天皇制解体論
神武天皇は、少なくとも原型となる人物がいるでしょう。 何故なら天皇家があり、ある以上は初代の人物がいます。 それが何故架空の存在だとされたのか? 理由は日本の歴史学において、戦前は皇国史観が強制され、古事記や日本書紀に書かれたことは真実だと教えられます。戦後になると180度変換して今度は皇国史観の批判になり、否定する事が正しいとされました。 ハッキリ言って極端であり、今も昔も同レベルの発想でしかありません。 神武天皇が架空の存在だとすると、普通に考えれば、天皇家の始祖は天孫降臨で地上に降り立ったアメノオシホミミで良いじゃないかとなります。 でも神武天皇は曾孫です。神武天皇の拍付けに神(そのモデルの人物?)を使ったと見た方が自然です。 古事記も日本書紀も大いに誇張も嘘もあるでしょう。ですが全てが嘘だとしても、何故、そんな嘘を記録したかを考えるのが歴史学です。 神武天皇の年齢。127歳没。そんな訳がない。それはそう。 だったら、何故、そんな年齢にしたのか?答えは出なくても、いろんな仮説が出るのが真面目な歴史学ですが、現在の学会は左翼が主流で天皇家を貶める方に力を注ぐので、学会での研究は無理というのが実情です。
・17日、皇室典範の改正案が国会で可決、成立しました。かつて女性天皇を認めるよう日本に勧告していた国連では、今回の改正を巡る記者からの質問に対し、事務総長の意見が改めて示されました。 ■「改正皇室典範」国連が見解 17日、参院本会議で可決し、成立した「改正皇室典範」。女性皇族が結婚後も皇室に残れるようにするほか、旧11宮家の男系男子を養子に迎えられるようになります。 今回の改正案ではさらに踏み込んで、「養子のもとに生まれた男子に皇位継承の資格を認める」という規定も盛り込まれました。 皇室典範を巡っては2024年、国連の女性差別撤廃委員会が日本に対し「男女平等の保証」を求めて、女性天皇を認めるよう制度を変更することを勧告していた経緯があります。 女性差別撤廃委員会 「男系男子のみ皇位継承を認めることは女性差別撤廃条約の目的と趣旨に反する」 これに対して、日本政府は「国家の基本に関わる事項で適当ではない」と強く抗議していました。 今回の改正を受け、日本メディアの記者が国連の会見で改めて質問すると…。 日本メディア 「今回の改正では、基本的に男系・男性による皇位継承制度を強化する内容となった。この点について、ジェンダー平等の観点から事務総長の意見は?」 国連 ハク事務総長副報道官 「グテーレス事務総長はすべての国に対し、女性が人生のあらゆる場面、そしてあらゆる職業や分野において力を発揮できるようにする包摂的な政策を採用することを促しています」 1947年に制定されて以降、初めて実質的な改正が行われることになった皇室典範。今回、参院本会議で改正に賛成したのは184票、反対に回ったのが57票、全会一致とはなりませんでした。 高市早苗総理大臣 「これは立法府の総意を厳粛に受け止めて、皇族数確保のための方法をしっかりと取りまとめに従って、私どもは法律案にしてお示しをしたわけでございます」 成立を受けて、宮内庁は天皇陛下と秋篠宮さまに報告したということです。 黒田武一郎長官は今後、養子の対象者の確認を進めるとして「お気持ちを十分に踏まえながら、適宜適正にできる限りの対処をしてまいります」とコメントしました。 (2026年7月19日放送分より)
「よかったね」。2021年末、皇族数の確保に向け、岸田政権下の有識者会議の報告書に「養子案」が盛り込まれたことを知った安倍晋三元首相が周囲にこう語ったことを、側近は覚えている。
改正皇室典範。その柱の一つは、旧11宮家の男系男子を養子として迎え、皇族とすることを可能とするものだ。安倍氏は第2次政権の発足に先んじて実現の必要性を訴えていた。
皇室典範で養子を禁じてきたのは、公的な立場の継承に人為的な合意が入り込み、皇統が乱れることを防ぐ狙いがあった。改正案では、その養子を明確に制度化した。
