お坊さんを宣伝使に~大本神諭と霊界物語 梅園 浩先生 NO.➇

〇お坊さんを宣伝使に
 
 朝日新聞で以前に有吉佐和子さんが複合汚染という小説を書かれ、今、本が上下二冊になって出ていますが、その本の中に、奈良の五條市という町におる柳瀬さんというお医者さんのことが出ていました。
そのお医者さんというのは実に変わっていまして、病気を治そうと思ったら薬じゃ治らん、食べ物から変えんとならんと。今の日本人の食べ物は間違っているということで、無農薬栽培を自分の長男にさしているわけです。医者が、自分の息子を医者にせずに野菜を作らしている。食べ物から変えていかんと、今の日本人の病気は治らんという考え方に立っているお医者さんなんです。
有吉佐和子さんから言わしたら、現代の花岡清州だと評価しているお医者さんで、その方が大本の本部に見えたことがある。愛善会の方で招待された。柳瀬さんのそういう考え方を話してほしいという。  
講師として招いたんですが、その時、柳瀬さんがおっしゃったのが、自分としては初めて来たけれども、実は柳瀬家としては二度目なんです。自分の父親というのが禅宗のお坊さんで、大正年間に綾部に聖師様を訪ねたことがあるので、それからいって二回目なんだって言うんです。
その時のことを思い出話に話しておられたんです。自分の父親が聖師様のところに訪ねて行って、肝胆相照らすというような状況になったそうです。その話のあげくに聖師様が、柳瀬さんのお父さんへおっしゃったことの一つは、あなたを大本の宣伝使にしてあげようというんです。そのことに、柳瀬さんのお父さんは、とんでもないと言うんです。寺を持っているし真宗の坊主です。いまさら大本の宣伝使にしようじゃ困ると言うんです。だから、とんでもない、私は坊主ですから宣伝使は要りません。大本の宣伝使は要りませんと断ったというんです。そしたら、聖師様は大笑いして、まあなんとけつの穴の小さい男じゃのおと、こう言われたんだそうです。
それから、帰って柳瀬さんのお父さんが、息子さんに話しているわけです。綾部の大本の出口王仁三郎という男はなんとスケールの大きい人物だと。わしはこう言うて笑われたと。帰って話しておられたのを印象深く覚えておりますと話しておられます。
 
  〇今東光さんも
 
 聖師様は大風呂敷を広げて、坊さんが来れば大本の宣伝使にしてやると言い、今東光さんもそう言われたうちです。それから、キリスト教の牧師が来てもそれを言うわけです。大風呂敷だと人は思うんです。
ところが、聖師様から言えば、それは瑞の御霊の大神様の立場で言われれば、仏教の教えを正しく理解し伝えるお坊さんは、瑞の御霊から見れば、大本の宣伝使で、キリスト教でも同じことが言えるわけです。だから、聖師様の方から見たら、仏教とかキリスト教とかはないわけです。
瑞の御霊の教えに沿うておれば、全部、大本の信徒、宣伝使という感覚ですから、ずれてくるわけです。片一方はお寺を持っていて、大本の宣伝使になったら飯の食い上げだと考えてくるから、ずれてくるわけです。
私は大本の信仰をさせてもらうときに、この教えの性格というものを、単なる一教団の教え、あるいは、聖師様が発明された出口家の教えというふうに思うたら間違ってくると思うんです。
 
  〇我が家 ( いえ ) の教え
 
 これは非常に申し訳ない話になるんですが、今の三代様が、三代様というのはある意味で、非常に謙遜して言われたんだと思うんですけど、教主になられて、
 
わが家 ( いえ ) の教えを聞きていくたりの
人が幸せになりたるならん
 
歌を詠まれる方は、これは記憶にまだあると思うんですけど、教主様としては謙虚な気持ちで「わが家 ( いえ ) の」とおっしゃったと思うんです。
それを当時、おおもと誌でしたか、神の国誌でしたかその編集責任者。私たちの友だちで、昭和三十七年に榮二先生が総長を辞めさせられた段階で本部の奉仕を辞めて、今、地方に帰って役所勤めをしていますが、その人が編集をしておりました。
教主様が謙虚な気持ちでおっしゃっているんだろうけれども、少なくとも大本の教えを「我が家の教え」と言われたんでは、これは心外である。大本の教えは、出口家が発明した専売特許の教えではない。天地開闢の初めから、生き、そして、その教えの中で宇宙が発展していった。そういう根本の道理を教えているのが大本の教えなんだ。出口家開発の教えではないんだと。
だから我が家の教えと言うてもろうては困るということで、歌を勝手に自分で直したんです。編集者が。どういうふうに直したかと言ったら、「我が家の」というところをやめて、「大本の」としたのです。だから、当時のおおもと誌か、神の国の中には、
 
