<天皇家の没落>
本屋へ行くと、天皇論というコーナーが結構ありますねえ。
ある意味で、日本人は天皇に翻弄されてきました。悪しき専制君主制でもありましたね。霊界物語は神々の歴史性を伝えていますね。
聖師は、明治・大正・昭和・平成以降を、金・銀・銅・泥と預言しておられる。
1次事件前、高松宮に出口八重野さんが嫁ぐ話も、山縣有朋が潰した。
終戦の年末、聖師が本当の存在を忘れ、都合の良い神社を偶像化し崇拝させたという吉岡発言の2日後、昭和天皇は現人神であることを否定した人間宣言を行っています。偶然ではありませんね。
足利尊氏は綾部生まれ、南朝天皇を封じ逆賊とされたが、創建した天龍寺は後醍醐天皇を祀る。開祖の母は足利尊氏の系統を引いている(聖師談)。
後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府を倒しますが、天皇親政(建武の中興)がままならず、足利尊氏に追放され、1339年失意の内に崩御し、その怨念と悔根は、後の世に 南北朝の争いを残します。天皇親政の革命は建武の中興と明治維新だけで、明治天皇による南朝正統の勅裁はご自身の崩御前年に出されます。1861年岩倉具視は和宮を将軍家茂へ降嫁させたが、幕府へ売ったと裏目に出て1862年孝明天皇(北朝)から蟄居を命じられ、保身の為、倒幕派に身を置き、孝明天皇の排除を画策した。岩倉には動機があった。 宮中には岩倉の命を受けて忠実に動く女官(岩倉の姪・堀河紀子、中御門良子)がいた。当時の人々が薩長と手を結んだ岩倉による暗殺とみたのは当然である。
孝明天皇と将軍家茂による平和の改革を破り、戊辰戦争を起こしたのは、岩倉/桂/西郷/大久保の仕業である。倒幕派の政治的野心が岩倉を中心にまとまり、頑強な攘夷論者の孝明天皇と会津/弱体化する幕府との間で天皇の奪い合いが生じた。戊辰戦争の錦の御旗はそれを象徴している。
明治維新前の人々は国家観/天皇観より藩の殿様が全てであった。甲州人とか上州人が最近の官吏とか平民のようなもので、障壁がありました。天皇家は当時3万石の小大名にすぎず、暗殺やら偽の世継ぎは、充分考えられる状況にありました。
禁門の変(1864年)から2年の間に、2度の長州征伐失敗後、薩長による倒幕の流れは、家茂/孝明天皇の不可解な死去と共に、海外の新聞で報道される。 孝明天皇は毒または手槍りで刺された説であり、長州ファイブで英国で化学を学んだ伊藤博文が止めを刺した暗殺者として有力である。伊藤博文は上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させる。薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。
二人を始末して、薩摩屋敷に待機していた大室を宮中に入れ、有栖川宮は倒幕を命じる。 南朝にした西郷は目的を達し、江戸開城で勝海舟と妥協する。 睦仁親王は1853年11月3日(翌年ぺリ-が来航)孝明天皇の第2皇子として誕生、母は中山忠能の娘、慶子である。
病弱な幼少で13歳の年、禁門の変で御所は被弾し、卒倒失神される。坂本龍馬の斡旋で有栖川宮(北朝)が教育係となり、元服を迎える。1866年12月孝明天皇が崩御、翌年15歳で122代天皇の座に就く。中山忠能は長州に尽力した為、謹慎中で睦仁親王は複雑な心境であったとされる。徳川安泰の時代ではなく、天皇の役割は国政を左右し、政治の主導権争いになる。宮中は無秩序になり猿が出没して警固が充分ではなかった。1867年7月睦仁親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。
2009年、毎日新聞全国版で公開された、1865年長崎で撮影されたフルベッキーと幕末の志士50名の群像写真、センタ-に大室が座っている。右向きであるのは右の頬に庶民の証拠である疱瘡痕があるという。明治天皇の肖像画(御真影)も右を向いている。左耳の大きさ特徴がドンピシャと鑑定されている。大室は奇兵隊(力士隊)所属で大男であった。睦仁親王が小柄で病弱タイプとは様変わりした。
**明治天皇に写真がない訳**
明治天皇は肖像画ばかりで写真がない、明治44年南朝正統の勅裁、明治神宮の昭憲皇太后の石碑、そして大正天皇に子種がない、そして西園寺公望が昭和天皇に上奏し、昭和10年6月の御前会議、12月8日昭和天皇の命令による大本弾圧で信者30余名の殉教者を出す、秀吉による26聖人殉教のカトリック処刑と並ぶ。天皇としての自信をつけ、翌昭和11年2.26で<朕が先頭に立ち、鎮圧する>と豪語、北一輝は<若殿に兜とられて負けいくさ>の辞世を残す。司馬遼太郎は中国に勝てない戦力で米国に宣戦と批判、東条との親密さは異常だった事は良く知られる。
