霊界物語 第47巻 天国巡覧

「治国別(はるくにわけ)さま、あの東の方向をご覧なさい。あこに一つの小高い丘陵があって、沢山の家が建っているでしょう。あれが第三天国の或一部の団体で、愛と信とに秀でたる天人の住居する団体です、そうして此真西に当る所にも同じく一つの部落がありましょう、それは善と真との徳稍薄く、光も少しく朧げなる天人共の住居致して居る団体であります。東の団体に比ぶれば余程西の方は凡ての光景が劣って居るでしょう。これは其団体に於ける天人等の愛善と信真の徳の厚薄に依って、斯の如く差等が惟神的についているのです。同気相求むると云って、同じ意思想念の者が愛の徳によって集まるのです。」

「同じ天人でも、東の団体に住む者と西の団体に住む者とは大変な幸不幸あるじゃありませぬか、西の方の団体が甲団体を羨望して移住して行く様な事はありますかな。」

「決して左様な案じはありませぬ。すべて神格よりする愛其ものの情動如何に依って、各自の運命が定まるのですから、西の団体が東の団体の光明を羨望して行った所で、自分の徳が足らないので、苦しくて居られないのです、それ故個々団体の天人は決して他へ自由に移るといふような事はありませぬ、すべて高天原には順序が第一重んぜられて居ります。此順序を誤る者は、到底天国の生活は望まれないのです。大神様の神格は順序が第一に位しているのですから、地上の世界の如く、決して秩序紊乱などの虞は夢にもありませぬ。これ故に天国は永遠に平和が保たれてゆくのです。」(第47巻 天国巡覧 天界行)

「現界の人間は、高天原の天人は年が年中歌舞音楽に耽り。歓楽に酔うている様に考えて居るますが、決して天国だとて、のらのらと放蕩遊惰に日を送っている者はありませぬ。すべて神様が宇宙をお造り遊ばしたのは一つの目的がある為です。其目的とは即ち用であります。故に用のなき人間は霊界にも現界にも決して存在を許されない筈です、彼等天人は各自の天職を楽しみ、営々として神業に参加し、士農工商の業務を営んで居ります。さうして月に三回公休日があって、その時には天人等は神の家に集まって、力一杯歓楽を尽し、神をほめ称へ、且つ神の恵に十二分に浴するのです。」

「成程、実に結構な御経綸がしてあるものですなア。」

「現界の如く、労使の衝突だとか、労働問題だとか、地主対小作争議だとか、思想・政治・経済問題などは夢にも起りませぬ、実に平和な幸福な生涯ですよ。現界人が一度天国の情況を見たならば、再び現界へ帰るのは厭になって了ひますよ。」

「治国別さま、あの南の方に小さき丘陵が見えませう、あれは智慧と証覚とに充ちたる天人共の住居する団体です。そうして此真北に当る所に又一つの丘陵があって一部落が見えましょう、あれは愛善と信真の徳よりする智慧証覚に充ちたる天人共の住居する一個の団体でありまして、南の団体よりは少しく劣っている天人が群居して居ります。少し此から見ても朧気に見えるでしょう。」

「愛の善といふものは凡て吸引力の強いもので、又無限の生命を保有しているものです。天人であろうと、現界人や地獄界の人間であろうと、それ相応の愛によって生命が保たれている。其愛なるものは凡て厳と瑞の御霊の御神格より内分的に流れて来る。実に無始無終の生命ですよ。」(第47巻 天国巡覧 天界行)

言依別(ことよりわけ)は治国別に向って、天国団体の説明を続ける。

治国「実に天国と云う所は、吾々の想像意外に秩序のたった立派な国土ですな。到底吾々如き罪悪に充ちた人間は将来此国土に上る見込はない様ですな。」

言依別「決して左様な道理はありませぬ、御安心なさいませ。此処は最下の天国で、まだ此上に中間天国もあり。最高天国もあるのです。猶其他に霊国と云ふのがあって、それ相応の天人が生活を続けて居ます。」

「其最高天国へ上り得る天人は、非常な善徳を積み、智慧証覚の勝れたものでなければ参る事は出来ますまいな。」

「厳の御霊の聖言にもある通り、生れ赤子の純粋無垢の心に帰りさへすれば、直ちに第一天国と相応し、神格の内流によって案外容易に上り得るものです。」

「成程、然し天国にも矢張り自然界の如き太陽がおでましになるのでせうな。」

「アレ、あの通り東の天に輝いて居られます。貴方には拝めませんかな。」

「ハイ、遺憾乍ら未だ高天原の太陽を拝する丈けの視力が備はって居ないと見えます。」

「さうでせう。貴方には未だ現実界に対するお役目が残って居ますから、現界から見る太陽の様に拝む事は出来ますまい。天国の太陽とは厳の御霊の御神格が顕現して、ここに太陽と現れ給ふのです。現界の太陽とは非常に趣が違って居ります。霊国にては瑞の御霊の大神月と現れ給ひ、天国にては又太陽と給ふのであります。霊国の月は現界から見る太陽の光の如く輝き給ひ、又天国の太陽は現界で見る太陽の光に七倍した位な輝き方であります。日は真愛を現し月は真信を現し、星は善と真との知識を現し給ふのであります。」(第47巻 天国巡覧 下層天国)

