神懸かりについて ―善の神が懸かるよう霊(みたま)を洗濯し、善の種を撒く― 藤 井 盛
○上(うへ)谷(だに)修(しう)行(ぎやう)場(ば)
大本の開教は、明治二十五年二月三日の出口なお開祖への国祖国常立尊の神懸かりによるものである。また、霊界物語三十七・三十八巻には神懸かりの場面が多く出て来る。
四月七日、綾部にある上(うえ)谷(だに)厄(やく)神(じん)神社の祭典に参拝した。神社の社務所が昔のこもり堂で、神懸かりがあった上谷修行場であった。
上谷での修行は、明治三十二年八月から一ヶ月間、四方伊佐衛門宅に宿泊して行われ、修行があったこもり堂の引き戸には、当時の修行者の落書きが残っている。
祭典終了後、上谷修行場での幽斎修行が記された霊界物語三十七巻(二四章「神助」)を、皆さんの前で拝読した。
拝読箇所には、修行は極めて良好な結果を残し、修行者の多くが神人感合の境に達して、神道の尊厳無比を自覚するに至ったなどとあった。
「神人感合の境(きやう)に到達…世 界戦争を予告したりする神 が憑(うつ)て…天眼通、天耳通…神道の尊厳無比を自覚…大気津姫の如く、自分の耳から粟を幾粒となく出し…奇蹟があつた」 (三十七巻二四章「神助」)
なお、出口聖師は、明治三十一年三月(旧二月)の高熊山入山後すぐの四月に、斉藤家の離れを借り幽斎修行を始めておられる。
また、明治三十二年七月の綾部入り後には、修行場を裏町の土蔵から中村竹蔵宅へ移し、四方祐助宅などを経て八月、修行場をこの上谷に移し、本格的に霊学研究を始めておられる。
(『大本七十年史』上巻一九一~一九四頁、「うろー狭依彦氏」作成年表参考)
一方、この上谷での修行に関する歌が『歌集 青嵐』にある。八十四首に上(のぼ)る。なかでも猿田彦の神が出口聖師に懸かり、出口聖師の御神格を「伊(い)都(づ)能(の)売(め)の神」と明らかにしているのが驚きである。霊界物語口述開始の大正十年以前の明治三十二年の段階である。
「かりごもの乱れたる世を治むべき真(まこと)の神(かみ)は伊都能売の神
厳(いづ)霊(みたま)瑞(みづ)の霊(みたま)と結びあひて現はれまさん伊都能売の神
地の上に天(あま)津(つ)天(み)国(くに)を樹(た)てむとて神のまにまに天(あ)降(も)りし伊都能売」
また、歌のなかで多いのは、福島寅之助に関するものである。
「丑(うし)の年にうまれた俺は寅之助丑寅(うしとら)金神さまよと威張る
福島にかかりし霊(れい)は曲(まが)津(つ)神(かみ)世を乱さむとたくら
みゐるなり」
福島寅之助は「正直の評判をとつて…人間としては申分のない心掛のよい人」(三十七巻二五章「妖魅来」次も同)。だからこそ悪魔が懸かるのだと。
「其人物に信用がなければ、世人が信用せない…悪魔は必ず善良なる人間を選んで憑(うつ)りたがる…正直だから善人だから、悪神がつく筈(はず)がないと思ふのは、大変な考へ違である」
加えてこうある。
「神懸(かむがかり)の修行する者は余程胆力のある智慧の働く人でないと、とんだ失敗を招く」
○伊太彦の神懸かり
霊界物語の中で、私の好きな神懸かりの場面がある。伊太彦に使命を果たさせるため木花姫が懸かり、美しくなった伊太彦にブラヷーダが恋をする場面である。
