愛国の罠(佐藤優)

(1)

 先陣を切ったのはロシアのウクライナ侵攻だろうが、世界は今や帝国主義の角逐の時代に入った。戦後の世界秩序の再編(変更)を求める動きともいわれているが、これは世界が国家主義をもっての対立を激化させ、顕在化させているといえるだろう。その動きは日本でも国家主義による国家再編の動きを加速させている。これは大きく言えばグローバリズムに対抗する国家主義の動きともいえるが、日本では過日の参院選挙における参政党の躍進とそれに驚いた保守政党の国家主義化(高市政権の誕生)ともいえる。そして、高市の台湾有事をめくる発言を契機とする日本と中国の対立はこの東アジアにおけるその現れとみなしえる。この発言を契機に日本と中国は対立を激化させている。これは一体、なんと見たらいいのであろうか。多くの見方も分析もあろうが、僕はこれを戦争状態に入ったのだと認識している。戦闘なき戦争とでもいうべきだろうか。戦争は戦闘を伴うものばかりでないからであるが、この戦争が戦闘状態にすすむか、それ以前のところで終息するかはわからないが、日本と中国は戦争状態にはいりつつあるという認識をするべきだと思う。

 これはネットでみた発言であるが、佐藤優は日中間には偶然に戦争(戦闘状態)が発生するかもしれない状態があり、それが発生したら戦争に拡大しないための中国とのルート(政治的ルート)を創る必要があり、石破茂がそれを構築しょうとしていることを急げと言っていた。これは石破降ろしの最中だったから、石破続投への応援かと思ったのだが、今回の高市の発言は偶然の戦闘状態に匹敵する、戦争をよびおこす行為だったといえるのかもしれない。中国大使でもあった垂秀夫は今の日中間には戦争を拡大し本格化する止める裏ルート(政治的ルート)はないという。

「こうした事態になれば、常に持ちあがるのが<中国とのパイプはないのか>という問いである。しかしながらかつての「野中―曾慶紅ライン」のような信頼に裏打ちパイプはまや存在しないし、二階俊博元幹事長に代わる、<中国に顔が利く>大物政治家も見当たらない。こうした意味合いから見、冷却した関係は数年に及ぶ可能性はたかい」(『文藝春秋』「高市総理の対中戦略」垂秀夫)

垂はこういう事態の中で対中戦略の最構築を提言するが、これは体制的な提言であって、対中国戦略の根本的な検討ということが抜けている。彼は高市発言が内容としては間違っていなかった、ただ、「総理としてどの場面で発言したのか」「発言してよかったか」という疑念を呈している。そのうえで「実はこの問題は戦略なき言動がいかに国家の立場を揺るがすかを示す典型例である」と指摘している。僕は高市発言が間違っていると思うが、彼女の発言が戦略なき言動であるとは思わない。曖昧だが、保守的、また共産主義的な中国観と戦略があるのだと思う。もう少し突き詰めていえば、彼女の価値観と安全保障観が問題で

それが中国との対立(戦争)を誘発することが問題なのだと思う。たまたま、それが「台湾有事問題」の発言として露呈しただけである。これを逆手にとって日本との対立を政治的な自己基盤の強化にしょうとしている中国政府が戦争状態にしている、ということである。高市発言が外交的配慮や戦略的判断を欠落させているという批判はあるが、もっと本質的な問題は彼女の中国観である。それは国家観でもある。この高市発言が今、どうして出てきたのかということが、また、その発言の反応が問題なのだ。僕はこれが世界で国家主義(新帝国主義)が台頭し、世界の再編(再分割)の動きを激化させていることに原因があるとみている。

それは世界で「愛国主義」をあふれさせていることでもある。佐藤優はこういう

時代の中で、その根底にあるナショナリズムの問題を解明している。これは高市発言とそれに対する国民の反応、あるいは中国の反応を解くためのヒントの提出になっている。

(2)

この本は高市発言が起きる前になされた講義録であるが、これは高市発言後の状況の分析にも役立つ。高市発言にたいする僕らの立ち位置を明瞭にするヒントが散見しているといえる。高市総理の誕生も、「台湾有事」発言も参政党の参院選挙での躍進が背景にあるということはこの本からも読み取れる。参政党の躍進は反グローバリズムということを明瞭にできなかった日本の政党の虚を突くようなところからでてきたのだが、それは反グローバリズムが世界の右傾化(国家主義化)の動きとしてあることへの対応である。それはまた、国家とはなにか、国家の問題をどう考えるかの問いを内包している。国家主義(ナショナリズム)が前面化してくる時代の「現状分析」として。この本は7時間の講義にそって構成されているが、愛国心への危惧というか、その指摘には同意できる。