現界は自然界の太陽や月は天空に輝き渡って居りますが、太陽に比すべき愛と、月に比すべき信と星に比すべき善と真との知識を亡ぼして居ますから、天国の移写たる現実界も今日の如く乱れ果てたのです。聖言には此等の諸徳亡ぶる時、此等の諸天体暗くなり其光を失ひて空より落つ、と云はれているのです。大神の神愛の如何に大なるかは現界に輝く太陽との比較によって推知する事が出来るでせう。神の愛なるものは頗る熱烈なる事が窺はれませう。大神様は現実界の太陽の如く、直接に高天原の中空に輝き給はず、その神愛はおひおひ下降するに従って熱烈の度は和らぎ行くものです。和らぎの度合は一種の帯をなして天界太陽の辺を輝き亘り、諸々の天人は此太陽の内流によって自らの身を障害せざらむが為め、適宜に薄い雲の如き霊衣を以て其身を覆うて居る。高天原に於ける諸々の天国の位置は、其処に住める天人が神の愛を接受する度合の如何によって、大神の御前を去る事或いは遠くなったり、近くなったりするものです。高天原の高処最高天国に居る天人は愛の徳に住するが故に、太陽と現れたる大神の御側近く居るものです。されど最下の天国団体にあるものは信の徳に住する故に、太陽と現れ給うた大神を去る事最も遠きものであります。ここは高天原の最下層第三天国の中でも最も低い処ですから、太陽と現れました大神の御光を拝する事が余程遠くて、現界の太陽を拝する如く明瞭に分からないのです。最も不善なるもの、暗黒界の地獄に居るものの如きは、大神様の目の前を去る事極めて遠く且つ太陽の光に背いて居るものである。其暗黒界に於ける神と隔離の度合は、善の道に背く度合に比するものである。極悪の者は到底少しの光も見る事が出来ず、無明暗黒の最低地獄におつるものであります。(第47巻 天国巡覧 下層天国)

竜公(たつこう)「もし、先生、こんな穢い人間に触らうものなら、霊身が穢れて忽ち地獄の団体へ落転せねばなりますまい。決してお構い遊ばすな。大変で御座ります。」

治国別「いや、そうではない。天国は愛善の国だ。神は愛と信とを以て御神格と遊ばすのだ。吾々も神様の愛と信とを受けなくては生命を保つ事は出来ない。神より頂いた此愛と信とを遍く地上に分配せねばなるまい。地獄におつるのを恐れて現在目の前に苦しんでいる此憐れな人々を救はないと云ふのは、所謂自愛の心だ。自愛の心には天国はない。仮令此場所が地獄のドン底であろうとも、自愛を捨て善と愛との光明にひたる事を得るならば、地獄は忽ち化して天国となるであろう。」

「然し乍ら斯様な天国へ来て居ながら、あの様な穢い人間に触れて、折角磨きかけた精霊を穢す様な事があっては、多勢の人間を娑婆へ帰って救ふ事が出来ますまい。只の一人を助けて精霊を穢すよりも、此場は見逃して多勢の為に愛と信との光を輝かす方が、何程神界の為になるか知れませぬぞ。此処は一つ考え物ですな。」

「いや決してさうではない。目の前に提供された、いはば吾々の試験物だ。此憐れな人間を見逃して行過ぐる位ならば、到底吾々の愛は神の神格より来る真の愛ではない。矢張り自然界と同様に自愛だ、地獄の愛だ。斯様な偽善的愛は吾々の採るべき道ではない。」

「ここは最下層の天国、これより中間の天国団体へ案内致しませう。中間天国の天人の証覚や智慧及び愛と信は、下層の天国に住む天人に比ぶれば、万倍の光明が備はって居ります。此天国より一万倍の愛の善と信の真、

智慧証覚を備へなくては、仮令天国へ無理に上るとも、眼くらみ、頭痛甚だしく、力衰へ、殆ど自分の生死の程も分らない様になるものですよ。竜公は被面布を頂かれて、第二天国の探検もできませう。治国別様も被面布を上げませう。」(第47巻 天国巡覧 天開の花)

第二天国の入口迄来てバタリと平太り込んで了った。竜公は唯一言も発し得ず、痴呆の如く口をポカンと開いたまま僅かに指先を間歇的に動かして居る。木花姫(このはなひめ)は後ふり向きもせず巨大なる光と化して、天の一方に姿を隠させ給うた。治国別は後打ち眺め「嗚呼、過ったりな。自愛の慾に制せられ、吾身の苦しさに木花姫様の救助を求めた愚かしさよ。師匠を杖につくな、人を頼りにするなと云ふ御教え、正勝(まさか)の時になって忘れていたか、嗚呼人間と云ふものは、何と云ふ浅ましいものであろう。竜公はもはや虫の息、かかる天国に於て、精霊の命までも捨てねばならぬのか。」

治国別「嗚呼どうなり行くも神の御心、吾々人間の如何ともすべき限りでない。神様、御心の儘に遊ばして下さい。罪悪を重ねたる治国別、過分も此清き尊き天国に上り来り、相当の御処分を願います。」もはや絶対絶命となって来た。此時俄に天の戸開けて天上より金色の衣を纏ひたる、目も眩きばかりの神人、二人の脇立を従へ、雲に乗って二人に前に悠々と下らせ給ひ、懐より霊丹(れいたん)と云ふ天国の薬を取り出し、二人の口に含ませたまへば、不思議なるかな二人は正気に返り、痩衰へた体は元の如く肥太り、顔色は鮮花色と変じ、爽快の気分に充されて来た。