霊界物語67巻浮島の怪猫で、アケハル(明治)の岩が浮島となり、われよし・つよいものがちの天皇制ファシズムの崩壊を予言している寓話であり、主神信仰への要諦が説かれる。偽天皇とは、大室寅之祐とか昭和天皇が西園寺八郎の子であるなど、戦前不敬罪として日本人にタブー視された盲点です。出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王のご落胤で正当な北朝の天皇でした。
憲法の象徴天皇制は偽天皇であれば、削除し本来の共和制に移行すべきです。
明治42年10月伊藤博文がハルピンで安重根に射殺される。明治天皇は伊藤博文の呪縛から解放されるが、翌43年5月大逆事件が起こる。幸徳秋水が大審院で<三種の神器を奪った北朝の天皇を殺して何ゆえ大罪になるのか!秋水の魂は南朝にある!>という発言が外部に漏れ、驚いた山縣有朋は桂首相を呼びつけ、明治44年3月、明治天皇が南朝正統論の勅裁を出す。現在の文科省の学習指導要領では、南朝正統論は明治政府の間違いで、現天皇家は北朝であると断言している。少なくとも岩倉具視/伊藤博文に暗殺された孝明天皇は北朝であり、明治45年7月、明治天皇は61歳で崩御、皇后一条美子も大正3年4月64歳で逝去、昭憲皇太后と遺号される。一条美子は明治天皇の皇后であるのに、なぜ昭憲皇后でなく明治神宮の祭神として昭憲皇太后になったのか?皇太后とは先帝の皇后を指し、孝明天皇の后になる。大正天皇は明治天皇の皇后であった事を断固拒否したのである。一条美子は明治天皇の后ではない、暗殺された睦仁親王の后であり、明治天皇の先帝の后、つまり皇太后であった。皇太后とされた一条美子の実家の支流に鶴殿親子(ちかこ)がいる。美子はこの姪を特別に可愛がった。後に鶴殿親子は大本に入信する。出口王仁三郎の霊界物語口述の御世話をなさり、物語では紫姫として登場し、吉野の後醍醐天皇(南朝)の祟りを鎮められる役割を果たす。
**命令者は誰か**
大正天皇には子種がなく、昭和天皇は西園寺八郎(1881年~1946年、公望の婿養子)の子であるという。大本弾圧の発端は西園寺公望の秘書原田日記に記され、公望が北朝の王仁三郎を討つ必要があったと。昭和40年綾部駅に着いた昭和天皇が大本はどちらの方向かと、京都の蜷川知事に尋ね、知事が反対の方向を指したという逸話は、大本信者に語り継がれています。大本弾圧は1935年12月8日内務省が不敬罪/治安維持法により大本を叩き潰した。表面的にはワシントン・ロンドン条約/天皇機関説反対により岡田倒閣/元老への揺さぶりを鎮圧したとされる。実態はそうではない。首謀者は西園寺公望/昭和天皇である。昭和天皇の実父は西園寺八郎といわれ、終生八郎は侍従として昭和天皇に寄り添っている。西園寺公望の秘書原田熊雄の日記には、大本が政治家達に盛んに運動している事を逐一公望に報告し、大本(教)というものを取締まれと激を飛ばしている。何故公望はそこまで大本を憎んだのか?出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王のご落胤であるがゆえに、昭和神聖会運動などで表舞台に立てば、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると思ったからである。昭和天皇も同意した。
1935年6月御前会議で大本弾圧が決定された。弾圧のやり方は叩き潰す。日本宗教史上稀にみる醜いやり方である。細部にわたって公望は指示したとされ、1940年死去する。
NHKスペシャル<日本人と天皇>(2013年4月30日放送)で、神武天皇以来125代の天皇の半分は側室の子。この400年、明生/昭和/平成以外は、みな側室の子である。万世一系・一君万民とは名ばかりで、本来の天皇の役割とはほど遠い。
日本人の想念(魂の活動)の思いが清まらず、主神の思い、肝心の所がわからない。信仰的想念とは、人の悲しみ苦しみを受け止め、主神・経典に根ざす事が急務である。
皇統を廃して王仁三郎を天皇にするという自白を強要した大本弾圧で教団は破壊され、御自身も6年8ヶ月独房での拘禁、この時点で天皇制は潰えた。平成天皇の生前退位で御厨貴は<中身はともかく、イベント化して興味を引くことで、天皇制を維持している>と述べている。ポツダム宣言前後の国体維持の暗躍、対ソ戦略での天皇利用したアメリカは、反動国家主義を復活させた。国祖国常立尊の大本神話(主神信仰)と天岩戸開きの天皇制神話(現人神信仰)とは異質のものである。
• 明治天皇も伊藤博文も、大正天皇に子どもができないことを知っていたので、西園寺八郎を貞明皇后に近づけたとされる。西園寺八郎と昭和天皇の眼はネズミのようで酷似している。大正天皇の子4人(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)はいずれも父親は別とされ(異父兄弟)、みんな顔が似ていない。(浩宮と秋篠宮もまったく似ていない異母兄弟、秋篠宮の母は間違いなく、加茂さくらですね。宮内庁病院で死産したとか、美智子妃の家庭教師が情報が漏れている)