「こういった超越性は、民族の上に存在している原理です。そのために民族や狭い国益などの脱構築-つまり解体して作り上げていくような要素があるんですね。民族については語る時は、民族を超える超越性という価値観が必要なんです。どうしてかというと、民族に固執してしまうかというと、最終的には戦争になってしまうから。すくなくとも、その価値観をリーダーが持っているということは非常に重要ですし、市井に生きる我々も民族を超える価値観が必要になってくるわけです。」(『愛国の罠』佐藤優)。

民族というのは国家といいかえてもいいわけだが、それに固執すれば戦争にいたりつくというのは同意できる見方だ。ここで佐藤のいう超越性ということについて僕は違う考えがある。かつて僕らは「プロレタリア国際主義」ということで民族(国家)を超える価値観を持っていたが、これは本書で佐藤も指摘しているように現実性を持たなかった。佐藤はキリスト教徒だから、宗教がその価値観ということだが、国家(民族)は宗教を取り込むし、宗教は国家化するとおもえから超越的機能を果たすと思えない。僕はここで佐藤が言う市井に生きる我々が民族を超える価値観を必要とすると言っているところに共感するし、そこでの可能性を考える。

労働者は国境を超えるという価値観ではなく、市井に生きる人々の日常意識やそこを価値づける思想というべきかもしれない。かつて吉本隆明は自立と言ったのだが、それは自己の実存そのものに価値を表現した言葉だった。民族ではなく民俗的ある人々の価値観であり、文化と言ってもいいのだ。佐藤は「究極的価値は神と人間への信仰と希望と愛だ」というが、僕は市井に生きる人たちが持つ信頼と愛こそが究極的な価値だと思うが、ここで佐藤が民族や国家の絶対化を相対化しょうとしているところは理解できる、

 「自分たちは民族が持つ制約性からは逃れないことは分かっている。しかし、同時に民族を超える価値観をもたないと煮詰まって戦争になってしまう。民族について考えるとき、そういう怖さがあるということをよく覚えておいてください」(前同)。

 同意できるところだ。民族の持つ制約性ということは、国家の制約性でもあり、これをどう超えるかは難問である。労働者は国境を超える、社会主義国家は民族や国家を超えるという幻想があった。僕らはインタナショナルという歌にこめてその実現を希求していた。でも、その幻想から解き放たれたのが僕等の歴史だった。佐藤はまた次のようにいう。

 「愛国心は、人間によって作り出された究極以前の価値である。愛国は神のような超越的価値を付与してはならない。そのために重要なのは愛国心を自然なものとみなさずに、社会契約によって成立した憲法によって規定された<憲法愛国主義>という枠をはめることだ」(前同)

 民族の持つ制約性ということであるが、これは国家の制約性でもあるが、それは何処にあるのだろうか。それは民族や国家が共同の幻想性としてあり、そこを逃れることの難しさだ。そして、そこには国民(市民や地域住民)が共同幻想を創るということがあるからだ。それゆえに、国家や民族の制約を免れるには国家や国民からの孤立ということがある。自立とは孤立と同義的なところがある。

この自立が国家や民族とは違う共同性を創出するということだが、孤立を脱するのは抵抗である。国家や民族への不断の反抗(抵抗)が国民の究極の価値の実現、あるいはそこから国家や民族の相対化も可能になる。佐藤のいう「憲法愛国主義」はいいが、そこには社会契約として憲法をつくるという国家に対する抵抗(革命)がなければならない。それなしに憲法は作れないのだし、憲法を生かすこともできない、憲法の条文ではなく憲法の精神は抵抗を源泉にしなければうまれない。

(3)

 この本の最初には愛郷心のことがでてくる。愛郷心はパトリといわれ愛国心ともいわれるが、正確には愛郷心は愛国心(ナシヨナリズム)とは違う。ただ、愛国心にはその基礎としてあると言われている。この愛郷心と愛国心(ナショナリズム)は違うものだし、それを明確にしておかなければならない。愛郷心は古くからあったものと推察される。それが愛国心に転じた、あるいは同じものとみなさるようになったのが近代においてだ。民族や国家が近代において成立したからだ。愛郷心は人々の対象に対する関係の意識そのものとして生まれたものと見なせる。人間の自然との関係は自然を身体化することであり、それは幻想を生成するものである。幻想とは意識のことであり人間が生理的身体とは別の意識的身体をもつことであり、それは意識化(身体化)された自然でもあった。このところから生まれる自然(対象)ヘの愛着が愛郷心である。それは農耕社会のような段階では人間の関係する対象は自然に制約されることが多いから愛郷心は自然なものとされる。