「貴神は木花姫命様でございましたか、誠に御仁慈の段感謝の至りに堪へませぬ。」

「神様、能くまあお助け下さいました。竜公は既に天国に於て野垂れ死をする所でございますなあ。」

「総て天国には善と真とに相応する順序が儼然として立って居りますから、此順序に逆らへば大変に苦しいものですよ。身霊相応の生涯をさへ送れば、世の中は実に安楽なものです。水に棲む魚は、陸へ上れば直に生命がなくなるようなものでござります。」(第47巻 天国巡覧 霊丹)                     

「治国別殿、其方は媒介者によって天国の巡覧に来られたのだから、決して身分不相応だとは申されますまい。貴方は宣伝使としての肝腎要の如意宝珠を道で落しましたから、苦しかったのですよ。妾は急ぎ月の大神様の御殿に上り、霊丹を頂いて、貴方等の御生命をつなぎ留める事を得たのでござりますよ。」

「ハイ、吾々が命の親の木花姫様、この御恩は決して忘れはいたしません。」

「妾は貴方の命の親ではありませぬ。貴方の命の親は月の大神様ですよ。唯お取次をさして頂いたのみですよ。宇宙一切は月の大神様の御神格に包まれて居るのでございます。決して礼を云うて貰っては迷惑に存じます。何卒神様に直接にお礼を仰有って下さい。」

竜公「もし先生、霊界の如意宝珠と云ふのは善言美詞の言霊ですよ。中間天国へ上る途中に於て天津祝詞や神言の奏上を忘れたので、姫命様がお気をつけて下さったのですよ。」

「成程、ヤ、ウッカリして居った。木花姫様、有難うございます。ほんに竜公さま、お前は私の先生だ、ヤア実に感心。」

「先生、そんな事云って貰ふと大に迷惑を致します。決して竜公の智慧で言ったのではありませぬ。御神格の内流によって、斯様に思ひ浮べて頂かせられたのです。」

「現界に於きましては、竜公さまは治国別さまのお弟子でありませう。併しこの天国に於ては愛善と信真より来る智慧証覚の勝れたものが、最も高き位置につくのでございます。神を信ずる事が厚ければ厚い程、神格の内流が厚いのでございますから。」

「天国に参りましても、やはり現界の虚偽的階級を固持して居ったのが、重々の誤りでございます。月の大神様、日の大神様、木花姫様の肉の御宮を通し、又竜公さまの肉の宮を通して、愚鈍なる治国別に尊き智慧を与へて下さった事を感謝致します。」(第47巻 天国巡覧 霊丹)

祝詞くづしの喧伝歌を歌いながら、天国団体の一角に着いた。数多の天人は男女の区別なく、数十人道の両側に列を正し、「ウォーウォー」と、愛と善のこもった言霊を張り上げて、二人の来るを歓迎する如きであった。天人の衣類は其智慧と相応する。智慧の秀れた者の衣類はきわ立って美しう見えて居る。序に根底の国に陥っている者の衣服は其虚偽の度によって、破れ、綻び、見苦しく其汚穢なる事、面を向くるに堪えない。数多の天人の中から、最も光り輝いている清浄の衣類を着用した一人の天人は、治国別の側近く進み来り、「ウーオー」と言いながら、心の底より歓迎の意を表示している。治国別も丁寧に会釈をなし、固く天人の手を握りしめて、何事か言はむとしたが、口舌硬直して、一言も発することが出来なかった。治国別は其顔面の表情を以て、感謝の意を示す事とした。数多の天人は前後左右に群り来り「ウォーウォー」と叫びながら、歌い且つ舞ひ踊り狂うて、其優待に全力を尽くしている。竜公は余りの嬉しさに口をあけた儘、ポカンとして「アーアー」とのみ叫んでいる。天国に於ては「ア」といふ声は喜びを表白する意味で、此一言は天人間に尊重され且賞揚の的となった。天人が人間と相語る時は、其相手の言語及び相手が知れる言語を用ひる。治国別は自分が未だ肉体のある精霊なる事を告げて、未だ天人の域に進んでいない事をあから様に告げようと努めたけれど、何故か一言も発することが出来なかった。其故は第二天国の天人に相応すべき愛善と信真と智慧と証覚とが、備はっていなかったからである。治国別は天人の諸団体に歓迎され、唖(おし)の旅行を続けて、只アオウエイの五大父音を僅かに発する様になり、辛うじて余り余り大きな恥をかかず、首尾良く巡覧し。天人に比較的好感を与へて此処を去る事を得た。治国別は再び木花姫命の御導きによって、智慧と証覚を与へられ、第二天国の各団体を巡歴し、進んで最高第一天国及び霊国に進む。(第47巻 天国巡覧 天人歓迎)

