毒蛇咬傷(どくへびこうしょう)と出口聖師の夢 ―大神様の御恵みと信じたい―藤 井 盛
○毒蛇ヤマカガシ
毒蛇のヤマカガシに咬まれた。毒蛇に咬まれることを「毒蛇咬傷(どくへびこうしょう)」と言う。ヤマカガシの毒はマムシの三倍、ハブの十倍と言われる。六月十三日(金)の夕方六時半すぎ、まさに十三日の金曜日である。
田んぼの水当て口に、ブロックを置こうとして手を掛けた瞬間、激痛が走った。人差し指の先に、釘で刺したような傷ができて血が出ている。
釘でも出ているのかと思い、ブロックを横からのぞくと、灰色がかった毒蛇特有のいやらしい模様が見えた。えっと驚き、すぐ携帯で救急車を呼び、山口市内の総合病院に運ばれた。
その田んぼでは、以前からヤマカガシを目にしており、気をつけてはいた。ヤマカガシは普通おとなしく、マムシのように跳びかかっては来ない。しかし、ブロックの穴でヤマカガシが休んでいるところに、私の指が入って来たので驚いて咬んだのであろう。私にとっても避けようもない出来事であった。
後日、改めてブロックの穴を確かめた。ブロックには横に三つ穴があるが、一つの穴の大きさは、縦四センチ、横八センチ、長さ十六センチと小さい。以前見たヤマカガシは小ぶりで、それが入っていたとすれば、ちょうどいい大きさである。
ヤマカガシは一般的にはあまり知られておらず、私もヤマカガシを知ったのは、米作りを始めた五年前である。しかも、最近まで無毒だと思われていた。しかし、朝日新聞の記事(令5・11・12)には、ヤマカガシの猛毒ぶりが紹介されている。
「過去50年あまりでヤマカガシ咬傷(こうしょう)とされた事例が45件あり、5人が死亡している」
ヤマカガシに咬まれた件数は少ないものの、致死率が十パーセントを超えている。
また、咬傷事例が、過去五十年で四十五件であれば、山口県でも咬まれた症例がないかもしれない。あるいはヤマカガシ自体が知られていなければ、件数としてカウントされて来なかったかもしれない。
私は「ヤマカガシに咬まれた」と、救急車の中や病院において話したが、特段驚いた様子はなかった。そして、傷病名が「蛇咬傷(マムシ咬傷の疑い)とされ、ヤマカガシの咬傷事例にはカウントされなかった。
○大量の点滴
入院は十三日間に及んだ。六月十三日(金)から二十五日(水)まで。入院に際して担当医師から説明があった。
「血清は打たない。一生に一回しか打てないから。点滴で流す」
「蛇毒が腕の筋肉を溶かす(横紋筋融解症)。溶けた物質(ミオグロビン)が、腎臓のフィルター(尿細管)を詰まらせて腎不全を起こす」
とのことで、大量のリンゲル液(細胞外液の電解質組織に近い)の点滴が十三日間、昼夜にわたって続いた。
その量は合計約三十リットルに及んだ。五百ミリリットルのペットボトル六十本に当たる。その他、抗生剤(菌感染防止)や肝機能改善薬などが投与された。
なお、先の朝日新聞の記事(令5・11・12)には、聖路加国際病院(東京都)での、ヤマカガシ毒などに対する抗毒素を治療に用いる「血清療法」が紹介されている。
○まぬがれた腎不全
入院した十三日(金)の夜は、激しい痛みで眠れなかった。天津祝詞と天の数歌を何度も唱え、一人お取次も行った。また、弟に遠隔お取次をお願いした。ただ、痛くて眠れなかった割には、気持ちは落ち着いていた。右腕がぱんぱんに腫れ、加えて、奇妙な模様の内出血が右腕全体に広がって行った。
また、娘に着替えなどとともに御神水をペットボトルに持って来てもらった。出口聖師の親指のあとが三つあるお茶碗にお水を入れ、大神様に供えて祈念してもらったものである。
翌十四日(土)、体調はよく、昼食もおいしく昼寝もできた。その後も夜はよく眠れた。もっとも、大量の点滴による尿意で、二時間ごとに起きたが、すぐ寝ていた。
担当医師が、Pass the peak(峠を越す)はいつかなあと口にしていたが、ようやく入院五日目の十七日(火)、その日が来た。医師の説明。
「筋肉が溶けて出る酵素の数値(CPK)が高くなっていたが、減少し始め、改善に向かっている。これまで、数値を下げるために大量の点滴を行って来たが、ピークは越えたと思う」
さらに、こう感想をつけ加えた。
「しかし、これほどのものだとは思わなかった」
ヤマカガシの毒は強い。マムシのつもりで治療していたことに、医師は疑問を持ったのか。
入院七日目の十九日(木)、医師から数値を示して説明があった。
「酵素の数値(CPK)が入院当初は二桁だったのが、次の日、二○○○に上がった。それが一八○○、一六○○、一二○○、八○○と下がって来た」