養子の受け入れ先となる可能性がある宮家は、常陸宮、寛仁親王妃、三笠宮、高円宮の四つ。上皇ご夫妻、天皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻は対象から除かれた。寛仁親王妃の信子は、麻生氏の妹にあたる。
麻生さんは天皇の外戚になる可能性があります。麻生さんの妹が皇族なので、妹が養子を取って、養子が男子をもうけると、麻生さんが天皇候補の祖父になります。藤原道長みたいなものです。
・7月17日、改正皇室典範が参院本会議で賛成多数により可決され、成立した。現行の皇室典範が禁じてきた皇族の養子縁組を、戦後に皇籍を離れた旧宮家の男系男子に限り認め、養子のもとに生まれた男子は皇位継承資格を持つことになる。 衆議院と参議院の両院正副議長が与野党との協議を経てまとめた「立法府の総意」にはなかった、養子の男子の皇位継承資格に一方的に踏み込む内容となったことに批判が集まっている。 今回の一連の経緯を「戦後の象徴天皇制を揺るがすような事態が加速している」と憂い、 月刊「文藝春秋 」8月号(発売中)に緊急寄稿したのが、昭和史研究家で皇室研究の第一人者として知られる保阪正康氏だ。保阪氏は「昭和天皇」(中央公論新社)、「明仁天皇と裕仁天皇」(講談社)など多数の評伝・ノンフィクションによって、天皇、皇族を近現代史のなかで描いてきた。今回の焦点となった男系男子の養子候補となり得る旧宮家も、かつて詳細に取材している。何より、平成の天皇と皇后と3年にわたり、懇談を重ねた経験をもつ。 その保阪氏は、男系養子は「国民の多くが支持する、直系である愛子内親王への継承の可能性をあらかじめ閉ざすことを意味する」と指摘し、こう続ける。 「天皇の地位は『国民の総意に基く』と記す憲法から乖離しているのだ」 また、今回の改正の進め方にも重大な問題があるとし、次のように憂慮する。 「天皇をはじめとする皇族の暮らしを左右する法改正であるのに、彼ら自身の意見にまともに耳を傾けることなく法案化が進められていることだ」 「生身の存在である皇族への敬意が感じられないのだ」 その上で、 「今般の皇室典範改正は、天皇と象徴天皇制への歴史的な理解に裏打ちされているようには思えず、一時的に多数を誇る政治権力が象徴天皇制を改変しようとする横暴である。■皇室典範改正後の内閣支持率急落 7月17日、改正皇室典範が成立した。 これは、自民党の麻生太郎副総裁主導の下に進められてきたものだが、あるいはそこに大きな誤算があったのかもしれない。何よりその直後、麻生副総裁が支える高市早苗内閣の支持率は急落してしまったからだ。 誤算はそれだけではない。改正の作業があまりに強引に進められてきたため、世論の支持を失った。 毎日新聞の全国世論調査では、旧宮家から養子をとった場合、生まれた男子に皇位継承の資格を与えることへの賛成は26%に過ぎず、反対の41%を大きく下回った。18、19日の世論調査でも、高市内閣の支持率は下落して41%となり、2025年10月の内閣発足以来最低となる。一方、不支持率は44%となり、初めて不支持率が支持率を上回った(毎日新聞7月20日付)。静謐な環境での審議や、「立法府の総意」が蔑ろにされてしまった影響は大きい。 しかし、麻生副総裁にとっての最大の誤算は、世論の支持を失ったことではない。そうではなく、旧宮家の男子という天皇家にとっては“赤の他人”を養子に迎えるより、女性天皇に道を開き、愛子内親王を天皇に即位させたほうが好ましいという国民の期待を、今まで以上に高めてしまったことである。
・和宮が明治十年になくなったというのは、明治二年に暗殺された和宮を隠しきれず、そのように偽装したのだと考えています。薨去する前に、和宮を知る人のいない箱根に移動したのも怪しいと思います。地元住民は和宮の顔を知りません。遺骨は、明治二年に殺害された和宮の骨をとりおいて東京に持って帰りましたが、それを使用したのだと思います。老婆が指摘する、和宮が亡くなった地、箱根山中と同じ、箱根塔ノ沢で薨《こう》去したことになっています。