大本の教えを聞きていくたりの
人が幸せになりたるならん
 
という形で発表した。そこには、やはり、編集者としての大本の信仰に対する一つの誇りと自信とがある。それで、教主様の歌さえ審神 ( さにわ ) して添削しちゃった。それはけしからんということになるわけですが、そこには、やっぱり、大事なものがあると思うんです。
教主様がおっしゃったから全部そのとおりせなならんというふうにやっていくと、間違うことがあるんです。謙虚のあまり歌をそうされたものが大本の教えを小さくしてしまう。世間の人たちは、大本教の発明した教えか、王仁さんが発明した教えかということになってしまう。聖師様は全然違う考えです。大本の教えというのは、天授の真理そのものなんだという自覚が信者になかったら、道を誤ると思うんです。
  
〇お筆先と大本神諭
 
 そういういわゆる天授の真理としてのものが、大本神諭と霊界物語という形で出てきておるわけで、大本神諭というのは、これは、開祖様が書かれた筆先、これを聖師様が取捨選択、案配されて、まとめられて、大正六年から発表されたのが大本神諭です。お筆先というのは、開祖様が明治二十五年というけれども、明治二十五年は書いておられません。あれは、しゃべっておられるだけです。筆先を書かれたのは、座敷牢で釘で書かれたのが最初で、これは明治二十六年です。お筆先というのは明治二十六年から始まっとるわけですが、それから大正七年までに書かれた筆先を聖師様が取捨選択、整理されて、大正六年から神霊界に発表されています。それがいわゆる大本神諭です。大本神諭と筆先は違うんです。
 それがちょこちょこ、こんがらがっている人があります。おおもと誌でしたか、愛善苑誌でしたか、教主の年頭所感の中に、お筆先の神諭という、なんかややこしい表現があった。これは神諭と筆先のけじめがついていないから、おそらく教主様はわかっておられるだろうけれども、それを原稿を作った人が混乱しているじゃないかと思います。神諭のお筆先だとか、お筆先の神諭だとかややこしいことが書いてある。これは全然間違いのもとです。
 〇大本神諭と霊界物語
 
 大本で基本教典と言ったときにはお筆先は入らない。聖師様が取捨選択、整理して発表された大本神諭とそれから聖師様によって口述発表された霊界物語、これが大本の基本教典なんです。お筆先は教典ではないということです。まして、今の教主様の著書、日出麿先生の著書が現代の教典だということは、非常に大きな間違いのもとなんです。ある時には、皆さんも聞かれたこともあると思うんですが、聖師様の時代には聖師様の霊界物語が教典だけど、三代教主時代になると、三代様の心の帖とか、私の手帳とか、日出麿先生の信仰覚書が現代の教典だということを本部の道場講座でも言っている人がおるわけです。
 そんなことはいかんというのが、いづとみづの立場です。大本の教えというのは厳瑞二霊の教え、具体的に言えば、霊界物語と大本神諭というわけです。しかも、霊界物語の中には、実は大本神諭がはまり込んでいるわけです。第六十巻なんか見ると大本神諭が、もう霊界物語の中にありますから、霊界物語こそが大本の教えを集大成され、完成された教典なんです。だから、二つに分ければ大本神諭と霊界物語ですが、これは一つにすれば霊界物語になるわけなんです。これは正しく認識する必要があると思います。
 大本教法の第七章に「大本は、二大教祖によって伝達啓示せられた経緯の神諭、並びに霊界物語にもとづき、教主の裁定発表されたものを教典とする」とあって、経緯 ( たてよこ ) の神諭と書いてありますが、経 ( たて ) というのは、開祖様によって書かれたものを聖師様が発表されたものが経 ( たて ) の神諭。また、開祖様ご健在のときに、聖師様が書かれた神諭もあるんです。それが緯 ( よこ ) の神諭。開祖様がご昇天になった大正七年から大正九年に書かれた神諭がありますが、それは伊都能売の神諭と言っているんです。単なる緯 ( よこ ) の神諭ではなくて、経緯 ( たてよこ ) 合わせて伊都能売の神諭と言われるものが、大正七年から大正九年にかけて、聖師様が書かれたものがあります。そして、霊界物語は大正十年の秋から口述されています。

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