「伊太彦はスダルマ山の麓(ふもと)に於(おい)て暫(しば)らく神(かむ)懸(がかり)状態となつてより俄(にはか)に若々しくなり、躰(からだ)の相好から顔の色迄(まで)玉の如く美しくなつて了(しま)つた。これは木花姫命の御霊(みたま)が伊太彦に一つの使命を果さすべく、それに就いては大変な大事業であるから御守護になつたからである」
(六十三巻五章「宿縁」次も同)
自分が美しくなったとは知らない伊太彦に対して、ブラヷーダが求愛する。
「三十二相揃うた女神の様(やう)なお姿をして厶(ござ)るぢやありませぬか…只今(ただいま)神様が妾(わたし)の耳(みみ)の辺(はた)でお囁(ささや)きになるのには、お前の夫は、今晩お泊りになるあの宣伝使だと仰(おつ)有(しや)いました」
出口聖師は、五十七巻から六十巻を皆生温泉浜屋旅館で口述されているが、その五十七巻「序文」に八大竜王が鼓を打って迎えたとある。
「出雲富士とて名も高き大山の雄姿を拝し…八大竜王ナンダナーガラーシャ(歓喜(くわんき)竜王)、ウバナンダ(善(ぜん)歓喜(くわんき)竜王)…タクシャカ(視(し)毒(どく)竜王)…は鼓をうつて吾ら一行を迎へ給ふ」
(五十七巻「序文」)
伊太彦が、八大竜王のうちタクシャカ竜王を言向和した後、次にウバナンダ竜王を言向和すと、スダルマ山の麓で意気込む。伊太彦がタクシャカ竜王を言向和したのは、神懸かりによると玉国別が言う。
「伊太彦さまは…
最前から彼(あ)んな
事を云つてゐま
したが、神界の御
経綸によつて神懸になつてゐたのです…普通の人間ならば如何(どう)してタクシャカ竜王を言向和す事が出来ませう。やがて霊(みたま)の素性が分るでせう…非凡の神格者なる事を」(六十三巻三章「伊猛彦」)
伊太彦は、非凡の神格者、元よりそういう霊性なるが故に木花姫命がお懸かりになり、美しくなって御経綸をさせているということ。
なお、旧約聖書に、へびにだまされ、妻エバが神に背き木の実を食べてエデンの園から追い出され
る話(創世記第三章)がある。このへびに当たるのか、
タクシャカ竜王が胞場(えば)に憑依し、人々を罪の奴隷にしている。こういう悪魔の霊(みたま)タクシャカ竜王を、伊太彦が改心させる。
「天界の海王星より現はれし
汝(なんぢ)タクシャカ竜王は…(・・・)胞場(えば)
の身魂に憑依して 神の教に背かし
め 蒼生草(あおひとぐさ) を悉(ことごと)く 罪の奴隷と汚したる…汝タクシャカ竜王よ 吾が宣り伝ふ言の葉を 心の底より悔悟して 喜び仰ぎ聞くならば 今こそ汝を救ふべし」 (六十巻九章「夜光玉」)
また、スダルマ山は、神素盞嗚尊が山上訓で「真に依真すべきは主神一柱のみ」とお示しになられた山である。
○竜雲の改心
今度は逆に、悪霊の憑依について。サガレン王を幽閉し、妃のケールス姫に取り入り権勢を誇った竜雲。天(あめ)の目(ま)一つの神により改心させられ、悪霊が去った時の描写がある。憐れなものである。
「今迄の竜雲は大兵(たいひやう)肥満にして、一見温良の神人の如く見え居たりしが、己(おの)が悪事を悔悟すると共に、深く身魂(しんこん)に浸み渡り居たる曲神の、身内より脱出し終りたる彼の身は、忽(たちま)ち縮小し、萎微(いび)し、以前の如き気品もなければ、打つて変つた痩坊主の見るもいぶせき(=きたならしい)姿となりしぞ憐れなり」
(三十六巻二二章「春の雪」以下も同)
同様のお示しで