和宮の公式の死亡時期に明治十年九月二日が選ばれたかというと、日本最後の内乱、西南戦争で西郷隆盛と総司令官、有栖川宮熾仁親王(鹿児島県逆徒征討総督)が率いる官軍の戦いが同9月24日に終わったからでしょうか。熾仁親王は自身の命令下ともに江戸城無血開城を成し遂げた西郷隆盛を自刃に追いやったことになる。有栖川宮帰任までに和宮が死亡していた必要が岩倉具視にはあった。手早く葬儀を済ませる必要があった。和宮の遺骸をみるとそれが替玉であったとわかる。誰にも参列させるわけにはいかない。
西南戦争を政府は乗り切ったことで、過去の時代の象徴、和宮の存在は名目的にも必要がなくなった。十月十日に熾仁親王は、陸軍大将および元老院議長に任命されます。西南戦争の論功褒賞、和宮の真実を秘せということか。できるわけない。しかし秘さないけにはいかない。
• 有栖川宮熾仁親王(1835~1895年)は明治12年(1879)に嘉仁親王(大正天皇)が生まれるまで、明治期、皇位継承権一位の立場にあった。慶応3年(1867)王政復古の大号令で樹立された新政府では、総裁(首相)で、東征大総督にて新政府軍を率いて江戸城無血開城を果たす。その後元老院議長、陸軍参謀総長、伊勢神宮祭主など明治天皇を支えたことになる。和宮は孝明天皇の異母妹で、8才の時に父・仁孝天皇の命で19才の熾仁親王と婚約する。公武合体の一環として、孝明天皇は14代徳川家茂の正妻にして、熾仁親王との結婚直前に婚約が破棄され、江戸に下った悲劇の皇女である。
そんなとき、明治元年(1868)京都伏見の船宿で、丹波亀岡から来た女中の上田世祢(19才)と出会う。この船宿は世祢の母宇能の弟が経営していた。宇能の父は中村孝道(言霊学者)で有栖川宮家の侍医をしており2人は知り合った。熾仁親王の生母は亀岡の局(つぼね)・佐伯祐子、丹波守・佐伯祐條の娘である。熾仁親王が7才の時、死別した。母の姿と重なったのか熾仁親王は度々この船宿に通う。熾仁親王日記(1868~1869年)には調馬の事として70回も書かれている。太政官からの東上の命令(1869年)で熾仁親王34才は世祢との別れに、短冊、白綸子の小袖、菊の紋章を刻した白木の短刀、巾着を授ける。短冊には<わが恋は深山の奥の草なれや、茂さまされど知る人ぞなき>と<我恋は見山かくれの草なれや、志けさま佐れど志る人のなき>である。私の恋は深山の奥の草のように生い茂り、恋心が繁れども、誰もそれを知る人はいないという意味か。
• 熾仁親王が京都を去った後、世祢は妊娠したことに気づいた。もし男の子だったら殺される。逃げるように亀岡の実家に帰った。母の宇能はすぐに婿(上田吉松)を迎え、明治3年1月に結婚、7月12日に男の子(喜三郎)が無事生まれた。熾仁親王の子だと発覚しないよう、出生日を1年遅らせて、明治4年7月12日として届け出た。当局に判らないよう身体を汚し、アホに見せかけ<八文喜三>というあだ名は十文に二文足りないらしい。一方、神童、地獄耳とも呼ばれた。上田家は、亀岡市穴太寺に近い農家である。7代前の先祖に絵師・円山応挙、さらに藤原氏にたどり着く。
明治31年、喜三郎は細民をいじめるヤクザと大ゲンカ、袋叩きにされる。枕元で祖母・宇能に諫められる。ハッと我に返ると、富士浅間神社・木花咲耶姫の神使・松岡芙蓉仙人が立つ。喜三郎の身は二キロ離れた高熊山の岩窟の中に座す。寒い冬の中、襦袢一枚で何も食べず、水一滴許されず、一週間の霊的修業を行う。2時間の現界修業、1時間の霊界修業を繰り返す。霊界物語第1巻で、<過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは、数百年、数千年の後まで知悉し得られたのである>と述べている。高熊山修業後、鎮魂帰神法(神人感合術)を始め、審神者となり神の道を究める。喜三郎が鬼三郎となり、王仁三郎に変化する。
