真に依信すべきは主神一柱のみ(二) ―『月照山』に学ぶ― 藤 井 盛
○五千五百首のお歌
日本敗戦八十年の今年は、大本第二次弾圧事件解決八十年の記念の年である。
弾圧事件で検挙された出口聖師が昭和十七年八月七日に保釈出所され、お歌を詠まれている。昭和十七年九月に詠まれた一千六百首が『朝嵐』(あいぜん出版・平成九年)に。昭和十七年十一月から昭和十九年十一月までが大半の三千九百首余りが『月照山』(愛善苑・平成五年)に、それぞれ納められている。これらのお歌の合計は、五千五百首と膨大である。
○出口聖師を誤る信徒
『朝嵐』のお歌は、大半が事件に関するものだが、『月照山』には、事件関係はわずかしかない。しかしそのお歌は、出口聖師の御神格及び弾圧が型(※1)となった日本の敗戦を象徴する内容である(番号は『月照山』に振ってあるもの)。
「357 よを救ふめしやのみたまと知らす(ず)してくるしめし果てのくにのさま見よ」
「464 大宇宙はらに納めし化けもの(※2)をしらみのさは(ば)く闇夜なるかも」
救い主であり、みろくの大神(弥勒最勝妙如来:入蒙記八章「聖雄と英雄」)である出口聖師を苦しめた虱(しらみ)のような軍事国家が崩壊している。
一方、『月照山』の初めの方に出て来たお歌には驚いた。昔から、その内容を不思議に思っていた霊界物語(校定版)三十一巻の余白歌が出て来たからである。『月照山』のお歌(○をつけた)と三十一巻余白歌を並べてみる。
○「65 熱心なるまめひとの中にともすれは(ば)われをあやまるひとの沢なる」 (『月照山』)
「熱烈な信仰はげむ人の中に吾を誤る曲(まが)ぞ沢(さは)なる」 (三十一巻一三章)
○「41 より以上われを過信し依頼して吾が身魂まて(で)やふ(ぶ)るまめひと」 (『月照山』)
「より以上吾が力量を過信して吾が霊体(みたま)まで破る人あり」 (三十一巻二一章)
○「40 朝夕にわれを敬まひ愛しつヽわれをそこなふひとのおほかり」 (『月照山』)
「朝夕に吾を敬ひ愛しつつ吾をそこなふ人の多かり」 (三十一巻二一章)
○「37 心せまきまめ人たちにかこまれてみうこ(ご)きならぬ吾身なりけり」 (『月照山』)
「心せまき教(おしへ)の御(み)子(こ)に囲まれて身動きならぬ
吾が身なるかな」 (三十一巻一九章)
○「44 精霊の世かいをすくふ神の使を現世のかみと見る人のみなる」 (『月照山』)
「精霊の世界を救ふ神の使(つかひ)をこの世の神と見るはうたてき」 (三十一巻一七章)
熱心な信徒が、出口聖師のことを過信し、誤って理解していることに苦しまれている。また、御自身を、精霊の世界を救う神の使いと言われている。
(※1)出口聖師拘束期間(昭和十年十二月八日~昭和十七年八月七日)と連合国軍の日本占領期間(連合国軍厚木到着の昭和二十年八月二十八日~サンフランシスコ平和条約発効の前日、昭和二十七年四月二十七日)が同じ六年八月間。
(※2)「神は時機を考へ、弥勒を世に降し、全天界の一切を其腹中に胎蔵せしめ」(四十八巻一二章「西王母」)
○イエス・キリストと同じ苦しみ
出口聖師は入蒙で、御自身のキリスト再臨の証明をされている(釘の聖痕:入蒙記一五章「公爺府入」)が、自分の苦しみはイエス・キリストと同じ、あるいは、それ以上だと詠まれている。
○「55 狂信なる御弟子のために苦しみし神のひとり子に似たるわれかな」 (『月照山』)
「熱心な御弟子(みでし)のために苦しみし神の独(ひと)り子吾に似たるも」 (三十一巻二一章)
○「56 古へのエスキリストもなめましきそのくるしみを吾に見るかな」 (『月照山』)
「古(いにしへ)のエスキリストも嘗(な)めましきその苦しみを吾に見るかな」 (三十一巻二一章)
「古のエスキリストも嘗めまじきその苦しみを吾に見る哉」 (入蒙記五章「心の奥」)
キリスト教の教会でよく見るのが、十字架に架けられたキリスト像とか十字架である。信者がそれを目にして祈るとき、思いはキリストに向けられるのは当然のことだろう。
出口聖師はキリストと同様に、あるいはそれ以上に、自分が祈りの対象となることの苦しみを述べておられるのではないか。