高天原の霊国及天国の天人は人間が数時間費しての雄弁なる言語よりも、僅に二三分間にて、簡単明瞭に其意思を通ずる事が出来る。また人間が数十頁の原稿にて書き表はし得ざる事も、只の一頁位にて明白に其意味を現す事が出来る、又それを聞いたり読んだりする処の天人も能く会得し得るものである。凡て天人の言語は優美と平和と愛善と信真に充ちて居るが故に、如何なる悪魔と雖も其言葉には抵抗する事が出来ない。すべて天国の言葉は善言美詞に充されているからである。さうして何事も善意に解し見直し聞直しといふ神律が行はれて居る。日の国即ち天国天人の言語には、ウとオとの大父音多く、月の国即ち霊国天人の言語にはエとイの大父音に富んでいる。声音の中には何れも愛の情動がある。善を含める言葉や文字は多くはウとオを用ひ、少しくアを用ふるものである。真を含んでいる言葉や文字にはエ及びイの音が多い。天人は皆一様の言語を有し、現界人の如く東西洋を隔つるに従って、其言語に変化があり、地方にいろいろの訛がある様な不都合はない。ここに少し相違のある点は証覚に充された者の言語は、凡て内的にして、情動の変化に富み且つ想念上の概念を最も多く含んでいる。証覚の少い者の言語は外的にして人間相互の間に於けるが如く、語句の中から其意義を推度せなくてはならぬ事がある。又面貌を以てする言葉がある。此言語は概念に拠って抑揚頓挫曲折の音声を発すが如きものである。天界の表像を概念に和合せしめたる言葉がある。又概念を自らに見る様、成したる言葉もある。又情動に相似したる身振を以てなす語もある。此の身振は其言句にて現はれる事物と相似たるものを現はしている。又諸情動及諸概念の一般的原義を以てする言葉がある。又雷鳴の如き言葉もあり、其外種々雑多な形容詞が使はれてある。(第47巻 天国巡覧 一心同体)

治国別、竜公は団体の統制者に導かれ、種々の花卉等を以て取囲まれた相当に美はしき邸宅に入る事を得た。此処は此の団体の中心に当り他の天人は櫛比したる家屋に住んでいるにも拘らず、一戸分立している。現界にて言へば丁度町村長の様な役を勤めている天人の宅である。二人は案内されて奥の間に進むと、真善美といふ額がかけられ、床の間には七宝を以て欄間が飾られ、は璃水晶の茶器などがキチンと行儀よく配置され、珊瑚珠の火鉢に金瓶がかけられてある。第二天国に於ても最も証覚の秀れたる天人の団体であり、主人夫婦の面貌や衣服は特に他の天人に比して秀れて居る。此の天人の名は珍彦(うづひこ)といひ、珍姫と云った。珍彦は治国別の未だ現界に肉体があり精霊として神に許され、修業の為に天国巡覧に来りし事を、其鋭敏なる証覚によって悟り得たのである。珍彦は始めて治国別の知れる範囲内の言語を用ひて、いろいろな談話を交ゆることとなった。

「治国別さま、あなたは未だ精霊でいらっしゃいますのですな。実の所は天国に復活なされた方と存じまして、其考へで待遇致しましたので嘸お困りでございましただろう。」

「ハイ、実の所はイソの館から大神様の命を奉じ、月の国ハルナの都に蟠まる八岐大蛇の悪霊を言向和すべく出陣の途中、浮木ケ原に於て、吾不覚の為ランチ将軍の奸計に陥り、深き暗き穴に落され、吾精霊は肉体を脱離して、八街に迷い込み、大神の化身に導かれ、第三天国の一部分を覗かして頂き、又もや木花姫の御案内に拠って、ここ迄昇って来た所でございます。何分善と真が備はらず、智慧証覚が足らない者でございますから、天人達の言語を解しかね、大変に面喰ひましたよ。丸で唖(おし)の旅行でしたワ。」

「どうぞ、ゆるりと御休息下さいませ、今日は幸い、大神様の祭典日でございますれば、団体の天人共が吾館へ集まって参るでせう。其時は此団体に限って、あなたの精霊にいらせられる事を発表致します。吾団体の天人は其積りで、あなたと言葉を交へるでせう。」

竜公「モシ珍彦様、此団体の天人は、何れも若い方ばかりですな。どのお方の顔を見ても、本当に能く似ているじゃありありせぬか。」

「左様です、人間の面貌は心の鏡でございますから、愛の善に充ちた者同士同気合求めて群居しており、内分の同じき者は従って外分も相似るものでございます。天国の団体には余り変った者はございませぬ。心が一つですからやはり面貌も姿も同じ型に出来て居ります。」

「併しながら子供は沢山ある様ですが、三十以上の面貌をした老人は根つから見当たりませぬが、天国の養老院にでも御収容になっているのですか。」

「人間の心霊は不老不死ですよ。天人だとて人間の向上発達したものですから、人間の心は男ならば三十才、女ならば二十才位で、大抵完全に成就するでせう、而して仮令肉体は老衰しても其心はどこ迄も弱りますまい。天国は凡て想念の世界で、事物が霊的ですから現界に於て何程老人であった所が天国の住民となれば、男子は三十才、女子は二十才位な面貌や肉付をしているのです。天国にては不老不死と云って、いまはしい老病生死の苦は絶対にありませぬ。」

「吾々到底容易に肉体を脱離した所で、天国の住民になるのは難しいものですなア。いつ迄も中有に迷う八街人間でせう。実にあなた方の光明に照らされて、治国別は何とも慚愧に堪えませぬ。」

