大嘗祭発言と政教分離 (半藤一利、原武史、山折哲雄)、2018年12月朝日転載
宗教色の強い大嘗祭(だいじょうさい)は皇室の私費で――。来春には「皇嗣(こうし)」となる秋篠宮さまの発言が波紋を広げている。「政教分離」をどう考えるべきか。皇族の発言の自由はどこまでなのか。
■前例を踏襲、怠った議論 半藤一利さん(作家)
今回の秋篠宮さまの「大嘗祭については、皇室の行事としログイン前の続きて行われるもので、ある意味での宗教色の強いもの」であって、「国費で賄うのではなく、(皇室の私費に当たる)内廷(ないてい)会計で」「身の丈に合った儀式に」とおっしゃったことは、極めて真っ当なお話をされたと思います。
かつて私が小学生の頃、天皇がその年にとれた新米を伊勢神宮に奉る神嘗祭(かんなめさい)が国の祭日としてあり、やはり新穀を神々に供えられる新嘗祭(にいなめさい)がありました。学校に行って紅白のもちをもらって国民みんなでお祝いしていました。
どちらの祭りも、明治政府が国家統一、国民統合の手段として、皇室の行事を国民全体の行事にしたわけです。
それが、戦後、国民の行事ではなくなり、新嘗祭の11月23日は勤労感謝の日になって、なんだかわけがわからなくなりました。
したがって、天皇が代わられたとき初めて行う新嘗祭、つまり大嘗祭も、皇室の行事になったわけです。
しかし、前回の即位の際に22億円もの国費を投じて大嘗祭を行ったのは、お金もかけすぎですし筋違いで、身の丈に合わせるとおっしゃるのも誠にその通りだと思います。
にもかかわらず、私たちは議論することを怠りました。生前退位が天皇陛下から投げかけられた時点で、政府やマスコミ、国民も、前例踏襲でいいだろう、とまともに議論せず、時間を空費してしまいました。
その上での秋篠宮さまのご発言でしたから、私は本当に虚を突かれた思いでした。よくよくお考え抜いた末のご発言だと思います。会見の模様を見る限り、何か用意した紙を読み上げるのではなく、しっかりとご自分の言葉としておっしゃられたようです。
憲法4条で、天皇は国政に関する権能を有しないとあります。ご発言がこの点に抵触しないかという指摘があるかもしれませんが、現時点では容認されてしかるべし、と考えます。憲法が規制するのは天皇ご本人と皇太子までで、現在の秋篠宮さまのお立場までは規制の外側と考えるからです。これが皇位継承順位第1位の皇嗣となられれば、内側とみるべきでしょう。
生前退位や女性皇族の問題などに十分対応していない現在の皇室典範を見直そうとしない、戦後の人間天皇を戦前の現人神(あらひとがみ)に戻したいと考える人たちからすれば、誠に困った発言ということでしょう。
しかし、即位の際に「日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し」と言われた陛下の思いを次代の方々は継承していかれる。皇室内の宗教的行事を国費で賄うようななし崩し的な変質の方が、「よほど皇統の安定的継承を損なうもの」と考えたメッセージと、私たちは受け止めるべきではないでしょうか。
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はんどうかずとし 1930年生まれ。「文芸春秋」編集長などを務める。「日本のいちばん長い日」などの昭和史関連の著書多数。
■「平成流」継承、強い意識 原武史さん(放送大学教授)
秋篠宮は、大嘗祭は宮中祭祀(さいし)の一つであり、毎年行われる新嘗祭の延長線上にあると捉えているのでしょう。皇室の公費である宮廷費ではなく、天皇家の「私費」にあたる内廷会計で賄うことで、皇室の私的な行事であることをはっきりさせたいのではないか。大嘗宮(だいじょうきゅう)をわざわざ建てなくても、新嘗祭同様、宮中三殿に付属する神嘉殿(しんかでん)で行えば、内廷会計から賄うことは十分に可能になります。
これまで大嘗祭の位置づけはあいまいでした。そのあいまいさが、様々な訴訟を招いてきた。大嘗祭を私的な領域に置くことで、問題を起こさないようにするのが秋篠宮の意図ではないか。政治的な問題になることを避けるために、あえて政治的な発言をしたと言えるかもしれません。
秋篠宮は、本来は天皇にならないはずだったのに、皇太子を経ずに皇位につく可能性がある。そのため、早くから天皇になることが決まっていた皇太子以上に、天皇になることを強く意識しているようにも見えます。公務について「その都度考えながら進める」「平成の時代にも行い方が変わった」と発言しているのは、それぞれの代にはそれぞれのやり方があるべきだという考えの表れでしょう。
