霊界物語 応対盗人(おうたいぬすびと ) PARTⅡ
○霊界物語は善悪の標準
水鏡に「最後の審判は…天国に入りうるものと、地獄に陥落するものとの標準を示されること…標準とは…霊界物語によって示されつつある神示そのもの」とあるように、霊界物語が善悪の標準を示すということである。
今回、具体例をもって、物語が善悪を示しているが、社会の仕組みの中では、たとえ合法であっても、また、いかに世間の人々が賞讃しようとも、神様の目から見れば悪の行為であるということである。
高田のような「応対盗人」が、現在も社会のどこかで、本人も気づかないまま盗みをはたらいているかもしれない。それはまた、自分自身かもしれない。
善悪の判断は、常に我々に求められることである。神様に祈り、また、しっかり物語を拝読し学ぶことから、善悪についての神様のご内流をいただけるものと信じる。
○どうしたら天国へ行けるか
聖師が高熊山修業で、記憶に残る古人や現代の英雄豪傑、智者賢者と言われる人々の精霊に、霊界で会われ、
「彼等の総ては自愛と世間愛に在世中惑溺し、自尊心強く且神の存在を認めざりし者のみなれば、霊界に在りては実に弱き者、貧しき者、賤しき者として遇せられつつあつたのである」
(第五十巻 第一章「至善至悪」)
とあるように、「自愛や世間愛」、「神の存在を認めないこと」などが、天国に行くことを妨げ、逆に、次の竜公と治国別の会話にあるように、「神様の神格を理解」し、「神様の真愛を会得」するという信仰の基本が、天国につながるということになる。
「何うしたら天国へ行けるでせうかな」
「さうだ、心のドン底より、神さまの神格を理解し、神の真愛を会得し、愛の為に愛を行ひ、善の為に善を行ひ、真の為に真を行ふ真人間とならなくちや到底駄目だ」
(第四十七巻第十章「震士震商」)
○喜劇仕立て
明治・大正時代の著名な人物がモデルになり、世評とは真反対の悪行を
暴 ( あば )かれ、地獄へ落ちて行くストーリー自体は暗いが、悪次郎や慾野深蔵などの名前をはじめとする言葉遊びが多用され、また、「鬼に鉄棒 ( かなぼう ) 」が出てくるなど、全般的に喜劇仕立てのユーモラスを感じる。
それは、自らではあるが、地獄へ落ち行く人たちも神の子であり、改心し、神様の光を受け入れさえすれば救われるという安心感が、霊界物語の根底に常に流れているからだと思う。
〔大本島根本苑所蔵〕
〔参考文献〕
・山県有朋 明治日本の象徴 岡義武著(岩波新書)
・社会企業家の先駆者 渋沢栄一 島田昌和著(岩波新書)
・渋沢栄一 下 論語篇 鹿島茂著(文春文庫)
・銀行王 安田善次郎 陰徳を積む 北康利(新潮文庫)
・儲けすぎた男 小説・安田善次郎 渡辺房男著(文春文庫)
・金儲けの日本一上手かった男 安田善次郎の生き方 砂川幸雄著 (ブックマン社)
・名創業者に学ぶ人間学 十大財閥編 加来耕三著(ポプラ社)
・Wikipedia 原敬、山県有朋、渋沢栄一、安田善次郎、安田財閥、優先株式
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