• 熾仁親王と孝明天皇は男系では11親等も離れており血縁関係は希薄だが、なぜ熾仁親王が皇位継承権一位の立場だったのか?それは世襲親王家という制度で、親王を代々世襲していく特別な宮家、天皇家に血縁が近い有栖川宮家はその一つ(他には伏見宮、桂宮、閑院宮)。天皇に男子が生まれない時、皇統を継続する使命があった。天皇の皇子は親王宣下を受け一代限りの宮家である。天皇の皇子は皇太子を除いて出家する。世襲親王家も跡継ぎ以外は出家していた。徹底した血統管理は権力闘争を防止する長年の智恵だった。近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家は朝廷の政治担当で、天皇にはなれなかった。王仁三郎には皇統があった。幼少時に暗殺しているならともかく、宗教の教祖として民衆のみならず、軍部や皇室内部にも支持があり、うかつに殺すわけでもなく、弾圧して闇に葬るしかなかった。実際に大正10年(昭和天皇が摂政)に一度目と、昭和10年に2度目の弾圧を実行した。
熾仁親王の落胤は王仁三郎以外にもう一人いて、名古屋の田中たまが生んだ<いく>とういう女性である。たまの名は熾仁親王日記に数カ所、記載があり宮内庁も認めている。いくの生まれた(明治22年)数日後に名古屋市長が熾仁親王に報告している。熾仁親王は短冊とルビーの指輪、そして産着をたまに与えている。短冊には<玉矛の道ある世をぞ仰ぐらん 万の民もひとつこころに>とあり、王仁三郎はみろくの世のお祈りじゃと語っている。全ての人から敵愾心がなくなり一つの心、みろくの世である。娘のいくは大本に入信しており、王仁三郎はいくの息子の家口栄二を、孫の直美の婿に迎えた。出口栄二は大本総長となり、1962年、北京で周恩来首相と会見している。当時の大本三代教主は三度目の弾圧があると、栄二と直美を追放してしまう。確かに内部で起こした大本第3次弾圧事件の真っ最中である。
• 熾仁親王の落胤だという事は、昔から大本内では公然の秘密だった。王仁三郎は熾仁親王の名を読み込んだ三百首に及ぶ短歌を詠んでいる。
神のため御国のためにつくしたる人の子神の柱とぞなる(熾仁の子)
熾(さかん)なる稜威(みいず)照らして仁徳の徳を広むる人の出でませ(熾仁)
ありとあるすべての物も山川もよりて仕ふる御代ぞ恋しき(有栖川)
1898年高熊山修業を終えた喜三郎に、西北の方向へ行け、お前を待っている人がいると、神のお告げがある。穴太から8キロ程、離れた八木という町で茶店を開く福島久子(出口直の三女で後の霊界物語では高姫として反面教師役で登場)が母に懸った艮の金神を判ける者が東から現れる事を信じ筆先を持って待っていた。3ヶ月後、綾部で喜三郎は出口直と会談する。大本の開教は出口直に艮の金神が懸った1893年もしくは王仁三郎が高熊山に入山した1898年になる。
王仁三郎が大正時代に書いた回顧録に、自分はキリストで、直は洗礼者ヨハネに例えている。しかし当時の幹部から新参者は排撃され、主導権を握ったのは1921年第1次大本弾圧後になる。大本には浅野和三郎、谷口雅春、岡田茂吉らが入信、海軍から浅野正恭、秋山真之、飯森正芳の将校、宮中から鶴殿親子、柳原白蓮ともに霊界物語で紫姫、貴族の娘(サロメ)として登場する。大正6年貞明皇后が綾部を訪れたり、宮中某重大事件(1921年)では王仁三郎が鶴殿親子を通して色盲ではないと断言し、婚約に至ったらしい。また三女の八重野が高松宮に嫁ぐ話もあったという。当局は王仁三郎を脅威と感じていた。原敬内閣は紀元節の翌日、大正10年2月12日綾部の大本本部、大阪の大正日日新聞を家宅捜索、不敬罪と新聞紙法違反で起訴した。懲役5年の判決が出たが、大審院で審理中、大正天皇の崩御で1927年大赦令免訴、7年間の第1次大本弾圧は終了する。
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