「あなたはキット或時機が到来して、肉体を脱離し給うた時は、立派なる霊国の宣伝使にお成りなさいますよ。水晶の水も氷とならば忽ち不透明となります。あなたの今日の情態は其氷です。一度光熱に会うて元の水に復れば、水晶の清水です。肉体のある間は、何程善人だ、証覚が強いと云っても、肉体といふ悪分子に遮られます。肉体の保護の上に於て、少々の悪も必要であります。精霊も人間も此体悪の為に現界に於ては生命を保持し得るのです。」(第47巻 天国巡覧 一心同体)

竜公「天国に於ては、すべての天人は日々何を職業にしていられるのですか。田畑もいろいろな果樹も作ってある様ですが、何処から来て作るのですか。」

「天人が各自に農工商を励み、互に喜び勇んで、其事業に汗をかいて従事してるのですよ。」

「現界の様に天国にては人を顎で使ひ、自分は利息や株の収益で遊んで暮す人間はありませぬ。上から下迄心一つにして共々に働くのですから、何事も埒よく早く事業がはか取ります。丁度一団体は人間一人の形式となって居ります。ペン1本握って書くにも、外観からは手のみが働いて見えますが、脳髄も心臓肺臓は申すに及ばず、神経繊維から運動機関、足の指先まで緊張している。現界のやり方は手のみを動かして、他の諸官能は我関せずでとても治まりません。天国では上下一致、億兆一心、大事にも小事にも当たり、何事も成就致します。人間の肉体が一日働いて夜になったら、凡てを忘れ眠りにつく、休む時は団体一同快く休むのです。私の心は団体一同の心、団体一同の心は私の心でございますから。」

治国「成程、現界も此通りになれば、地上に天国が築かれるといふものですなア。仮令一日なりとも、こんな生涯を送りたいものでございます。」

「天国の団体にお出でになった以上は、私の心はあなたの心、あなたの智性は私の智性、融合統一して居ればこそ、相対座してお話をする事ができるのですよ。今の心を何時迄もお忘れにならなかったならば、仮令地上に降られても天国の住民ですよ。大神様より現界の宣伝使と選まれ、死後は霊国へ昇って宣伝使となり、天国布教の任に当たるべき方です。」(第47巻 天国巡覧 一心同体)

「遠来のお客様、よくもいらせられました。私は珍彦の妻珍姫と申します。」

治国「何とご挨拶を申してよいやら、天国の様子は一向不案内、併しながら今珍彦様に承はれば、同気相求むるを以て、かく和合の境遇にありとのこと、さすればあなたの心は私の心、私の心は貴女の心、他人行儀の挨拶も出来ず、又自分と同様とすれば、自分に対しての挨拶も分らず、実は困っております。」

「現界的虚礼虚式は止めまして、万年の知己、否同心同体となって、打解け合うて、珍しき話を聞かして頂きませう。」

「どうも現界の話は罪悪と虚偽と汚穢にみち、かかる清浄なる天国へ参りましては、口にするも厭になって参りました。それよりも天国のお話を承はりたいものでございます。」

竜公「モシ珍姫様、あなたは珍彦様と服装が違う丈で、お顔はソックリじゃありませぬか。ヨモヤ現界に於て双児にお生まれになったのじゃ。」

「これ竜公、何といふ失礼なことを仰有る。」

「思ふ所を言ひ、志す所をなすのが天国じゃありませぬか。そんな体裁を作って、現界流に虚偽を飾るやうなことは天国には用ひられますまい。天国は信の真を以て光とするのですからなア。」

「これは竜公の副守の外流ですよ。モシ珍彦様、どうぞ私の今の言葉が天国を汚す様な事がございますれば直に宣り直します。」

「滑稽として承はれば、仮令悪言暴語でも其笑ひによって忽ち善言美詞と変化致しますから、御心配なさいますな。天国だって滑稽諧謔が云へないといふことがありますか、滑稽諧謔歓声は天国の花ですよ。」

「娑婆の執着が残って居りますからな。あなたは再び肉体へ帰ろうといふ慾があるでせう。第三天国でいったでせう、此処に居りたいと。過去を憂へず未来を望まず、今といふ此瞬間は善悪正邪の分水嶺といふ三五教の真理を体得してますからなア。」(第47巻 天国巡覧 一心同体)

「夫婦は愛と信との和合に拠って成立するものです。所謂夫の智性は妻の意思中に入り、妻の意思は夫の智性中に深く入り込み、ここに始めて天国の結婚が行はれるのです。言はば夫婦同心同体ですから、面貌の相似するは相応の道理によって避くべからざる情態です。現界人の結婚は、地位だとか名望だとか、世間の面目だとか、財産の多寡によって婚姻を結ぶのですから、云はば虚偽の婚姻です。天国の婚姻は凡て霊的婚姻ですから、夫婦は密着不離の情態にあるのです。故に天国に於ては夫婦は二人とせず一人として数へることになっています。現界の様に、人口名簿に男子何名女子何名などの面倒はありませぬ。只一人二人と云へば、それで一夫婦二夫婦といふことが分るのです。それで天国に於て百人といへば頭が二百あります。これが現界と相違の点ですよ。君民一致、夫婦一体、上下和合の真相は到底天国でなくては実見することは出来ますまい。治国別様も竜公様も現界へお下りになったら、どうか地上の世界をして、幾部分なりとも、天国気分を造って貰ひたいものです。」