この愛郷心は自然(対象)ヘの愛であり、自然な人間感情として肯定的に考えてもいいものだ。その意味ではナショナリズムとは違うものだ、これがあたかもナシヨナリズムの基礎としてあるように論じられるのは問題である。そこは難しいところだ。何故にそうなのかいえば、国家の存在と生成ということの把握が難しいからである。世界を最も対象化しえた思想ともくされたマルクス主義が国家や宗教や民族といった世界を対象化しえなかった、という問題がある。佐藤は基本的にはマルクス主義をベースにしながら、国家とか、民族とかを論じている。「国家とはなにか」「ナショナリズムとは何か」などの項目としてそれはある。この点では良く探求されているが、やはり、国家論に対するマルクス主義の限界を超えたとはおもわれない。ベネディクトー・アンダーソンやアーネスト・ゲルナーなどを取り上げ国家問題や民族問題の言及をしているのはおもしろかったが、大澤真幸がナショナリズムをNHKの100分の名著で論じているときに感じたような不満があった。大澤真幸はアンダーソンの『想像の共同体』をとりあげているのだが。どいうわけか吉本隆明の共同幻想という提起を避けているように思う。吉本の共同幻想や三島由紀夫の文化防衛論は国家問題への提起であり。それを理解するのは難しかったが、そこを避けているように見えるのは不満だ。

 僕は愛郷心がナショナリズムに転化されて行った秘密を共同幻想の歴史的展開という視座で解明できると思うし、その視座があればもう少し明瞭に出来ると思っている。

 

後半では「レーニンの『帝国主義』でウクライナ戦争を読み解くやと「トランプによって世界はどう変わるか」など興味深い講義がある。最後に「これからの日本が生き残るために」「愛国心を間違わないためにも」などもそうだが、これらは読者によく読んで欲しと言っておく。そして、最後にもう一度、高市発言について言及しておこう。これは「愛国心を間違えないために」と関係することであるからだ。

高市発言は不用意な発言であったことはあきらかになっていてその批判は広がっているが、やはり、彼女が中国に対する強固な発現をすれば、中国の反発を招きくというよりは自己の政治的基盤が広がるという意識があったこと、そこが一番の問題だと思う。これは外国人の規制問題もそうだが、価値観や安全保障観の提起が支持を拡大するということを無意識も含めて狙ったのだと思う。価値観や安全保障観が国家主義的であることが問題なのだが、彼女の政治的パフォーマンスというか、国家主義的な政治的対応が自己の政治支持を高めるという思惑が問題なのだと思う。このことはこれに反発した中国の対応も同じなのだと言える。さらにそれに反発する発言も。連鎖反応のように拡大する日中対立は彼女にとっては自己の政治的支持を高めるための契機であり、その政治目的がある。

そのここには戦争が国家観の紛争事で起きるというよりも、国家の統治権力を強固なものにするための権力者の意図が働いていることが見える。いつだってそうなのだが、これはまた見えにくい。国家間対立や抗争は国家間のもめ事に発するように見えても、国家権力の統治強化(国民の支持を得る)という意図から発していることがあり、ここはよく見ておかなければいけないし、今はそれをよく見るチャンスかもしれない。

このときにナショナリズムや国家主義は衣装としてあるのだが、対抗意識として有効に働く。国家目線の意識(共同幻想)が浸透してくるのだ、それによって国家は自己の政策を楽々とすすめえる。例えば、防衛費という名の軍事予算を拡大させられるし、国民の「貯金箱」も狙う。愛国心を訴えて防衛債を買わせるように。この動き、中国に脅威感を持たされ、ナショナリズムに取り込まれていないことが大事だ。これは日本と中国の国民にいえることだ。今は、両国の市民や地域住民も冷静であり、国家の働きかけからはさめている。中国の市民や地域住民の動きもそう伝えられている。そこが救いだし、可能性なのだが、端緒にある日本と中国の戦争が本格化しないたために愛国心などを警戒することが大事だ。このためには「愛国心を間違えないため」という提言は大事な提言だと思う。

大本柏分苑

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