神・人・ニヒリズム
9月になると、人々は2ヵ月に及ぶ夏の休暇から日常に戻り、商店やオフィスが開き、閑散としていた道路も混雑が始まる。暴力的でさえあった真夏の日差しは衰え、朝夕の気温は下がり、樹木の葉は茶色に変わり始め、地上に枯葉を落としています。季節の巡りは早いものです。時間は確実に過ぎ、その間に世の中のいろいろな事が変わっていきます。ふと自嘲気味に思うことがあります。世間が絶えず変化している一方で、自分という個人に良い意味での進化は乏しく、あたかも壁の目立たないところに
鋲止めされ外すことさえ億劫になってしまった古びた紙のようになっているのではないかと。壁紙と言えば、私の職場のデスクの横には、「It is kind of fun to do the impossible」(不可能なことをするのは楽しいことだ)と書かれた紙がいつからなのか貼られています。(前進を好むアングロサクソン的気質を感じさせるこの言葉はどうやらウオルト・デズニーのものらしい。)想像するに、昔この部屋に在籍したアングロサクソン系の誰かが、自分の内に変化を起こそうとして、何か新たな難しい事柄に挑戦しようと、デズニーの言葉を通してその決意めいた意思を表示したのでしょう。ノルマ達成を鼓舞する企業のスローガンのような偽物めいた威勢の良さは感じませんし、和らかい字体で書かれていることもあり、何となくユーモアを醸し出しています。人は上から強圧的に下されるメッセージにはそれが真理であればあるほど逆に反発を覚えますが、ユーモアの糖衣を被せればすんなりと飲み込む傾向があります。霊界物語が一種の滑稽譚のような文調で記述されているのはこのためでしょう。
時間は常に流れ、世の中は絶えず変化し、人々の考えや意識も変化します。EUは毎年春と秋の2回、EU加盟28ヵ国で各国1、000人を対象にした世論調査を行って、その結果を発表しています。この世論調査はEUが発足する前、1974年から実施されているのですが、現在EUはこの調査を基に人々の意識の変化に注意を向け、傾向をつかみ、EUの行政に生かそうとしているわけです。言い方を変えれば、EUという統合体を守るために、内部のほころびが生じていないか長年にわたって注意を払ってきたわけで、その柔らかでかつしたたかな管理主義に驚きを覚えます。米国ではトランプ政権が誕生、英国のEU離脱。ルーマニア・オランダ、ブルガリアで議会選挙、オーストリア・ハンガリー・フランスで大統領選挙、何とか親EU派が持ちこたえ、一方、欧州各国でテロが頻発しました(ベルリン、パリ、ストックホルム、ロンドン、マンチェスター等)。2017年春のEU域内の経済予測は、成長率が前年度同様の1,9%、失業率は全年度8,7%に対し8,0%とやや好転と見込まれました。これらが5月の世論調査の背景を成していました。
人々の最も大きな関心事項はテロリズムであり、全体の44%を占めました(昨年秋の32%より12%ポイント増加)。2位は移民で38%、3位は経済状況18%、4位はEU内財政17%、5位は失業15%となっています(関心項目を複数選択できるため合計は100%になりません)。5年前の2012年秋の調査結果では、最大関心事項が失業の48%、続いて経済状況37%、インフレ24%、政府債務17%であり、経済関係事項が大きな割合を占め、テロリズムはわずか2%に過ぎなかったのですが、この数年でテロリズムが市民社会の大きな懸念として浮上したこと、移民もテロリズムと関連する形で大きな関心事項になったことが数字として表れています。EUの移民政策に関して、支持が68%、反対が25%となり、約7割が支持しているのですが、南から上がって流入してくる移民に悩む東欧圏が(チェコ、ハンガリー、エストニア、ポーランド)は大きな反対(40%超)を示しました。
EUのイメージについて、この10年間の傾向を見ると、2006年春はポジティブ50%、ネガティブ15%だったのですが、ポジティブが緩やかに減り、ネガティブが緩やかに増加し、2017年春ではポジティブ40%、ネガティブ21%となっています(ニュートラルは常に30%台で推移)。しかしながらこの傾向は2013年あたりから改善し(2012年はポジティブ30%、ネガティブ29%)、ポジティブが上昇傾向にあります。EUの将来については、上記のイメージと同様の傾向があり、ここ10年で楽観が漸減、悲観が漸増となり、2007年春楽観69%、悲観24%に比し、2017年春楽観56%、悲観38%。ただし2013年あたりから回復傾向(楽観の増)にあります。
