正しい日本史です。
<後醍醐天皇 1288年~1339年>
**2度目の天皇親政の中身**
後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府を倒しますが、天皇親政(建武の中興)がままならず、足利尊氏に追放され、1339年失意の内に崩御し、その怨念と悔根は、後の世に 南北朝の争いを残します。天皇親政の革命は建武の中興と明治維新だけで、明治天皇による南朝正統の勅裁はご自身の崩御前年に出されます。 1861年岩倉具視は和宮を将軍家茂へ降嫁させたが、幕府へ売ったと裏目に出て1862年孝明天皇(北朝)から蟄居を命じられ、保身の為、倒幕派に身を置き、孝明天皇の排除を画策した。岩倉には動機があった。 削除宮中には岩倉の命を受けて忠実に動く女官(堀川紀子、中御門良子)がいた。当時の人々が薩長と手を結んだ岩倉による暗殺とみたのは当然である。
孝明天皇と将軍家茂による平和の改革を破り、戊辰戦争を起こしたのは、岩倉/桂/西郷/大久保の仕業である。倒幕派の政治的野心が岩倉を中心にまとまり、頑強な攘夷論者の孝明天皇と会津/弱体化する幕府との間で天皇の奪い合いが生じた。戊辰戦争の錦の御旗はそれを象徴している。
明治維新前の人々は国家観/天皇観より藩の殿様が全てであった。甲州人とか上州人が最近の官吏とか平民のようなもので、障壁がありました。天皇家は当時3万石の小大名にすぎず、暗殺やら偽の世継ぎは、充分考えられる状況にありました。 削除
禁門の変(1864年)から2年の間に、2度の長州征伐失敗後、薩長による倒幕の流れは、家茂/孝明天皇の不可解な死去と共に、海外の新聞で報道される。
孝明天皇は毒または手槍りで刺された説であり、長州ファイブで英国で化学を学んだ伊藤博文が止めを刺した暗殺者として有力である。伊藤博文は上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させる。薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。
二人を始末して、薩摩屋敷に待機していた大室を宮中に入れ、有栖川宮は倒幕を命じる。 南朝にした西郷は目的を達し、江戸開城で勝海舟と妥協する。
睦仁親王は1853年11月3日(翌年ぺリ-が来航)孝明天皇の第2皇子として誕生、母は中山忠能の娘、慶子である。
病弱な幼少で13歳の年、禁門の変で御所は被弾し、卒倒失神される。坂本龍馬の斡旋で有栖川宮(北朝)が教育係となり、元服を迎える。1866年12月孝明天皇が崩御、翌年15歳で122代天皇の座に就く。中山忠能は長州に尽力した為、謹慎中で睦仁親王は複雑な心境であったとされる。徳川安泰の時代ではなく、天皇の役割は国政を左右し、政治の主導権争いになる。宮中は無秩序になり猿が出没して警固が充分ではなかった。1867年7月睦仁親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。
10年前公開された、長崎で撮影されたフルベッキと幕末の志士50名のセンタ-に大室が座っている。右向きであるのは右の頬に疱瘡痕があるという。明治天皇の肖像画(御真影)も右を向いている。左耳の大きさ特徴がドンピシャと鑑定されている。大室は奇兵隊(力士隊)所属で大男であった。睦仁親王が小柄で病弱タイプとは様変わりした。
**明治天皇に写真がない訳**
明治天皇の写真がない、明治44年南朝正統の勅裁、明治神宮の昭憲皇太后の石碑、大正天皇に子種がない、そして昭和10年12月8日昭和天皇の命令による大本弾圧で30余名の殉教者を出す、天皇としての自信をつけ、翌昭和11年2.26で<朕が先頭に立ち、鎮圧する>と豪語、北一輝は<若殿に兜とられて負けいくさ>の辞世を残す。司馬遼太郎は中国に勝てない戦力で米国に宣戦と批判、東条との親密さは異常だった事は良く知られる。
霊界物語67巻浮島の怪猫(当方ブログ1昨年4月20日アップ)で天皇制ファシズムの崩壊を大本信者は当の昔より知ってます。偽天皇制とは、大室寅之祐とか昭和天皇が西園寺八郎の子であるなど、戦前不敬罪として日本人のタブー視された盲点です。出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王のご落胤で正当な北朝の天皇でした。
西園寺公望が昭和天皇に上奏し、大本弾圧を強行し、敗戦となりました。憲法の象徴天皇制は偽天皇であれば、削除し本来の共和制に移行すべきです。
明治42年10月伊藤博文がハルピンで安重根に射殺される。明治天皇は伊藤博文の呪縛から解放されるが、翌43年5月大逆事件が起こる。幸徳秋水が大審院で<三種の神器を奪った北朝の天皇を殺して何ゆえ大罪になるのか!秋水の魂は南朝にある!>という発言が外部に漏れ、驚いた山縣有朋は桂首相を呼びつけ、明治44年3月、明治天皇が南朝正統論の勅裁を出す。現在の文科省の学習指導要領では、南朝正統論は明治政府の間違いで、現天皇家は北朝であると断言している。少なくとも岩倉具視/伊藤博文に暗殺された孝明天皇は北朝であり、明治45年7月、明治天皇は61歳で崩御、皇后一条美子も大正3年4月64歳で逝去、昭憲皇太后と遺号される。一条美子は明治天皇の皇后であるのに、なぜ昭憲皇后でなく明治神宮の祭神として昭憲皇太后になったのか?皇太后とは先帝の皇后を指し、孝明天皇の后になる。大正天皇は明治天皇の皇后であった事を断固拒否したのである。一条美子は明治天皇の后ではない、暗殺された睦仁親王の后であり、明治天皇の先帝の后、つまり皇太后であった。皇太后とされた一条美子の実家の支流に鶴殿親子(ちかこ)がいる。美子はこの姪を特別に可愛がった。後に鶴殿親子は大本に入信する。出口王仁三郎の霊界物語口述の御世話をなさり、物語では紫姫として登場し、吉野の後醍醐天皇(南朝)の祟りを鎮められる役割を果たす。
**命令者は誰か**
大正天皇には子種がなく、昭和天皇は西園寺八郎の子である事。大本弾圧の発端は西園寺公望の秘書原田日記に記され、公望が北朝の王仁三郎を討つ必要があったと断定してます。昭和40年綾部駅に着いた昭和天皇が大本はどちらの方向かと、京都の蜷川知事に尋ね、知事が反対の方向を指したという逸話は、大本信者に語り継がれています。大本弾圧は1935年12月8日内務省が不敬罪/治安維持法により大本を叩き潰した。表面的にはワシントン・ロンドン条約/天皇機関説反対により岡田倒閣/元老への揺さぶりを鎮圧したとされる。実態はそうではない。首謀者は西園寺公望/昭和天皇である。昭和天皇の実父は西園寺八郎といわれ、終生八郎は昭和天皇に寄り添っている。西園寺公望の秘書原田熊雄の日記には、大本が政治家達に盛んに運動している事を逐一公望に報告し、大本(教)というものを取締まれと激を飛ばしている。何故公望はそこまで大本を憎んだのか、当方も日蓮宗などの嫉みか調べたが、そうではない。出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王のご落胤であるがゆえに、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると思った。昭和天皇も同意した。1935年6月御前会議で大本弾圧が決定された。弾圧のやり方は叩き潰す。日本宗教史上稀にみる醜いやり方である。細部にわたって公望は指示したとされ、1940年死去する。
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