「一旦悪魔の容器となつて縦横無尽に暴威を振ひ、旭日昇天の勢を以て数多の部下に臨みたる竜雲も、悪霊の神威に恐れて雲を霞と脱出したるより、今迄威風堂々たりし彼も今は全く別人の如く、身体の各部に変異を来し、非力下劣の生れながらの劣等人格者となつてしまつた」
世界で、大国の指導者が思いのままに振る舞っている。憑依した悪霊がその身にあるとすれば、脱出によりこういう状態になるのだろう。
また、人の善悪の行いは、守護する神や霊(みたま)の善悪によるものだとある。
「総ての人は憑霊の如何(いかん)によつて其(その)身魂(しんこん)を向上せしめ、或は向(かう)下(か)せしめ、善悪正邪、種々雑多の行動を知らず知らずに行ふものなるを悟らるるなり。神諭にも、
『善の神が守護致せば善の行ひのみをなし、悪の霊(みたま)が其肉体を守護すれば悪の行ひをなすものだ』
と示されてあるは宜(うべ)なりと謂(い)ふべし」
しかし、竜雲が正義公道を踏み、信仰を重ねれば、以前に勝る聖人君子になるともある。
「されどもこの竜雲にして、再び正義公道を踏み、信仰を重ね、神の恩寵に浴しなば、以前に勝る聖人君子の身魂(しんこん)を授けられ、温厚篤実の君子人(くんしじん)と改造さるるは当然である」
その後、竜雲は宣伝使竜山別となった。
「あゝ勇ましや勇ましや 晴れて嬉しき宣伝使
竜山別と改めて 四(し)方(ほう)にさやる曲(まが)津(つ)霊(ひ)を 風に草葉のなびく如 一つも残さず言向けて」
(四十二巻二三章「竜山別」)
なお、竜山別は瑞霊言霊別の長子。竜雲へとの生まれ替わりを経て改心し、宣伝使となった。
「聖地ヱルサレムの天使言霊別の長子なる竜山別といふ腹黒き神(か)人(み)は、始(し)終(じう)野心を抱蔵してをつた」 (五巻一三章「神憑の段」)
○武内宿禰の出口聖師への神懸かり
上谷厄神神社の祭神武内宿禰は、神功皇后の神懸かりの折、古事記では審神者(さにわ)に、日本書記では琴の奏者となっている。神島開きに関しては、日本書記がベースになっている。
なお、素盞嗚尊も上谷厄神神社の祭神との説明が出口孝樹氏からあった。『道の栞』にこうある。
「速(はや)素盞嗚尊は瑞の霊(みたま)、厄(やく)除(よ)けの天使(かみ)にしてこの世の救い主なり」(下一八)
御(お)霊(みたま)が素盞嗚尊である出口聖師は、この神社と関係が深いことになるが、神島開きに当たって、出口聖師に祭神武内宿禰の神懸かりがあった。
神島開きは、武内宿禰の神懸かりにより始まっている。内藤正照氏が出口聖師に聞かれたことを、徳重高嶺氏が日記(昭和六年一月八日)に残している。
「それより畝び山に参り 土米をとりて大阪に帰る その折 武の内のすくね 神懸になり 神島をさがす事となる」
さらに大正五年五月十日、難波出張所で神懸かりがあった。これを示す掛け軸がある。
「なにはかた神のみ船を漕ぎゆけば
日月輝く龍の宮居に」
大正五年六月五日に村野氏らにより神島が発見されるが、この歌の「なにはかた」で、神島が瀬戸内にあることが示されたようだ。
○上谷修業での出口聖師のお示し
『大本七十年史』上巻の上谷修行のあるページ(一九三)に、「上谷修行の際 上田会長によって書きのこされた裏の神諭」が載せてある。
私はこの複製を出口信一先生が開催されていた「出口王仁三郎作品展」で購入した。
末尾の日付けは「三十六年七月廿一日」で、明治三十二年から一ヶ月間という上谷の修行期間とは合わない。しかし、七十年史に「上谷修行の際」とあるので、何らかの根拠があるのだろう。