治国「ハイ微力の及ぶ限り・・否々神様の御神格に拠って吾身を使って戴きませう。」

かく話す所へ、玄関口より一人の男現はれ来り、

「珍彦様、祭典の用意が出来ました、サアどうぞ皆が待って居ります。お宮まで御出張下さいませ。」

「ご苦労でした。直様参りませう。お二人さま、どうです、之から天国の祭典に加はり拝礼をなさったら・・。」

「お供致しませう。」(第47巻 天国巡覧 一心同体)

天国人の祭典を行ふのは、天国団体の重要なる務めの一つとなっている。天国の天人は愛の善に居るが故に、大神を愛し且同僚を愛し、天地惟神の法則に従って宇宙の創造主たる神を厳粛に斎り、種々の珍らしき供物を献じ、神の愛に浴するを以て唯一の歓喜となし、唯一の神業としている。而して天国人は決してエンゼルになったり、或は宣伝使にはならないのである。エンゼルになったり、宣伝使になる天人は、すべて霊国天人の任務である。何とならば信の真に充ちたる者多く、天国は愛の善にみちたる者多き国土なるが故である。祭典がすむと、霊国よりエンゼル又は宣伝使出張し来って愛善を説き、信真を諭し、円満なる天人の智慧と証覚をして益々円満ならしめむと務めるのである。天人は其説教を聞いて自分の人格を円満ならしめ、処世上の福利を計らむとする。天国の団体は大なるものは十万も集まって居り、少いのは五六十人の団体もある。之は愛と信より来る想念の情動如何に依って相似相応の理に依り団体を形成するからである。

治国別、竜公は珍彦に伴はれ、神の家と称する、天人が祭典を行ひ霊国宣伝使が説教を行ふ木造の殿堂に導かれた。いつまでも木の香新しく薫り、幾年経ても新築した時の想念に依って建てられてあるから、決して腐朽したり或は古くなったりするものではない。(第47巻 天国巡覧 化相神)

祭典の式も漸く済み、八尋殿に於て直会の宴が開かれた。大抵此祭典は午前中に行はるるものである。併し天国に於ては時間空間など云ふものはなく、従って午前午後昼夜などの区別はない。併しながら情動の変異に依って、朝たり夕べたるの感覚が起るものである。而して朝は太陽の愛に相応し、天国の愛善に和合するものである。又夕べは信真に相応し、月に相応するものである。故に天国人の祭典は午前中に行はれ、霊国即ち月の国から出張し来る宣伝使は午後に至って説教を初むるのが例となっている。現代に於ける各宗教の儀式も祭事に関することは凡て午前に行ひ、説教などは午後に行はるるのは、知らず知らずに天国の情態が地上に映っているのである。各天人は思い思いの歌を歌ひ、舞を舞ひ、音楽を奏し、祭典後一切を忘れて面白可笑しく茶番狂言なども交えて、時の移るのも知らず、遊び狂ふのである。(第47巻 天国巡覧 化相神)

治国別、竜公は天国の言葉を解し得ず、特別の席に黙然として耳を傾け、其教示を一言なりとも会得せむと努めている。されど此等の両人は未だ第二天国の天人の言葉さへ聞分くる丈の智慧証覚も備はっていないのだから、此等の天人を説き諭す幽遠美妙なる説教などは到底聴取れる筈はない。従って感得することは出来ない。デクの棒然として、其美妙なる声調や言語の抑揚頓挫曲折などの巧妙ぶりや、顔面筋肉の動き振り、形容身振などを考へて、略其何事を語り居るかを、おぼろげに窺知し得るのみであった。殆んど一時ばかり経ったと思ふ時、宣伝使は説教の終結を告げた。各天人は切りに拍手し、賛嘆しながら、ウオーウオーと叫びつつ神の家を立って各自の住所に帰り行く。珍彦夫婦は宣伝使の先頭に立ち、己が館を指して迎へ帰る。治国別、竜公も後に従ひ、珍彦の館に入る。宣伝使は奥の間に進み、冠を取り、法服を着替へ、くつろいで主客対座し、少時雑談に耽るのが例になっている。珍彦夫婦は珍らしき果物を並べ、葡萄酒を注いで宣伝使に勧めた。治国別、竜公は宣伝使の面貌の高尚優美にして光明に充てるに眼くらみ、容易に面を向くることが出来ない。智慧と証覚の度に非常の相違があるが故である。あわてて治国別、竜公は被面布を取出しかぶった。その顔をよく見れば、野中の森で別れた治国別の徒弟、五三(いそ)公であった。(第47巻 天国巡覧 化相神)

「似るも似ぬもありますか。本間者の五三公ですよ。俺は被面布を被ってるから分らぬだろうが、竜公さまだ。そしてお前の大切な先生治国別さまだ。いつの間に夫れ程出世したのだ。」

「これはこれは木花姫命様、私如き者の徒弟となり、化相の術を以て此愚鈍な治国別をよくもお導き下さいました。有難く感謝致します。」

「治国別様、竜公様、失礼を致しました。私は月の大神の御側に仕へまつる言霊別命(ことたまわけのみこと)でございます。大神の命に依り、地上に降り、五三公の精霊を充たし神国成就の為に、貴方と供に活動をしていた者でございます。夫れ故私と五三公とは全く別個の人間です。私の神格の全部が五三公の精霊をみたしたる為、面貌までが能く似ているのでせう。時々五三公の精霊に下り、地上に天国を建設する為、化相を以て活動を致しますれば、五三公はヤハリ貴方の徒弟としてお使ひを願います。」