○皇神の光を忘れる
信者の誤りの原因を、さらに端的に詠まれたお歌がある。
○「80 まめ人の神をわすれてたヽ(だ)われを崇むることのいかに苦しき」 (『月照山』)
「まめ人の神を忘れて只(ただ)吾をあがむることの如何(いか)に苦しき」 (三十一巻七章)
○「54 求むへ(べ)きものをもとめす(ず)只われに権威をしゆるひとそ(ぞ)おそろし」 (『月照山』)
「求むべきものを求めず只(ただ)吾に権威を強(し)ゆる人恐ろしも」 (三十一巻九章)
求むべきものは神様で、崇める対象は出口聖師ではないということ。これをさらに明確に詠んだお歌が、三十一巻の余白歌にある。
「教主(をしへぬし)を崇(あが)むるために皇神の光忘るる歎(うた)てきまめ人よ」 (三十一巻四章)
語句の「歎(うた)てき」の意味は、「嘆かわしい、情けない、気に入らない、いやだ」などである。皇神の光を忘れ、教主(をしへぬし)を崇(あが)むること。つまり、主の神でなく出口聖師を祈りの対象とすることへ、余程の御不満をお持ちであったということである。
そして『月照山』に「主の神に仕えん」とのお歌がある。
「252 すみきりて形も見へす(ず)声もなきまことの神は御中主なり」
「592 すみきりてかたちも見へす(ず)こゑもなきまこ
との神は主のかみなりける」
「1888 すみきりてかたちも見へす(ず)こゑもなきま
ことの神につかへまつらん」
澄みきって形も見えず、声も聞こえない主の神、御中主こそ真の神であり、この主の神に仕えるということ、信仰対象とすること。
○依信すべきは幽の幽神たる主神
主の神への信仰が、「神素盞嗚の大神が山上の神訓」に示してある。一つの文章で、真(まこと)の神は幽の幽神だと四回もあるほどの徹底ぶりである。
「神素盞嗚の大神が山上の神訓
(六十三巻四章「山上訓」)
(一) 無限絶対無始無終に坐しまして霊力体の大元霊と現はれたまふ真(まこと)の神は、只一柱在(おは)す而(の)已(み)。之を真の神または宇宙の主神といふ。
汝等、この大神を真の父となし母と為して敬愛し奉(たてまつ)るべし。天之御中主大神と奉称し、また大国常立大神と奉称す。
(二) 真の神は大国常立大神、又の名は天照皇大神、ただ一柱坐しますのみぞ。
(三)真の神は、天之御中主大神ただ一柱のみ。故に幽の幽と称え奉(まつ)る。
(四)真(しん)に敬愛し尊敬し依信すべき根本の大神は、幽の幽に坐します一柱の大神而(の)已(み)」
一方、この御教えを示された出口聖師の御霊である神素盞嗚尊は、幽の顕神である。主の神
の顕現であり、変現ともある。
「(一)厳の御霊日の大神、瑞の御魂月の大神は、主の神即ち大国常立大神の神霊の御顕現にして、高天原の天国にては日の大神と顕はれ給ひ、高天原の霊国にては月の大神と顕はれ給ふ。
(二)真の神の変現したまひし神を、幽の顕と称へ奉る、天国における日の大神、霊国における月の大神は何れも幽の顕神なり」
真に依信すべきは幽の幽神。神素盞嗚尊は幽の顕神、厳の御霊も瑞の御霊も幽の顕神で真に依信すべき幽の幽神ではないこと。日頃の御礼拝にも関わって来る話である。
○天祥地瑞や『朝嵐』でも念押し
この山上訓は六十三巻にある。大正十二年五月の口述で、出口聖師は五十一歳である。真(まこと)の神や幽の幽神についてのお示しが、出口王仁三郎著作集(一巻)にもある。
(一)明三六・九(32歳)「いろは歌」
「ひろい世界に只一柱、これを誠の神という」
(二)明三七・一(32歳)「本教創世記」
明治三十七年にはすでに幽の幽神が説かれている。しかも、昭和九年の天祥地瑞の表現とほぼ同じである。
「幽の幽に在ります神は、天之御中主大神、及別(こと)天(あまつ)神(かみ)である。
幽の顕に在ります神は、天照大神、素盞嗚命等の大神である。
…右の区分を宜しく了得し置かねば、神理を学ぶに当って迷うことあれば」(本教創世記八章)
(三)大五・九(45歳)「大本略義」
独一真神の観念を有しなければ、迷信に堕するとある。ただ、その観念を伝えるのは至難。