「善の神が守護致せば善の行ひ」をなすとある。善の神が懸かるよう「神さまに霊(みたま)を預けて」「霊(みたま)を洗濯し」、「善の種を撒けば善の報いがあること」を自覚し、「神様の御(おん)目(め)に留(と)まる行いをして万劫末代の善の種を撒くこと」としたい。
(漢字は私が当てた)
「じん(人)みん(民)わ(は)かみ(神)さまのぢきぢき(直々)のみこ(御子)であるからにんげん(人間)ぐらいこのよ(世)にけつこうなものわ(は)ないが また にんげん(人間)のにくたい(肉体)のいのち(命)ほどもろいあさ(浅)ましいものわ(は)ない つゆ(露)のいのち(命)をつなぐ一トすじ(筋)のほそ(細)いいと(糸)がき(切)れたがさい五(最後) きんぎん(金銀)ざいほう(財宝)つまこ(妻子)にもはな(離)れてつち(土)のなか(中)へうづ(埋)められるかやか(焼)れるか にんげん(人間)のにくたい(肉体)ぐらいあさ(浅)ましきものわ(は)なし おう(大)かぜ(風)のまへ(前)のともしび(灯)どうぜん(同然) こんなつまらんにんげん(人間)のみ(身)のうへ(上)でもかみ(神)さまにかんじん(肝心)のみたま(霊)さへあず(預)かりてもら江(え)ば そのみたま(霊)わ(は)かぎ(限)りなきなが(長)きいのち(命)をたも(保)ちてまこと(誠)にけつこうなしんこく(神国)にす(住)むことがでけるのである にんげん(人間)もみたま(霊)がなかりたらわらにんぎよう(人形)もおな(同)じこと ものもい(言)わねばうご(動)きもせずあつ(暑)いもさむ(寒)いもかん(感)ぜずまるでいし(石)かわらどうぜん(同然) このみたま(霊)があるゆへ(故)にぜんあく(善悪)じやせい(邪正)もわかるのでとうと(尊)きたから(宝)わ(は)みたま(霊)よりほか(他)にわ(は)ない みたま(霊)しだい(次第)であんしん(安心)もでけて九(く)るなりしんぱい(心配)もでけて九(く)るのであるから うしとら(艮)のこんじん(金神)でぐち(出口)のかみ(神)のおし(教)へにみたま(霊)をせんだく(洗濯)せよ せんだく(洗濯)さへでけたならきのふ(昨日)のしんぱい(心配)もけふ(今日)わ(は)うれ(嬉)しきことにかわ(変)るぞとおさとし(諭)になつてある じごうじとく(自業自得)といふことわ(は) われ(吾)がぜん(善)のたね(種)をま(撒)けばぜん(善)のむく(報)いがわれ(吾)にく(来)る あく(悪)のたね(種)をま(撒)けばあく(悪)のむく(報)いが九(く)るということであるが でぐち(出口)のかみ(神)のみ(御)おし(教)へにもおかげ(陰)をとるのわ(は) われ(吾)のこころ(心)でとるのである おかげ(陰)がほ(欲)しくばこころ(心)をみが(磨)けよ かみ(神)わ(は)そのにんのこころ(心)だけのおかげ(陰)よりわた(渡)さぬぞよとのみ(御)をし(教)へをつつ(慎)しみまも(守)りて なんとき(何時)し(死)ぬるわからぬにく(肉)たい(体)のみよく(身欲)をす(捨)てて ひと(人)をたす(助)けてみたま(霊)をあら(洗)いか(変)へて てんち(天地)のかみ(神)さまのおんめ(御目)にと(留)まるおこな(行)いをして まん五(万劫)まつ(末)だい(代)のぜん(善)のたね(種)をま(撒)くのがそのみ(身)のため
三十六年七月廿一日 鬼誌」
0コメント