『「南京事件」を調査せよ』(清水潔)を読む
(1)
そこには論争がある。それは始まりなのだが、そんな生やさしものではなく、そこでは発言に対する陰に陽に働く妨害があって、やがてそれはタブーのようにされる。かつてなら天皇や天皇制についての論議がそうであった。こうした事情は現在でも幾分かは残っているのであるがそれはだいぶ薄らいでいる。それに対して「南京事件」(南京虐殺事件)や「従軍慰安婦」のことはタブーとは言わないが、それに近い扱いを受ける。これはこの二つが戦争(満州事変から太平洋戦争いたる15年戦争)を象徴するものであるからといえる。
『「南京事件」を調査せよ』は戦後70周年企画としてあった77年前の事件の報道ドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(2015年)を基にした作品だ。この制作を担当した記者が著作としてまとめ上げたものである。この番組について最近、産経新聞が<虐殺批判の写真に裏付けなし>と批判し、これに対して日本テレビがこの写真を虐殺写真として扱ってはいないと反論している。同時にこうした報道番組の一部をとりあげて全体の批判をやる手口(手法)を批判している。こういう手口についてはこの本の中でも「一点突破全面展開」方式として批判している。つまり、些細な事実の誤認や曖昧さを持って、全体を否定でするやり方であり、「南京事件」や「従軍慰安婦」などについて批判的な面々の常套手段といえる。
この本を目にしながら久しぶりに『南京の真実』も読んだ。これは1937年の南京事件が起きた時、「南京安全区国際委員会」の代表を務めたドイツ人のジョン・ラーベの日記である。こちらは1997年に日本での翻訳本が出ている。外からの、当時の現場に居合わせて人の記録とし、日本の「南京事件」をめぐる論争に寄与するものと期待された。そしてラーベを主人公とする映画として『南京の真実』がつくられた。これは日本ではなかなか上映がしにくいものとしてある。上映するにはすくなくはない妨害があるのだ。『南京の真実』が日本に紹介されたころ、これに対抗するかのような水島総(桜チャンネル代表)監督の『南京の真実』と題されて映画がつくられた。水島総は保守というよりは右翼という人物だが、映画は三部作予定の一部だけしかできていない。この一部が出来た記念講演会で僕は西尾幹二や西部暹等と論戦を交わした記憶がある。
いづれにしても、『南京事件』(虐殺事件)や慰安婦問題については日本ではそれに触れることは批判というよりは排除に近い扱いをされる。昨今の表現の規制とその抑圧の動きの源泉を形成してきたように思う。嫌な感じという思いをすることは多くなる時代だが、この本はそれに対する一陣の風のごときものだ。
(2)
僕は残念ながら報道ドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」は見ていない。だからこの本しか知らないのだが、この本はどういう経過から生まれたにせよ独立した本(作品)である。そういうものとして読むことができる。この本は五章に終章が加えられてあるが、第二章の陣中日記、第三章の揚子江の惨劇が中心になっている。『南京の真実』では南京安全区国際委員会の結成(1937年11月19日~12月11日)と日本軍入城/残虐行為のはじまり(12月12日~12月30日)が対応する。要するに南京事件は1937年の12月を中心とした日々の出来事であった。
1937年は盧溝橋で日本軍と中国軍が軍事的衝突を引き起こし、いわゆる日中戦争が勃発した年であった。衝突は7月7日のことであった。これは日中のどちらが仕掛けたについては諸説あるが、その後の中国大陸での全面的な戦争になっていく端緒をなすものであった。1931年の満州事変以来、日本の中国大陸での戦争は続いていたのであるが、これは中国大陸での全面戦争にいたる端緒をなすものであった。そしてこれは紛れもない戦争ではあったが、事変と称された。
「次の疑問は、<事変>という言葉の謎だった。思えば不気味な日本語だ。調べてみれば事変とは、宣戦布告なしで行う国家間の武力行使をいうらしい。一つ一つ調べていかないと理解を誤る。国際連盟が創設され、1928年には<不戦条約>が定まり、日本も署名をしていた。初めて戦争が<違法>とされたのである。そこで<事変><事件>と呼ぶことで<戦争ではない>としたのだ。」(『「南京事件」を調査せよ』・清水潔)
日本は中国での軍事衝突や武力行使を戦争と呼ばずに事変と称してきた。満州事変、上海事変、支那事変などであるが、これは日本が戦争として宣言することで生じる国際的義務や非難を免れたいためであった、とみなされる。このためにこの事態を戦争として認識することを避けてきたことが問題である。この問題を解決するために、鶴見俊輔は15年戦争という概念(考え)を提示したのであるし、このことは十二分に考慮さるべきことである。これらを事変とする考えは中国大陸での日本の戦争を侵略戦争ではないとする考えと連なっている。岸信介はそういう発言をやっていたが、『支那事変は日本の侵略戦争ではない』(鈴木正男)などもその一例である。
ただ、中国大陸での戦争が従来の国家間の戦争と異なっていた面も存在する。第一次世界大戦中のシベリア出兵(1918年8月)はその後の中国大陸での戦争の起源のような位置を持つが、その戦争形態は類似していた。「緒戦では大勝するものの、次の段階では広大な空間を舞台に,神出鬼没の非正規軍の襲撃に悩まされる。さらに、敵とつながっていると見なした現地の住民を敵視して、討伐し、結果的に四方を敵に回した兵士たちも疲弊して行く。そのようなシベリア出兵の展開も、1937年から45年まで長引いた日中戦争と似通っていた」(『シベリア出兵』麻田雅文)