「大本の真意義を根本的に理会せんが為には、是非とも宇宙の独一真神天之御中主神に就きて、判然した観念を有することが必要である。これが信仰の真骨頂となるのであって、この事の充分徹底せぬ信仰は、畢竟(ひつきよう)迷信に堕して了(しま)う」
「但し神に就きての誤らざる観念を伝える事は、実に至難中の至難事である。其(その)神徳が広大無辺であると同時に、其の神性は至精至妙で、いかに説いても、何(ど)う書いても、これで充分という事は、人間業では先ず望まれない」
(大本略儀「真神」)
(四)大一二・五(51歳)63巻「山上訓」
「(前述のとおり)」
(五)昭九・七(63歳)天祥地瑞80巻総説
天照大神、神素盞嗚尊は幽の顕神で、幽の幽神の御(み)水(い)火(き)からお生まれになった体神とある。
「幽の幽神は天(あめ)之(の)峰(みね)火(ひ)夫(を)の神以下皇典所載の天之御中主神及び別(こと)天(あまつ)神(かみ)迄の称号にして、幽の顕なる神は天照大神、神素盞嗚尊等の神位に坐します神霊を称するなり。天照大神、素盞嗚尊等は、幽の幽神の御(み)水(い)火(き)より出生(しゆつしやう)されたる体(たい)神(しん)(現(げん)体(たい))なるが故にして、尊貴極まりなき神格なり」
(八十巻総説)
(六)昭一七・九(71歳)『朝嵐』
弾圧事件の内容が大半の『朝嵐』でも幽の幽神が説かれている。
「967 造化神は天帝天之御中主幽の幽なる神の奉称」 (「朝嵐」次も同)
「968 天照大神または須佐之男の神々たちは幽の顕神」
(七)昭一八・九(72歳)『月照山』
前述の1888のお歌「まことの神につかへまつらん」は、昭和十八年九月に詠まれたもの。
こう並べてみると、出口聖師が、まさに生涯を貫いて、幽の幽神たる主の神への信仰を伝えておられることがよくわかる。
霊界物語の口述が終わっても、なお主の神への信仰が理解できない信徒。御昇天七十六歳の四年前、七十二歳になってもくどく説かれる出口聖師に、果たして我々はきちんと応えているだろうか。
○感謝祈願詞(みやびのことば)
前述の(六)『朝嵐』のお歌「造化神は天帝天之御中主」についての説明となるものが、(二)「本教創世記」にある。
「天地万物の始は、造化の神徳に依りて成る者である。真の神は生成化育の徳を具有し給う故、神気の活動して此(この)天地を作り、次に万物を生産し給うて、霊力体の妙用を全く遂成し玉うのである」
(「本教創世記」第四章次も同)
「造化の大元を司り玉う神は、天御中主神と謂いて、無始無終の神である。又天帝とも上帝とも唱えて、宇宙間独一真神である。無始無終の『力』と無始無終の『体』とを以て、無終の万物を造り玉う。其(その)功は亦、無始無終である」
説明はさらに続く。造化三神、天帝は大精神、一霊四魂を活物に賦与、三元八力で体を造り万有に授与、太陽、大地、太陰で各位の守神等々。これはまさに感謝(みや)祈願(びの)詞(ことば)そのものである。感謝祈願詞の奏上で、主の神への信仰を深めることができるということではないか。
「感謝祈願詞(みやびのことば) 感謝
至大天球(たかあまはら)の主宰(つかさ)に在坐(ましまし)て。一霊四魂(ひと)、八(ふ)力(た)、三元(み)、世(よ)、出(いつ)、燃(むゆ)、地(な)成(な)、弥(や)、凝(ここの)、足(たり)、諸(もも)、血(ち)、夜出(よろづ)の大元霊(もとつみたま)、天(あめ)之(の)御(み)中(なか)主(ぬしの)大(おほ)神(かみ)、霊系祖(たか)神高(み)皇産霊大神(むすびのおほかみ)。体系祖神神皇(かむみ)産霊(むすびの)大神(おほかみ)の大(おほ)稜(み)威(いづ)を以て、無限絶対(かきはに)無始無終(ときは)に天地万有(よろづのもの)を創造(つくり)賜(たま)ひ。神人(おほみたから)をして斯(かか)る至真至美至善(うるはし)之(き)神国(みくに)に安住(すまは)せ玉(たま)はむが為(ため)に、太陽太陰(ひつき)大地(くぬち)を造(つく)り、各自々々(おのもおのも)至粋(き)至(よ)醇之(き)魂力体(みたま)を賦与(さづけ)玉ひ。亦八百万(やほよろづの)天使(かみ)を生(うみ)成(なし)給ひて万物(すべて)を愛護(まもり)給ふ、その広大(ひろき)無辺(あつき)大(おほ)恩恵(みめぐみ)を尊(たふと)み敬(ゐやま)ひ恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す」 (六十巻一六章「祈言」)
