聖師の御神格を隠して来た歴史 ( NO.1 ) 藤井 盛

   昭和20年12月8日 綾部にて事件解決報告祭 ~聖師は沈黙~


聖師の御神格を隠して来た歴史
~「みろく下生」百年目の完全な霊界物語~
        〔平31・4・27 藤井 盛〕
 
「聖師を救世主とは言わない」という約束が、戦後、昭和二十一年の愛善苑発足時にあったことを教学委員であった土井靖都氏が書き残しておられる。
 万教同根、人類愛善を旗印に再出発した大本であるが、その後の歩みは不可解なところが多い。しかし、「聖師を救世主とは言わない」という約束、つまり「聖師の御神格を隠す約束」をキーワードにたどっていくと、戦後の不可解な大本の歴史をよく理解することができる。
 
 「昭和二十一年愛善苑として立ちあがりし当時より、聖師御昇天の時までは、救世主と云う事も申すなと云う事であり」
    〔昭和二十九年十一月六日「総長御宣述に対する疑義」教学委員 土井靖都〕
  
〇事件解決奉告祭「挨拶」の不可解さ
 
「約束は愛善苑立ち上がりから」とあるが、愛善苑発足前年の昭和二十年十二月に行われた大本第二次事件解決奉告祭での出口伊佐男氏の挨拶に、すでに「聖師を救世主と言わない約束」が反映されていると見る方が、挨拶の不可解さに納得がいく。
その挨拶文が愛善苑の機関誌「愛善苑」創刊号に掲載されている。まず不可解なのは「事件の非は我々にあった」(※1)と言っていることである。奉告祭以前の九月八日の大審院の判決で、大本は治安維持法が無罪となり「事件の非は弾圧側当局にあった」と判断されているにもかかわらずである。さらに不可解なのは、当局の拷問により十六名にも及ぶ多数の獄中死やその関連死の方々がいるのに、これを悼む言葉が全くないことである。帰幽された方々について「事件中すでに亡くなられ」(※2)との表現があるが、獄中死の方々もこの中に含まれざるを得ず、ずいぶん思いやりのないことである。
また、もっと不可解なのが、聖地を不法に破却、処分した当局(※3)に対して「御理解と絶大なる御好意で、無条件に返還していただいた」と丁寧に礼を述べている(※4)ことである。
 (※1:事件の非は我々にあり)
私どもの不注意の為に事件が起き」「私どもに注意の足りなかつた所があった」「弾圧に対し当局を恨む気持は毛頭無い」「他を責めるよりも深く自らを省みなければならぬ」
(※2:獄中死には触れず)
「十年間の事件中すでに亡くなられ今日この喜びをともに迎へることの出来なかった関係の人々たち、その他多くの祖霊様をお慰め申したい」
(※3)詳細:大本七十年史下巻四三二~四四八頁〕
(※4:警察と町へのお礼)
「樋ノ本綾部警察署長さん等の御尽力と赤見坂町長さんら‥の御理解と絶大なる御好意により‥綾部神苑‥無条件返還して頂く」                 
〔出口伊佐男氏挨拶・「愛善苑」創刊号〕
これらは、当局に対する明らかな「へつらい」と見るべきである。治安維持法が晴れて無罪となったのであるから「非は当局にあった」と言い、また、聖師が救世主であることを堂々と述べればいいはずである。ところが、挨拶には救世主の「救」の字もない。しかも「事件の非が我々にあった」ということは、結局「救世主たる聖師に非があった」ということになってしまう。
しかし、この奉告祭の段階において、すでに「聖師を救世主とは言わない」という約束があり、加えて、当局に対して、どうしてもへりくだらざるを得ない「何らかの理由」があったとすれば、こういう「へつらった」挨拶も理解できない訳でもない。なぜ聖師の神格を隠し、なぜこうも「へつらう」必要があったのだろうか。
 
 〇事件解決奉告祭での聖師の沈黙
 
また、特徴的であるのが、奉告祭で聖師が終始沈黙されていたことである。聖師は天津祝詞の先達をされただけで挨拶はされず、伊佐男氏の挨拶が終わると、黙ってお辞儀をされただけである。また、伊佐男氏が挨拶をされることを告げられたのも二代様である。
 
