泥土世界を変えるもの
春を思わせるような明るい陽光が射すことがあり、空の青も力強さを増してきました。青い天界の下、ちぎれた雲が幾つもゆったりと流れていく様を見ていて飽きることがありません。すると行く雲の遥か上に小さな飛行機の陰影が現われ、直線を曳きながらその白い航跡によって青地を切り分けていきます。霊界物語第47巻には、「春と朝は 第一情態に於ける 天人が居る所の愛の善及び 証覚の境涯に対する 想念となるものぞ」と書かれた箇所があります(第13章「下層天国」の一部)。あゝ、ようやくこの北国にも第一情態の天人の想念が満ちてきたのだろうか、と思うのも束の間、千切れ雲を追い払うように暗雲が急速に立ち込め、天空を灰色に覆い、激しい雨を落とし始めます。悠々と空を舞っていた鳥の群れがベランダに降りてきて、羽毛の水しずくを払いながら、不思議そうに空の急変を眺めています。この季節、冬は最後の爪痕を残そうと足掻いている、そんな風に感じられます。
霊界物語第47巻には、王仁三郎聖師の重要な教説が多々記されており、私にとってとりわけ読み応えのある内容を擁しています。例えば第21章「跋文」には、「相応の理の何たるかを知らずしては、霊界に就いて明白なる知識を有するを得ない。斯く霊界の事物に無智なる人間は、又霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることはできない。……故に今何をか相応と云ひ、如何なるものを相応と為すかを説く必要があると思ふ」と記され、相応の理が説かれています。何事たりとも自然界の存在はその源泉を霊界に取り、自然界が存在し永続する所以は霊界による。人間も自然界の一現象であってみれば、その人間存在総体の源泉を霊界に有することを悟らねばならない旨が説かれています。そしてこの原理を敷衍し、「霊界は諸々の相応に由って自然界と和合する故に、人は諸々の相応によって天界と交通することを得るものである。」とされています。ここは非常に重要な点であるでしょう。
天人と互いに相交わり相語り、天界と世間との和合が成し遂げられた黄金時代がありましたが、次第に天人と人間との相応的和合が希薄化し、時代は白銀時代、赤銅時代、国鉄時代と悪化し、ついには現今の世界は泥土世界へと堕落し、「善も信も其影を没して了った暗黒無明の地獄」になってしまったとされています。(ちなみにイスラム教においても現今の世界を無明時代(ジャヒリーヤ)と呼んでいます。)確かにテロを始めとする様々な不吉で凄惨な出来事が発生する現今の世界は、泥土世界と形容せざるを得ないだろうと思います。相応の理に基づけば、現代の我々人間が霊界に源泉を有することにあまりに無智になってしまったことに無明時代を招いた原因があるのでしょう。人の源であって人を超えた超越的な何かーかつて神学者のルドルフ・オットーがヌーメン(聖なるもの)と呼んだもの、絶対的な「善」であり「真」とも言い換えられるでしょうーとの意識の和合こそが必要なのではないか。つまり「善のために善を励み、真のために真を光 ( てら )す」(「跋文」最終行)ことが、泥土から抜け出る一つの道ではないかと思います。
第47巻は桔梗で厳格な文章(硬の文章)によって重要な教説が数多く記されていますが、登場人物達の旅の道中の会話(軟の文章)においても非常に示唆に富む事柄が提示されています。軟の文章を基調とし、その中に硬が絶妙に配置され、硬軟両面から重要事項を示すスタイルになっています。
軟の文章に成程と頷きたくなる箇所が多々出てきますが、例えば第6章「美人草」と第11章「手苦駄女」は女性についての問答が書かれています。第6章ではコー、ワク、エムの三様の女性観が開陳されますが、そのいずれが絶対的に正しいとは判断できませんし、結論は明示されず宙づりになっています。また11章で八衢 ( やちまた )での叶枝という芸者への守衛による尋問は、あくまで男性的権威あるいは男性的通念が女性を弾劾する場面とも言え、叶枝を支持したくなります。コー、ワク、エム、叶枝の吐露はいずれも王仁三郎聖師の複眼的な女性観であるのでしょう。王仁三郎聖師は女性を高く評価し、強く憧れもし、自らに女性性を見出していた(変性女子)のだと想像します。