○主の神の降臨
天祥地瑞八十一巻、霊界物語の最終巻にサールの国王との戦いに負けて、月(つき)光(みつ)山(やま)に主の神の神殿を建てたアヅミ王の物語がある。この月光山を詠んだお歌が『月照山』に出て来る。
「1230 月(つき)光(みつ)山(やま)ふく春風のやはらかくゆうへ(べ)のもりに小鳥なくなり」
「1358 月光の山はうらヽにかヽ(が)やけり主の大神の天くた(だ)りましてゆ」
月光山(つきみつやま)へ主の神が降臨されて、春風が吹き小鳥が鳴く麗(うらら)らかなお山となったと詠まれている。また、八十一巻にその降臨場面がある。
「一柱の神は主(ス)の大神と見えて御(おん)姿(すがた)いたく光らせ給へば、拝み奉(まつ)るよしもなく、わづかにその御(おん)影(かげ)を想像するばかりなりけるが、白衣(びゃくえ)を纒(まと)ひ右(め)手(て)に各(おのも)自(おのも)鉾(ほこ)を持たして立ち給ふ神は、正(まさ)しく高(たか)鉾(ほこ)の神、神(かみ)鉾(ほこ)の神にましましける」
(八十一巻四章「遷座式」以下も同)
そして、神鉾の神がお歌を詠まれる。
「アズミ王よ恐るゝなかれ主の神の御(み)国(くに)助くと天降(あも)りませしぞや」
また、高鉾の神もお歌を詠まれ、三柱の神は御(み)姿(すがた)を隠された。
「今日よりは元津心にたちかへり誠の上にも誠尽せよ」
なお、四十七巻にも大神が一個の天人となって降(くだ)って来られることが示してある。
「第三天国の天人等の前に神其儘(そのまま)太陽となつて現はれ給ふ時は、各(おのおの)眼(まなこ)晦(くら)み頭痛を感じ苦みに堪(た)へませぬ。それ故大神様は一個の天人となつて、善相応、真相応、智慧証覚相応の団体へお下り遊ばし、親しく教を垂れさせ給ふ」 (四十七巻一三章「下層天国」)
また、『月照山』には、桶伏山、つまり本宮山に主の神の光を仰ぐとのお歌がある。
「1333 とこやみのよを照らさんと主の神の光を仰ぐ桶伏の山」
このお歌を、まさに実現すべく昭和二十一年六月、本宮山に月山富士が築かれた。弾圧で破壊された礎石などの石片を寄せ集め、頂上には富士山大噴火(西暦八○二)で落下した霊石が鎮められている。
それより出口聖師は、色紙に月山富士を描かれ御神体とされた。幸いにも、その一枚が我が家にもある。
○伊都能売の御霊
出口聖師は神素盞嗚尊であり、伊都能売の御霊である。主の神は、伊都能売の御霊以外には、肉体を持って無始無終に御経綸を行うことはできないと示されている。
「神素盞嗚尊の聖霊…伊都能売御魂(弥勒最勝妙如来)となり」 (入蒙記八章「聖雄と英雄」)
「瑞の御霊は…今や伊都能売の御霊と顕現」
「瑞の御霊の大神は…幾回となく肉体を以て宇宙の天界に出没し、無始無終に其の経綸を続かせ給へば、他の神々は決して其の行為に習ふべからざるを主の神より厳定されつつ今日に至れる」 (天祥地瑞七十三巻総説)
一方で、伊都能売の大神は天之御中主大神と尊称するとのお示しもある。ただ最後の部分は、出口聖師の御昇天後、聖道たる主神への信仰が崩れるとも取れる。
「神仏無量寿経
第一神王伊都能売の大神の大威徳と大光明は最尊最貴にして諸神の光明の及ぶところにあらず…アア盛んなるかな、伊都能売と顕現したまふ厳瑞二霊の大霊光、この故に天之御中主大神、大国常立大神、天照皇大御神、伊都能売の大神、弥勒大聖御稜威(みいづ)の神、大本大御神、阿弥陀仏、無礙光(むげくわう)如来、超日月光仏と尊称し奉(たてまつ)る…我この世間において、伊都能売の神となり、仏陀と現じ基督(キリスト)と化(な)り、メシヤと成りて…瑞霊世を去りて後、聖道漸(やうや)く滅せば」 (六十七巻五章「浪の鼓」)
(令7・1・15記)
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