そして、入院十日目の二十二日(日)の朝、医師から待ち望んだ話が持たらされた。
「今朝の血液検査で、酵素の数値(CPK)がほぼ正常値に戻った。再び悪化することはない」
恐れた腎不全からまぬがれた。
なお、CPKの正常値は、男性で59~248 U/Lとネット上にあった。
「これにあと自販機でビール買いくれば申し分なき病院の夕餉(ゆうげ)」 (六月二十二日 朝日歌壇投稿)
○人差し指の回復を待つ
一方、咬まれた右手人差し指の状態がひどかった。入院四日目の十六日(月)、皮膚科医の診察を受けた。医師が「なぜ、血が止まらないのか」と言った。これは、ヤマカガシの毒が、血小板に作用し血液凝固を阻害し、傷口からの出血が止まりにくくなるということに一致している。
入院十三日目の二十五日(水)、皮膚科医の診察を受け、退院となった。指先の一部が壊死しているが、三月すれば新しい肉が盛り上がるとのことで、安心した。また、担当医師から、入院十日目の二十二日(日)、注意があった。
「再度、毒蛇に咬まれると、アナフィラキシーショックを起こすので、気をつけること」
○出口聖師の夢
ヤマカガシに咬まれたのが六月十三日(金)。その十九日前の五月二十五日(日)、田植えの初日に、その後、ヤマカガシに咬まれることとなった田んぼで、田植機が横転した。田んぼに入ろうとしたところ、田植機の後輪がブリッジ(高低差のあるあぜ道と田んぼの間に架ける板)に乗っていなかったためである。
幸い、倒れた先が泥田でけがはなかったが、他の要因もあり田植機は廃車となった。
「田植機が田んぼの入口横転すわが米作り命がけなり」 (五月二十七日 朝日歌壇投稿)
「世の中の米騒動に吾が家では田植機横転、毒(どく)蛇(へび)咬(こう)傷(しょう)」 (六月十五日 朝日歌壇投稿)
実は田植機が横転した六日後の三十一日(土)、私は出口聖師の夢を見た。目覚めた直後に、メモでその内容を残している。
「聖師さまから全身に指圧(整体)を受けた夢を見た。聖師さまから霊を注入されているようで、受けている間、とても畏れ多く、誇り高い気持ちでいっぱいであった」
同じくと言っていいのかどうか、出口聖師の夢を、総長であった出口伊佐男氏が見ておられる。『松のひびき』(一一六頁)にある。
「居並ぶ信者、群衆の前に名を呼び出され、ずっと進んで行くと、正装された聖師に招かれて、手ずから宝刀を授けられた」
そして、私は、出口聖師の夢を見てから十三日目の六月十三日(金)、ヤマカガシに咬まれたのである。
担当医は「痛みと腫れがあるのが、マムシに咬まれた特徴」と説明したが、一方で、「これほどになるとは思わなかった」と言い、「なぜ、血が止まらないのか」というヤマカガシの特徴を皮膚科医が言っている。
ヤマカガシの説明がある。
「ヤマカガシは無毒とされていたようですが、一九七二年、中学生がヤマカガシに噛まれて亡くなるという事件が発生して以来、毒蛇として認識されるようになりました」
「しかも!ヤマカガシの毒は猛毒で、マムシやハブに比べてはるかに毒性が高く危険だということがわかったのです」
「しかも噛まれてすぐは、マムシに噛まれたときのような痛みや腫れなど無く、体内に入った毒によって激しい頭痛、歯茎や傷口などからの出血が続き、脳内出血まで引き起こし、死に至らしめる可能性が高いという恐ろしさ」
(【注意】ヤマカガシの毒は日本一こわい猛毒 ライフレンジャー 二○一七・八・一八 コラム)
ヤマカガシは、噛まれてすぐは痛みや腫れがないとあるが、症例の少なさによるのではないか。私は、傷口からの出血があり、二、三日間、目のピントが合わなかった。
さて、退院して八日目の七月三日(木)、ヤマカガシに咬まれた田んぼに行くと、三匹ものヤマカガシがいた。うち一匹は、咬まれた時に見た灰色がかった模様であった。
以前、この田んぼの周辺でカラスや狸が死んでいた。きっと毒の強いヤマカガシに咬まれたのであろう。今回、致死率の高いヤマカガシに咬まれて、腎不全や脳内出血の大事にも至らなかったのは、瑞霊出口聖師と顕現された主の大神の御守護によるものと信じている。
なお、以下を愛善歌壇に投稿した(六月二十四日)。
「田植機の横転さらに毒蛇に咬まれて今年の稲作多難
毒蛇に咬まれる前に夢に見し聖師の指圧を吾が身受けるを
腎不全のがれけるかな九日間リンゲル液の大量投与
咬まれたる右人差し指使えずに書きたる文字を孫が褒めしと」
○無傷とスローモーションの世界