このように、テロに懸念しつつもEUについて肯定的な見方が高まっています。フランスのマクロン大統領の選出という結果が、その後に行われたこの世論調査に与えた影響は大きいのではないかと推測します。しかし既にマクロンの人気は下落しています(フランスには大統領就任3ヵ月後の支持率下落というジンクスがあるようです)。テロリストは欧州の外部から侵入するばかりではなく、欧州自身の中から発生しています。内なるテロリズムの蔓延に、欧州は戸惑い、その不安を隠すべく、無意識のうちに移民の問題へとすり替えているのではないか、と思います。テロリズムの根底にはニヒリズムが存在しています。ニヒリズムは「虚無主義」と訳されていますが、既存の価値や道徳律に価値を見出さない、そしてそれらに代替する何らの価値も持たない、そんな立場を指します。意味の体系を失った社会における空虚さ、という凡庸な事態よりも、頭をもたげてきたこのニヒリズムの深刻さは、虚無に魅惑を覚え、無に向かっていく、無に駆り立てる力のようなものにある、と思います。西欧社会の内部で表れてきたニヒリズム(虚無へ向かう力)は、イスラム過激主義とも共鳴しています。死(虚無)への欲望はフロイトの唱えた理論ですが、そのような力動が西欧社会において回帰的に姿を現しているように感じられます。ではそれはいかなる理由で胚胎されたのか、どのような形で解消されるのか、別の何かへと変容するのか。世論調査で表される表の意識の裏に潜むこの問題は、欧州社会にとって悩ましい問題だと思います。
欧州を一つの共同体として成り立たせている要素の一つは明らかにキリスト教です。強い信仰を持っている人の数はおそらくそれほど多くはないと思いますが、人々の意識や行動の中にキリスト教的規範は確実に根を張っています。欧州の街々が教会と教会前の広場を中心にしてそれを取り囲むように設計されていることにもよりますが、<神>の存在を否定しても必ず神は侵入し、個人が神を完全に忘失することはできないようです。日常で神の話をする人はいませんし、宗教や神の話はタブーです。政教分離(フランス語でライシテと言います)とは、政治や教育から宗教を切り離す立場を指しますが、しかしこの分離は欧州がいかに<神>と深く結びついてしまっているかを示しています(ライシテはもともとキリスト教と政治・教育の切り離しを狙ったものでしたが、最近はイスラム教の切り離しという文脈で使われています)。ニヒリズムの蔓延は、この神への懐疑が高まっている、そんな状況から生まれてきたのではないか、と考えます。神への懐疑が高まるうちに、イスラム原理主義が勢力を伸ばしてきたことは皮肉ですが、これは一体的な出来事です。
キリスト教の教義の要諦はイエスの磔刑の意味の中にこそあると言えます。イエスはユダヤ社会を支配していた律法主義と神殿主義の欺瞞を強く批判して〈神の国〉を説き、そのために律法主義者や神殿主義者の反感を買って、ローマの統治下にあった彼らの陰謀により処刑されました。イエスは神の聖霊を放って奇跡を起こし死者を甦らせ、町人を治癒したりして神の介入を証明していたにかかわらず、彼自身の死の運命に対して神は何ら介入をしてはくれませんでした。イエスは「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給ひし」と絶望の声を上げて死んでいきました。「わが神、わが神」と神への呼びかけを続ける死の間際にあったイエスに対し、彼のゲッセマネでの苦闘の祈りの時と同様、神からの答えや救いはありません。イエスの非業の死をどう解釈すればよいのか、それはキリスト教が成立し拡大していく上での重要なポイントであったと考えます。
当初はキリスト教徒を迫害し後に回心してキリスト教最大の伝道者となったパウロは、〈供犠〉のコンセプトを導入しました。供犠とはいけにえのことで、つまり人間が神に何かを与え、それに応えて神が人間にご利益を与えるという、人と神との関係です。『ローマの使徒への手紙』の中で彼は次のように記しています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」また「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。つまりイエスがいけにえとなり、ひきかえに神の恵みが人々に下ろされた、という説明です。ただしパウロの教義で重要なのは、通常いけにえの儀式では人が発動して神が応えるというプロセスですが、あくまで神の意志が先行して有り、神が望んでイエスをいけにえとし、人類の罪を贖わせたという説明になっている点です。あくまで発動するのは人類に対する神の意志、神の思いやりであり、人類は神といけにえになったイエスに感謝し、愛をもって両者に返礼しなければならないという教義なのです。
霊界物語第48巻第1章『聖言』で王仁三郎聖師は次にように教諭しています。「而して人間には一方に愛信の想念あると共に、一方には身体を発育し現実界に生き働くべき体慾がある。此体慾は所謂愛より来るのである。併し体に対する愛は之を自愛といふ。神より直接に来る所の愛は之を神愛といひ、神を愛し、万物を愛する、所謂普遍愛である。又自愛は自己を愛し、自己に必要なる社会的利益を愛するものであって、之を自利心といふのである。人間は肉体のある限り、自愛も亦必要欠くべからざるものであると共に、人はその本源に溯り、どこ迄も真の神愛に帰正しなくてはならぬのである。」〈どこ迄も真の神愛に帰正する〉ことは、人間は神に対して常に見返りを求めない返礼を続けるべきことを説くものですが、人間に求められた厳しい要請であろうと思います。
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