「化相を以て現はるれば、ヤハリ五三公です。従前の通り交際を願ひます。」

「何程智慧証覚があるといっても、現界へ出れば、チーと偉いか、少し劣った位なものだ。なア五三公、さうだろう。」

言霊別はパッと上衣を脱いだ。忽ち現界で見た五三公と、風体まで変らないやうになり、言葉もなれなれしくなって来た。

「天国の法衣をぬいで、気楽に天国の旅行をしようじゃないか。治国別の先生、これから五三公が第二天国は云ふも更なり、第一天国まで御案内を致しませう。」(第47巻 天国巡覧 化相神)

高天原の天界を区分して天国、霊国の二となす。日の国即ち天国は人身に譬ふれば心臓及び全身にして心臓に属すべき一切のものと相応している。心臓と肺臓とは小宇宙、小天地に譬ふべき人間に於ける二つの国土である。心臓は動脈、静脈により、肺臓は神経と運動繊維によりて、人の肉体中に主治者となり、力の発する所、動作する所、両者の協力を認めずと云う事はない。各人の内分、即ち人の霊的人格をなせる霊界の中にも亦二国土があって、一を意思の国と云ひ一を智性の国と云ふ。意思は善に対する情動によって人身内分の二国土を統治している。之等の二国土は又肉体中の肺臓、心臓の二国土とに相応している。故に心臓は天国であり意思の国に相応し、肺臓は霊国であり智性の国と相応するものである。

天国は高天原の意力にして、愛の徳之を統御し、霊国は高天原の智力にして信の徳之を統御する事になっている。故に天国と霊国との関係は人於ける心臓と肺臓との関係に全く相応している。聖言に心臓を以て意を示し、肺臓の呼吸を以て智及信の真を示すは此相応によるからである。情動なるものは心臓中にもあらず、心臓より来らざれども、之を心臓に帰するは相応の理に基く為である。高天原の二国土と心臓及肺臓との相応は高天原と人間との間に於ける一般的相応である。(第47巻 天国巡覧 間接内流)

治国別一行は人体に於ける心臓部に相当する第二天国の最も中枢部たる処を今や巡覧の最中である。天国の組織は最高天国が上中下三段に区劃され、中間天国が又上中下三段に区劃され、最下層の天国亦三段に区劃されてある。格段の天国は個々の団体を以て構成され、愛善の徳と智慧証覚の度合の如何によりて幾百ともなく個々分立し、到底之を明瞭に計算する事は出来ないのである。又霊国も同様に区劃され、信と智の善徳や智慧証覚の度合によって霊国が三段に大別され、又個々分立して数へ尽せない程の団体が作られている。又一個の団体の中にも愛と信と智慧証覚の度の如何によって或は中央に座を占め、或は外辺に居を占め、決して一様ではない。斯くの如く天人の愛信と証覚の上に変移あるは、所謂勝者は劣者を導き、劣者は勝者に従ふ天然律が惟神的に出来ているが為に、各人皆其分度に応じて安んじ、少しも不安や怨恨や不満足等の起る事なく、極めて平和の生涯を送り居るものである。(第47巻 天国巡覧 間接内流)

「先生、大変な立派な日輪様がお上りになりましたな。吾々の日々拝する日輪様とは非常にお姿も大きく光も強いじゃありませぬか。」

「吾々の現界で見る日輪様は、人間の邪気がこって中空にさまようているから、其為に御光が薄らいで居るのだろう。天国へ来ると清浄無垢だから、日輪様も立派に拝めるのだろうよ。」

「それでも吾々の拝む日輪様とは何だか違ふじゃありませぬか。もし五三公さま、如何でせう。」

「天国に於ては大神様が日輪様となって現はれ給ひます。地上の現界に於て見る太陽は所謂自然界の太陽であって、天国の太陽に比ぶれば非常に暗いものですよ。自然界の太陽より来るものは凡て自愛と世間愛に充ち、天国の太陽より来る光は愛善の光ですから雲泥の相違がありますよ。霊国に於ては大神様は月様とお現はれになります。大神様に変りはなけれども、天人共の愛と信と証覚の如何によって、太陽と現はれ給ひ或は月と現はれ給ふのです。」

竜公「天国にても日輪様は東からお上りになるでせうな。」

「現界に於ては一切の方位を南から定めますけれども、高天原に於ては大神様が日輪様と現はれ給ふ処を東となし、之に対するを西となし、右の方を南、左の方を北とするのです。天界の天人は何れの処に其顔と体とを転向するとも、皆日月に向かって居るのです。其日月に向うた処を東と云ふのです。高天原の方位は皆東より定まります。一切のものの生命の源泉は日輪様たる大神様より来る故である。故に天界にては、厳の御魂、瑞の御魂をお東様と呼んで居ます。」(第47巻 天国巡覧 間接内流)