入院中、母方(ははかた)の叔父と電話でよく話をした。その中に興味深いものがあったので、叔父が話すのをメモにした。
「高校二年生の時、山口市の国道九号線を走るトラックにはねられた。自転車は遠くはね飛ばされたが、自分には全く怪我がなかった。
怪我がなかったのは、トラックが当たったのが自転車のハンドル辺りで、私の体には直接当たらなかったことと、自分が柔道をしていたので、無意識に受け身ができたためだと思っている。
それと、飛ばされて地面に落ちて行く時、スローモーションを見るように、路面のコンクリートのすき間や砂の粒がよく見えた。それは今も鮮明に覚えている。
立ち上がって、制服の汚れを払っていると、怪我をしていない私を見て、トラックの運転手がとても喜んでやってきた」
国道を走るトラックにはねられて無傷であった奇跡と、地面に落ちて行くときの様子が、スローモーションの世界であったことに関係がありそうである。
同じような話がある。十七年前の平成二十年、第三回霊界物語フェスティバーロの翌日、高熊山参拝の後、岩川千代子さんから直接聞いた話である。その内容が、『叙勲』(平成二○年一一月一五日)にまとめてある。
「車は…断崖を二十メートル落ちて行った…三十歳位の男性が…ふとく温かい腕で抱きかかえられ…幽体離脱して…純白の雲に包まれ…歓喜の中を…ゆっくり下降して行き、助手席に座った…普通では即死しているはず」
これも、断崖から車が落ちる重大事故だが、無傷である。助手席にゆっくり下降して行き、化粧品の入ったポーチにも何の乱れもなかったと言われた。無傷とスローモーションの世界である。
また、昔から素盞嗚尊への信仰があったと言われた。岩川さんを助けた三十位の男性は出口聖師ではなかったか。また、臨死体験とセットである。
なお、運転をしていた御主人は心肺停止状態であったが、岩川さんが心臓の上、七ミリに手を浮かせ「神様、お助け下さい」と祈り、生き返っておられる。叔父にもきっと、大神様の御守護があったに違いない。
○試練は大神様の御恵み
私が入院した総合病院は、七年前に妻が膵(すい)臓癌で入院し、他界した病院である。妻が入っていた病棟は建て替えられているが、どうしても思い出す。入院五日目の六月十七日(火)、妻の夢を見た。百二十二回目である。いっしょに旅行をしていた。
妻が他界し、妻を詠んだ『歌集 妻千枝』を作成し、この病院にも差し上げた。その歌集が、今もナースステーションに飾ってあると聞いた。嬉しいことである。
「入院の妻の頭を洗いやる『まだ強く』など注文受けつつ」 (『歌集 妻千枝』次も同)
「お取次終えなば目を閉じ息も止み妻は静かに逝(い)きにけるかな」
人の生き死にや大本についても触れたこの歌集を現在、世の中に千三百冊配布している。「また、私をダシにして」と妻に言われそうだが、宣教のお役を果たしている。
また、入院と言えば、十六年前の平成二十一年七月の山口県での大雨災害に関わる仕事で、私はうつ病となり、三月間、入院した。
うつ病が治るのに三年を要したが、この過酷な出来事は、その後の私の人生を変えた。
「復職の朝はスーツで出勤す小雨にけむるけふから弥生」
(『朝日歌壇』平二五・四・一 馬場あき子・佐佐木幸綱共選)
短歌を詠み始めるとともに、『愛善世界』誌への投稿が始まった。最初の投稿「霊界物語と私」(平成二十五年四月号掲載)から十二年になる。
投稿の中に、過酷な試練が実は大神様の御恵みであったという「仇敵は恩人―第八十一巻(天祥地瑞申の巻)に学ぶ―」(令和四年十二月号掲載)がある。
「アヅミ王の娘チンリウ姫が被る過酷な試練…乳母の裏切り…チンリウ姫は、贋(にせ)チンリウ姫となったセンリウのお陰で、自分の操(みさお)を守ることができたことに気づく…チンリウ姫にとってアララギ親子は恩人であった」
「外国(とつくに)の仇(あだ)の王(こきし)の妻となる
センリウ姫は憐れなりけり
(一六章「亀神の救ひ」以下も同)
吾霊魂(みたま)身体(からたま)共に汚(けが)さるゝ
真際を救ひし彼なりにけり
かく思へばアララギとても憎まれじ
吾操(みさを)をば守りたる彼
ありがたし神の恵(めぐみ)の深くして
吾身体(からたま)は汚さずありけり」
避けようがなかった、ヤマカガシに咬まれた今回の試練も、今後、何らかの結果をもたらす大神様の御恵みであったと信じたい。 (令七・七・七記)
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