三月八日は国際女性の日(International Women’s Day)と定められていますが、この設定は1910年にまで遡るようです。趣旨は女性の社会における権利の確保と拡張です。この日、ブラッセルでもEUが「女性と新・人道問題」と題するパネルディスカッションを開き、国連(ニューヨーク)や地元ブラッセルの欧州委員会、またシリアで活動するNGOの女性達がパネリストとして登壇します(パネルディスカッションは、数名のパネリストと呼ばれる有識者が舞台に横並びに座り、司会者の問題提議や質問にコメントを述べ、フロア<聴衆>の質問にも答えるという形式で進められます)。東京から同僚の女性に来てもらい、パネリストとして登壇してもらいます。日本では、こうした国際会合に臆することなく登壇できるのは女性が多く、男性は極めて少ないと思います(外国語の壁が理由の一つでしょう)。日本の男性(もちろん私も含め)はこの点から見ても女性より劣っていると言わざるを得ません。こうした状況を挽回しないといけないとの危機感から、小学校から英会話の授業を始めるべきだとの議論が出てきます。そういう短絡的で愚かしい発想をするのも悲しい哉男性です。
シリアのような紛争国を始め、世界の至るところで益々深刻化する女性や子供といった社会的弱者への抑圧や人道的問題に対し何をすべきか、女性が果たす役割とリーダーシップは何かといった議論において、欧州の聴衆は非常に熱心です。その後、これに参加した幾人かの女性達と朝食ビュッフェを共にする機会がありましたが、西洋社会には自然にジェンダーというコンセプトが定着しているという感をあらためて強くしました。日本の社会も緩やかではありますが、女性の能力が十分に発揮されることが可能となる時代に向かっていく兆しはありますが、まだまだ男性原理が支配的であると思わざるを得ない局面を日常的に目にします。社会の様々なシステムにおいて女性の参画や上昇に対して目に見えない制限(ガラスの天井)は残っていますし、男性の無意識の中に女性を下に置く機制が働いています。王仁三郎聖師は100年前から女性が社会をリードする状況を願い、示唆的なビジョンを物語として提示していました。世界の多くの神話でも、亡国の瀬戸際に出現し、救国の大活動をするのは女性です。泥土時代から上昇するためには女性のリーダーシップが必要なのだと思います。これが泥土から抜け出るための二つ目の道となるのはないでしょうか。
フランスは国内経済不況、デモ隊の跳梁によりまさに亡国の瀬戸際にあると言っても過言ではありません。イタリアの前首相エンリコ・レッタは、マリーヌ・ル・ペンが大統領に当選すれば、それはEUの終わりを意味する、ゲーム・オーバーだ、と発言しました。彼女の当選はフランスにとって、欧州にとって、「終わり」をもたらすのでしょうか。フランスは神話ではなく、歴史上、国難の際には常に女性の英雄が現れてはフランスを救ってきました。ジャンヌ・ダルクはその一例です。国民戦線のマリーヌ・ル・ペンが救国のヒロインなのか。フランスのデモの長期化は見逃せません。
ブラッセルの空港と地下鉄を襲ったテロ事件から二年。市内の各所を見回る重装備の兵士が日常の風景の一部となり、そして人々の中にはそれでもテロ行為はまた必ず起こるという不安感<いや諦念と言うべきか>が定着するようになりました。しかし人々はそうした不安を表に出さず、過度な警戒はせず平然と過ごすことが良いのだと思っています。それが西洋社会をこれまでも難局から救ってきた奥深くにある力であるように私は感じます。
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