現代人は霊界一切の事物と、人間一切の事物との間に一種の相応あることを知らず、又相応の何たるを知るものが無い。かかる無智の原因には種々あれども、其重なるものは我(が)と世間とに執着して自ら霊界殊に天界より遠ざかれるに由るものである。何事をも差し置きて吾と世間とを愛するものは只外的感覚を喜ばし、自己の所欲を遂げしむる世間的事物にのみ留意して、その外を顧みず、内的感覚を楽まし心霊を喜ばしむる霊的事物に至っては彼等の関心せざる所である。彼等が之を斥くる口実に曰く、「霊的事物は余り高きに過ぎて思想の対境となる能はず」云々。古の人なる宣伝使や信者たりしものは、之に反して相応に関する知識を以て一切知識中の最も重要なるものとなし、之に由りて智慧と証覚を得たものである。三五教の信者は何れも天界との交通の途を開きて相応の理を知得し、天人の知識を得たものである。天的人間であった太古の人民は相応の理に基いて思索する事猶天人の如くであった。之故に古の人は天人と相語るを得たり、又屡主神をも相見るを得て、其教を直接に受けたものも沢山にある。三五教の宣伝使なぞは主の神の直接の教を受けてその心魂を磨き、之を天下に宣伝したる次第は此霊界物語を見るも明白である。(第47巻 天国巡覧 跋文)

抑全自然界は之を総体の上から見ても、分体の上から見ても、悉く霊界と相応がある。何事たりとも自然界にあって其存在の源泉を霊界に取るものは之を名づけて、其相応者と云う。自然界の存在し永続する所以は霊界によること、猶結果が有力因によりて存するが如きを知るべきである。自然界とは太陽の下にありて熱と光とを受くる一切の事物を謂ふものなるが故に、之に由りて存在を継続するものは、一として自然界に属せないものはない。霊界とは天界のことであり、霊界に属するものは、皆天界にあるものである。人間は一小天界にして又一小世界である。共に其至大なるものの形式を模して成るが故に、人間の中に自然界もあり霊界もあるのである。その心性に属して、智と意とに関せる内分は霊界を作り、その肉体に属して感覚と動作とに関する外分は自然界を作すのである。自然界に在るもの彼の肉体及びその感覚と動作とに属するものにして、その存在の源泉を彼が霊界に有する時は、彼が心性及び其智力と意力とより起り来る時は、之を名づけて相応者と謂ふのである。三五教の宣伝使にして実に主の神の神格を充分に認識し得た為であります。此物語に心を潜めて神の大御心のある所を会得し且つ相応の真理を覚り、現界に於ては万民を善道に救ひ、死後は必ず天界に上り天人の班の相伍して神業に参加せられむことを希望いたします。(第47巻 天国巡覧 跋文)

主神の国土は目的の国土である。目的とは用そのものである。主神の国土を称して用の国土と云うても可なる訳である。用これ目的である。主神は神格の始めに宇宙を創造し、形成し給ふや、初めは天界において為し給ひ、次は世界に於て至る処、動作の上即ち結果の上に用を発揮せむとし給うた。種々の度を経、自然界の終局点に迄も至らなければ已まない。自然界事物と霊界事物即ち世間と天界との相応は用に由って成就することを知り得るのである。この両者を和合せしむるのは即ち用である。此用を中に治むる所のものは形体である。此形体を相応となす即ち和合の媒介である。其形態にして没交渉なる時は此の如きことなきを知るべしである。自然界にありてその三重の国土中順序に従って存在するものは、すべて用を収めたる形態である。即ち用のため用に由って作られたる結果である。此の如き自然界中の諸物は皆相応者である。人間にあっては神の法則に従って生活する限り、主神に対して愛、隣人に対して仁ある限り、かれの行動は用の形態に現はれたものである。これ天界と和合する所の相応である。主神と隣人を愛するといふのは要するに用を遂ぐることである。人間なるものは自然界をして霊界に和合せしむる方便即ち和合の媒介者なることである。人間には自然界と霊界と二つのものは具はって居るものである。(第47巻 天国巡覧 跋文)

凡て神の法則に従ふものは悉く天界に相応すれども、之と反するものは皆地獄と相応するものである。天界に相応するものは皆善と真とに関係あるが、地獄と相応するものは偽りと罪悪に交渉せないものは無いのである。霊界は諸々の相応に由って自然界と和合する故に、人は諸々の相応によって天界と交通することを得るものである。在天の天人は人間の如く自然的事物によって思索せない。人間にして、もし諸相応の知識に住する時は、その心の上にある思想より見て、天人と相伍するものとなすべく、その霊的、内的人格に於て天人と和合せるものである。太古の人間は天人と互に相交はり相語り、天界と世間との和合は彼等を通して成就し、黄金時代と謂ふのである。天界の住民は地上の人間と交はること朋侶の如くであったが、此時代の人間は相応そのものより思索せずして、天と人との和合はあったけれども親密ではなかった。この時代を白銀時代と曰ふ。そして相応は知らぬにはあらざれども、其思索は相応に知識に由らなかった。善徳なるものは自然的のものであって、霊的たることを得なかった。これを赤銅時代と曰った。人間は次第に外的となり、肉体的となり了へ、天界の知識悉く亡び、霊界に関する事項も会得し難く黒鉄時代を現出した。冷酷なる真を現はし善が居らない時代である。さらに現今の時代は泥土世界と堕落し、善も真も其影を没する暗黒無明の地獄である。(第47巻 天国巡覧 跋文)

大本柏分苑

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