「出口先生は起上つて、黙つてたゞお辞儀をせられた」        〔「愛善苑」創刊号一五頁〕
なお、奉告祭当日、朝から聖師が言葉少なであったことを、山水荘で面会をされた当時十五歳の牧野八郎氏も覚えておられる。
ところで、この事件奉告祭以前にも聖師の沈黙が二回あるという(※5)。一回目は、大正五年九月、神島で聖師がみろく様の御魂(みたま)であるとの神示が出た時で、聖師は綾部出発より四日間沈黙されている。また二回目は、昭和七年四月、出口日出麿先生を立てて、聖師に引退を迫る大島豊氏らの動きがあった時で、聖師は十五時間沈黙され、春の大祭も欠席されている。
 
「未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が、五六七様の御霊で」
〔大本神諭大正五年旧九月九日〕
東京の大島豊氏とひ来たり色々話してゆきにけるなか    〔壬申日記 昭和七年四月十二日〕
 
聖師の二回のいずれの沈黙も、聖師の御神格に関わる中でのことである。「私の神格を悟れ」との沈黙であったのか。さて、奉告祭での聖師の沈黙を我々はどう受け止めればいいのだろうか。
 
(※5)出口三平氏(平二八・九・一一 東方弥勒主会勉強会「沈黙から再現する神」) 
 
しかし、その後の聖師はけっして沈黙のままではない。聖師は報告祭を終えるとすぐの十二月十日、鳥取吉岡温泉へ立たれ、「軍備撤廃により平和が来る」との強いメッセージを「吉岡発言」(※6)として、新聞を通じて社会に発しておられる。
これは、有形無形の障壁の撤廃という霊界物語の教え(※7)そのままのことであり、また、戦後愛善苑出発の旗印「万教同根」「人類愛善」は、その教えの具現化と言えるのではないか。
〔朝日新聞 昭和二十年十二月三十日〕
 
(※7:霊界物語 障壁の撤廃)
「先づ第一に神の子神の生宮たる吾々は、世界にあらゆる有形無形この二つの大なる障壁を取り除かねばなりませぬ。有形的障害の最大なるものは対外的戦備《警察的武備は別》と国家的領土の閉鎖とであります。又無形の障壁の最大なるものとは、即ち国民及び人種間の敵愾心だと思ひます。又宗教団と宗教団との間の敵愾心だと思ひます」      〔第六十四巻上第五章「至聖団」〕
 
〇当局に憤る聖師・事件回顧歌集「朝嵐」
 
 一方、聖師は、昭和十七年八月に未決を出られてから、当局に対する憤りに満ちた短歌を多く詠まれている。歌集「朝嵐」の事件回顧歌は千六百首にも及び、当局へへつらう伊佐男氏の態度とは真反対である。
事件の違法や当局の聖地売払いの無道などを、聖師は強く非難し、また、拷問による獄中死や関連死の信者十六名を、心から悼んでおられる。
信者一人ひとりの死を丁寧に詠み、あたかもそれぞれの傍らにおられたかのようである。いやきっと、聖師はそれぞれの信者の御魂(みたま)の傍らにおられ、昇天後の行き先に光を照らしておられたに違いない。
 
〔事件の違法〕
リンゴ三個神饌物を頂戴し治安維持法と強いられし月(1312) 
・後の世の笑話の種となりぬべし大根芋の無法の公訴は(1325)
  ・芋坊主五十万円投げ出してデッチ上げたる芋大根事件(1376)   …芋坊主:東本願寺
 
〔聖地売払いの無道〕
・両聖地を安価で町に売払へと黒犬牙を光らせ迫りぬ(1327) 
・解決の付かぬうちより毛物等は月座を破り無道を極めぬ(1389)
             
〔信者の獄中死〕
・元気なりし岩田は敢えなく身失せけり無法の攻苦に逢ひたる果てを(1305) 
・中立売署酷の荒びに堪え切れず首締め上天したる栗原(1301)
・種々の難題と強き拷問に身体いため死したる高木氏(1309) 
・悔やみても返らぬ事とは思へども余りの無法に書き留めおくなり(1306) 
長髪を曳き摺りまはしさいなみしいたさに堪へず短髪となり(1290)
〔事件回顧歌集「朝嵐」〕:( )は歌集でふられた番号

昭和17年8月7日 出所直後 (左から伊佐男氏、聖師、二代澄子)

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