌物を頂戴し治安維持法と強いられし月(1312) 

・後の世の笑話の種となりぬべし大根芋の無法の公訴は(1325)

 ・芋坊主五十万円投げ出してデッチ上げたる芋

大根事件(1376)     …芋坊主:東本願寺

〔聖地売払いの無道〕

・両聖地を安価で町に売払へと黒犬牙を光らせ迫りぬ(1327) 

・解決の付かぬうちより毛物等は月座を破り無道を極めぬ(1389)

〔信者の獄中死〕

・元気なりし岩田は敢えなく身失せけり無法の攻苦に逢ひたる果てを(1305) 

・中立売署酷の荒びに堪え切れず首締め上天したる栗原(1301)

・種々の難題と強き拷問に身体いため死したる高木氏(1309)

・悔やみても返らぬ事とは思へども余りの無法に書き留めおくなり(1306) 

・長髪を曳き摺りまはしさいなみしいたさに堪へず短髪となり(1290)

(事件回顧歌集『朝嵐』( )内は歌集でふられた番号)


〇悪く言われる伊佐男氏

ところで、聖師の歌の中で伊佐男氏(=宇知麿)を詠んだものは、他と比べて異質である。

〔宇知麿〕

・宇知麿は曲犬どもに噛み付かれ事実無根の告白をなせり(1381)

・宇知麿の自白せしとう聴取書(ふみ)もちて統ての羊

の調書(ふみ)作るまが歌で「曲犬に噛み付かれ」とあるが、大本七十年史では、伊佐男氏はビンタを二、三回受けた【註8】にすぎず、ひどい拷問は受けていないこととなっている。また、伊佐男氏の「事実無根」、つまり嘘の自白によって、他のすべての信者の調書が作られたこととなっている。また、伊佐男氏は嘘の自白をした理由について、「死んでしまっては本当のことが言えなくなる」と上申書で述べているが、結局、この伊佐男氏の嘘の自白をもとに作られた他の者らの調書が、みな同じであるという不自然さ【註9】もあって、裁判は無罪へと向かうのである。なお「伊佐男氏の人差し指が爪の根元近くまで斜めに欠けていたのは拷問が原因」【註10】と伊佐男氏の子、出口和明氏が明らかにしているが、そうするとビンタ二、三回どころではない。

実は、千六百首の事件関連歌のうちの六百首の清書を伊佐男氏が行っている。聖師の思いは痛いほどわかっていたはずである。伊佐男氏の「へつらい」の挨拶は、「忍耐」の挨拶と言うべきかもしれない。ではなぜ、伊佐男氏は、あえて忍耐をしながら「へつらい」の挨拶をしなければならなかったのだろうか。

一方聖師は、伊佐男氏に関して、一見同情感のない歌を詠んでおられるが、何か意図的に悪役に仕立てているようにも感じる。

【註8】「平手で頬を二三度打たれ」「すべてを隠忍していきてゐなければならぬ」

(伊佐男氏上申書:昭一五・一一・一六、「大本七十年史 下巻」四一九、四二〇頁)

【註9】「どの調書もまったく同じことで、これはおかしいと思った」(陪席判事 田村千代一、

  同六一五頁)

【註10】「松のひびき」

出口うちまるを偲びて(出口和明発行 「天声社」一〇六頁)


〇「みろく下生」のない聖師伝

「聖師御昇天まで聖師を救世主とは言わない」とされた約束が、そのとおり昭和二十三年一月十九日御昇天の聖師の葬儀での「誅詞(しぬび)」で実行されている。普通に考えれば、救世主の御昇天であるから聖師の「誅詞(しぬび)」は、言葉を尽くして御業績を褒め称えたものであることが想像される。しかしそうではなく、聖師の来歴を羅列しただけの誠にあっさりとしたものになっている。聖師を「救世主」とは言い切れず、「救いの君と崇(あが)められ」などとぼやかすのが精一杯の表現になっている。

「北の涯(はて)の崎々南の海の島々までも御跡至らぬ隈なく或は蒙古の野に雄叫び或は満州の都に遊び 東亜の国々は言うも更なり遠く西の海の彼方の人々にでも救いの君と崇(あが)められ」 (誅詞(しぬび) 出口伊佐男斎主)

さて、「聖師を救世主とは言わない約束」は、「聖師御昇天まで」とされていたが、御昇天後も続いた。昭和二十八年四月に天声社から発刊された「聖師伝」には、昭和三年三月三日「みろく下生」の記載がない。

〇「みろく下生」の教典上の根拠

そもそも、天のみろく様が、救世主神・瑞霊神素盞嗚大神と顕現して現界に「下生」されたのが出口王仁三郎聖師である。またその「下生」は、国祖御隠退の時に、天祖・みろく様が国祖とお約束をされ、国祖再出現の折には、天祖が降ってきてお手伝いをされるという「御神約」の実行である。

そして、この下生されたみろく様の御教えにより、松の世、みろくの世が建設されるというのが、大本出現の根本義である。私は、そう信じている。


以上述べたことは、教典の各所に示されている。

まず、天祖たるみろく様が下生され、国祖のお手伝いをされるということについて

「五十六億七千万年の星霜を経て…弥勒の神

下生して三界の大革正を成就し、松の世を顕現するため…苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示し」

 (『霊界物語』第一巻「発端」)

「現界の不備欠点を補はむが為に大神は自ら地に降り…天界の福音を宣伝し」「弥勒を世に降し…天国の福音を…示させ」 

(第四十八巻第一二章「西王母」)

「神諭に『艮の金神が天の御先祖様、五六七の大神様の御命令を受けて、三千世界の身魂の立替、立直しを致すぞよ。それについては、天の神様地に降りて御手伝いあそばすぞよ』とあり」          (回顧録「序」)

とあるとおりである。また、天祖・みろくの大神が神素盞嗚大神と顕現されることについても

「至仁至愛の大神は其神格の一部を地上に降し神素盞嗚尊と現はれ」

(第四十九巻第三章「地鎮祭」)

「坤の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊がみろくの神のおん霊で…みろくさまが根本の天のご先祖さまであるぞよ」

    (『大本神諭』大正五年旧九月九日)

と示されている。そして、聖師の御霊(みたま)が神素盞嗚尊であることを歌で明らかにされている。

わが魂(たま)は神素盞嗚の生御魂(いくみたま)瑞の神格に充され

てあり  〔第四十一巻第十六章「三番叟」余白歌〕

教典をこのように丁寧に探っていけば、天のみろく様が出口聖師として地上に「下生」されたということは明白である。


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