注目すべきは、大嘗祭を「身の丈に合った形で行う」と言っていることです。明治以降の肥大化した天皇制は、かなりの部分が現在まで受け継がれています。現天皇は、葬儀や天皇陵のあり方を見直すなど、象徴天皇制に見合ったものに改めようとしてきました。秋篠宮はその方向性をさらに進めようとしているのではないでしょうか。
現天皇は、昭和天皇と比べても宮中祭祀に熱心です。それが秋篠宮に影響を与えている。東日本大震災後、天皇・皇后は被災地を熱心に回りましたが、秋篠宮夫妻もたびたび訪ねている。それぞれの代にはそれぞれのやり方があるとしながら、「平成流」を継承しようとする意識は皇太子よりも強いように見えます。
一方で、宮内庁に「話を聞く耳を持たない」と苦言を呈したことは、問題をはらんでいます。こうした発言の背景には、一昨年の天皇の「おことば」の前例が大きいと思います。宮内庁や官邸を媒介とせず、直接自分の考えを国民に語って、圧倒的に支持された。「おことば」以降、皇室と国民が直接つながるチャンネルが強まってしまった。
今回の秋篠宮も、明らかに国民を意識して発言しています。しかし、宮内庁批判を国民に発信することには、ある種の政治的意図があると言わざるをえません。皇室の政治的発言に対して、国民の受け止め方が非常に甘くなっている。そうした発言に対しては、メディアが真意を問い返してゆくべきだと思います。
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はらたけし 1962年生まれ。専門は日本政治思想史。明治学院大学名誉教授。著書に「昭和天皇」「皇后考」など。
■天皇制に近代化の試練 山折哲雄さん(宗教学者)
伝統ある天皇制が近代化の深まりに伴って新たな試練に立たされ、皇室サイドが対応を余儀なくされている。秋篠宮発言はそうした苦悩の現状を映したものに見えました。
大嘗祭は「身の丈に合った儀式」であるべきだという発言の奥には、国民に及ぼす様々な負担を軽減したいという思いも含まれているように感じられます。実は一昨年の天皇退位の「おことば」の中でも、「天皇の終焉(しゅうえん)」に伴う重い行事の負担を減らしたいとの意向が示されていました。
背景の一つには、国民の経済的負担を意識せずにはいられなくなった状況があるのでしょう。国民主権と民主主義が根付いた社会では、「国民に受け入れられる皇室」でない限り、天皇制は安定的に存続しえない。憲法も皇室典範も、主権者が変えようと思えば変えられるからです。
近代的な民主社会で伝統的な王室をどう安定的に機能させるかという試みは、世界各地で進められています。
日本では平成期に、象徴天皇制と戦後民主主義の関係が調和に向かったと私は見ます。ただ、平成は皇室の危機が深まる時代でもありました。近代化がより深く社会に浸透し、個人を大事にする意識が広まったことで、近代的な価値と皇室の伝統との間の緊張が強まったのです。その表れが、皇太子ご一家に対して世論の一部から冷ややかな視線が送られた現象です。
皇室とは、公的な「象徴家族」としての性格と、私的な「近代家族」の性格を併せ持つ存在です。血統に基づき宮中祭祀の役割を受け継いでいく前者の面と、個人として自らの考えで家族や人生を形作っていく後者の面です。
冷ややかな声が上がったのは、皇太子ご夫妻の言動に近代家族への傾斜を感じ取ったからでしょう。5年前に私が雑誌で「皇太子退位」を提案したのは、このままでは国民と皇室の関係に危機が訪れ、ご一家のためにもならないと考えたからです。皇室の「公と私」は、今後も問い直され続ける可能性があります。
象徴天皇制の特徴は、「権威」としての天皇と、政治の実権を持つ「権力」とが併存する二元構造にあるでしょう。天皇は権力を持たず、権力側は皇室の権威に触れることをタブー視する、相互補完・相互牽制(けんせい)的な関係です。
安定的に見えるこの構造ですが、扱いを間違えれば不安定化しかねません。たとえば今回、大嘗祭を「宗教色が強い」ものとみなす発言が皇室内部から出てきました。近代社会では政教分離の原則が重視されますが、天皇の権威を支える要素の一つは、まさに「宗教的なカリスマ性」なのではないでしょうか。
近代と伝統をどうすれば両立させられるのか。主権者の議論が求められています。
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やまおりてつお 1931年生まれ。2013年、雑誌「新潮45」3月号に「皇太子殿下、ご退位なさいませ」を寄稿し、話題に。
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