事変と称したこの盧溝橋での日中の軍事衝突は上海に南京にと拡大して行く。日本は中国との戦争を本格化するとは考えずに支那軍の暴戻を膺懲し、南京政府の反省を促すとした。この膺懲は現在では聞きなれない言葉だが、相手を軽く見ているということでもあった。その背景には民族的な意識の高まり(中国の抵抗の基盤)を日本政府や軍が見抜けなかったこともあるが、これは上海が、そして南京が陥落すれば南京政府(蒋介石の国民党政府)は降伏するという政治判断にも結びついていた。上海での中国軍の抵抗は手ごわいものであり、旧来の日本軍の認識を大きく変えるものでもあった。これは国民党軍の背後にいたドイツ人軍事顧問団の力が大きかったである。中国大陸では国民党と共産党の対立があり、共産党は瑞金(江西省瑞金)に中華ソビエト共和国を作った(1931年)が、これを消滅(1934年)に追いやり長征に追い込む力を発揮した。上海での中国軍の抵抗に遭遇し、これまで経験したことがなかったことだけに、日本の軍や兵士は中国軍に恐怖感を持ったと言われる。これは後に展開される虐殺にも深く関係したといわれる。日本の陸軍は世界一強い軍隊という自負は兵士たちにまで浸透していたが、それに疑念をいだかせる抵抗が示されたのである。
南京には国民革命軍の最高司令官・蒋介石も在住し、「南京政府」が置かれていた。大本営が南京攻略の命令を発するのは1937年の12月1日であるが、現地軍はそれより早いスピードで南京に迫り、12月13日には日本軍は城内に攻め入り、陥落させた。「南京陥落―。各部隊は城内及び城外周辺に残っていた中国兵の掃討作戦を実施した。この前後に起きた、捕虜や民間人の虐殺、強姦、放火や略奪などを総称しているのが<南京事件>ということになる。現場は南京城内や中心部だけではない。南京周辺の広範囲の地域で起こったとされていた。時期も6週間から数カ月という期間だ」(『「南京事件」を調査せよ』、清水潔)
この南京事件の実態を著者はこれに参加して兵士の陣中日記を裏付けていく作業を行う。それは調査であるが、それによる事件の再現である。この山場は12月16日と12月17日の事件であり、三章の「揚子江の惨劇」に収められている。これは陣中日記(この事件に参加した兵士の証言)による事件の再現は読んでもらえば、誰しも納得するものである。この南京事件には多くのジャーナリストも参加していた。そのなかでも日本のジャーナリストは強い報道管制の下で事実の真実の書ける状態になかったことは明瞭である。敗戦前に日本軍は証拠として残るものは焼却した。これは従軍慰安婦のことと重なるが、戦犯に問われる事態も想定しての記録や文書類は消されたのであるから、これを僕らは現在の感覚で判断してはならない。戦前―戦中は事件の実態は伏せられ、隠されていたのであって、戦後になってこれらは明るみにされたのである。
(3)
この「南京事件」のころ、国際的なジャーナリストは南京に滞在しており、海外の新聞は虐殺を報じた。ただ、虐殺の現場には彼らは立ち入ることができなかったわけだから、その報道には制約もあったと言わざるをえないが、それでもジョン・ラーベの日記はそれらの中で残された貴重な資料といえる。彼は日本軍が南京に迫りくる中で、南京安全区国際委員会を結成し、その代表となった。南京の住民の安全のための避難区域を作った。彼はこの安全区が非武装地帯であれば、例え捕虜となっても処刑などはしないだろう、と思っていた。日本軍は捕虜の扱いに関する国際的ルールくらいは守るだろうと考えられていた。それは見事に裏切られたのが実状だった。「早くの悲惨な情報が次々に寄せられる。登録のとき、健康で屈強な男たちが大勢より分けられたのだ。いく先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。兵隊用の大掛かりな売春宿を作ろうというのだ」(『南京の真実』ジョン・ラーベ。12月25日)。
12月25日と言えば南京陥落とその前後からは大分時間も経っているが、まだこの有様である。安全区に収容されていた人々から、日本軍は兵士と思しき男たちを選別し、処刑なども行っていたのだと推察されている。
本書では南京事件を調査し、それを再現しながら、何故、これを否定するのだろうか、という疑問が提起されている。これは従軍慰安婦問題にも言えることだが、事実として「南京事件」が明瞭になっても、明瞭になればなるほど、それを否定する人が出てくる。南京事件は虐殺されたとされる人々の数に誇張があるということからはじまったのだが、いつのまにかそれは「南京事件」はなかったというところまで行きつく。これは何故かという問いが出てくるが、恐らく虐殺という事実を認めたがらないのは、戦争の肯定が根にあるからである。逆に言えば虐殺や従軍慰安婦などが示す戦争の否定に抵抗があるのだ。こういう事件の評価は戦争の肯定と否定という問題を突き出す。と同時にそれを問う。
武田泰淳に『審判』という作品がある。この作品は中国での戦争で人を殺した人が、婚約者とも別れて中国に残るというものだが、この人は南京事件で虐殺を演じた兵の一人であってもおかしくはない。南京虐殺は日本軍の虐殺の象徴的なものだったといえるからだ。武田泰淳の描いた元兵士の存在とありようは、その根源で戦争への深い問いかけがある。この種の本は僕らをいつもそこに立ち戻らせる。
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