鬼塚氏は、秩父宮が2・26事件の策を練り、終戦時の8・15宮城事件は三笠宮が策を練ったのだと断言している。どちらのクーデターもヤラセだった。
貞明皇后(節子*さだこ)はしきりに世継ぎに介入したとされる。秩父宮を溺愛し、裕仁より秩父宮を天皇にしようと暗躍した。貞明皇后は長州が嫌いだったので、薩摩系の良子を昭和天皇の嫁にしようとして「宮中某重大事件」を起こしている。
貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるがウソで、武蔵野のある大農家の娘だったという説と、彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。
• 益田勝実は長州の国家老一族である。だから田布施の住民を虐げた側というか、支配した(あるいは敵対した)側である。その子孫である益田勝実が、「てんのうはん」、つまり、山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、明治天皇となった真相を突いたのだ。
『日本のいちばん醜い日』では、「大室寅之助は田布施の生まれ、……伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎ノ門事件」を起こした難波八助は一族である。また宮本顕治(日本共産党)も一族。そして、木戸幸一も系図に入ってくる。京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。そして、大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家もある。この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。あの終戦内閣の最後内務大臣安倍源基も大室寅之助の生家の近くである。
大室寅之助が南朝の末裔であるという説があるが、確たる証拠は私の調べた限りではなに一つない。むしろ、北朝鮮系の被差別部落民ではないのか、と思っている。」(「日本のいちばん醜い日」より)
明治維新から日本の国家中枢に君臨する一族には、このような真相があるのである。
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• それで勝った側の北条平家は、源氏系統=北朝鮮系を皆殺しにし、生き残った源氏系部族人間は別所などと言われる被差別部落に追い込んだ。おそらく瀬戸内一帯に土着していた源氏系の部族も別所などの被差別部落に押し込めて、まともな活動ができぬように圧迫したと思われる。その一つが山口県の熊毛郡なのであろうし、遠く鹿児島にも同様の田布施として源氏系部落を作ったのではないか。田布施という所は「正直いって、住むのに悪条件だらけの土地であった」と鬼塚氏は書いている。あるいは「やたらと寺の多さに気づく」とも書いている。権力者が寺院を使って被差別部落を抑えつけたのだろうし、本来は白山信仰を持ち仏教には転向しない源氏系(北朝鮮系)を強引に仏教徒にしようとした痕が、田布施の寺の群れなのだろう。
鬼塚氏は、田布施出身の大室寅之祐の家が漁業を営んでいないことを指摘している。ということは大室家が平家ではないことを意味している。平家系の庶民の職業は、漁民か百姓と決まっていたからだ。鬼塚氏は大室寅之祐が北朝鮮系の被差別部落民ではないかと言っている。「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た~安倍晋三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなったときの遺骨を見ても韓国系の体型だったと言っている。
• 鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外相)は国東半島出身。大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。この辺りは、先の家船漁民の活動範囲であって、その交流のなかで婚姻関係が結ばれていたはずなのである。つまり昭和天皇は同じ朝鮮人関係者で、敗戦処理を行なったのであった。
こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、インフラ整備を徹底的に施し、 “内鮮一致”を押し進めたかがわかる。つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。権力者どもにとっては同族だからだ。わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。北による拉致だってわかったものではない。総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやっているのだから、闇は深まるばかりだ。
大正天皇はどうやら大室寅之祐の子らしいが、昭和天皇は大正天皇の子ではないからである。その事情を『日本のいちばん醜い日』で詳述している。西園寺八郎は毛利家から公家の西園寺公望(元老でありフリーメースン)の養子になった人物で、宮中深く浸透した。大正天皇とは学習院で同級生だった。その息子公一(きんかず)は、コミュニストでゾルゲ事件に連座したが、親(八郎)のよしみで釈放されている。
貞明皇后は秩父宮の妃を迎えるにあたっては、わざわざ朝敵とされた会津藩松平家から勢津子を選んで、長州への面当てをやった。(ちなみに勢津子のかかりつけの美容師が吉行あぐりである)この会津から皇室への婚姻で、会津の人は喜んだというが…。
今上天皇が堂々、天皇家の祖先は朝鮮から来たんだと記者会見で言って、驚かされたが、つまり今上天皇は、祖母の貞明皇后が朝鮮系であることを述べていたのだと思われる。
いずれにせよ、かように日本上層部は、民族的怨念と覇権を巡っての暗闘を続けているのであって、現在の自民党や民主党ら政党の争いとか、霞ヶ関の官僚の争いも、そうした背景を知らねば解明はできないものと思われる。
ペリー来航(1853)で、公武合体の犠牲となった和宮(1846-1877)はやむなく降嫁し、婚約者の熾仁親王(1835-1895)と別れ、
落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ
と詠み、涙を流した。実は皇女和宮は明治二年一月二十日頃に岩倉具視らに暗殺され(その後は替え玉)、熾仁親王の東京行拒否、有栖川宮家の侍医であった中村孝道の縁を通しての、伏見での上田よねとの出逢い、出口王仁三郎聖師の誕生につながった。
丹波は京の女官供給源であった。熾仁親王の母・佐伯祐子は京都亀岡佐伯の出身。亀岡穴太出身の出口王仁三郎の母上田よねは和宮にも会っていたという。男の子なら殺されると出生は極秘にされ、よねはご落胤を隠す為、養子を迎える。
伊藤博文(1841~1909)が実権を握るが、松下(しょうか)村塾から歩いて5分の所に伊藤家があったり、大室寅之祐が奇兵隊配下の力士隊に所属したり幸運が重なっている。
1858年 安政の大獄で恩師吉田松陰が斬殺され、伊藤俊輔(17才)が小塚原に遺体を引き取る。遺体を清める異常な体験から、テロリストへ変貌する、1863年に長州ファイブとして英国へ密航留学し化学を学び後、処刑を命じた幕府倒幕(攘夷)そして幕府を支持した孝明天皇の暗殺(1866年)を実行したとされる。上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させ、薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。1867年7月睦人親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。明治天皇の勅裁には伊藤が意のままに作成できた。大正天皇には子種がなく、1899年公爵毛利元徳(もとのり)の八男が、伊藤博文の仲介により、公爵西園寺公望の養子となり西園寺八郎と名乗り、死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた。伊藤博文は権力者として、明治天皇から昭和天皇までデッチ上げたことになる。
1921年、第1次大本事件は宮中某重大事件で、聖師が鶴殿親子より皇室へ、問題なしと伝え、伊藤後の権力者山縣有朋が失脚した恨みから事件を起こした。(霊界物語第52巻、応対盗に詳しい)
1935年、第2次大本事件は全国組織の昭和神聖会発足により、ご落胤である聖師が表舞台に立ち、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると判断した西園寺公望の犯行である。
下生信仰とは、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。
聖師がみろく様として、現世的には北朝の天皇として現れ、第1次大本事件までは順調に活動されましたが、第1次事件で126日、第2次事件では6年8ケ月の拘禁された。その結果、みろくの世は、言わば中途半端な状態で今日に至っています。
みろくの世の反対語は天皇制ファシズムです。弾圧事件をよく説明して下さい。
みろくの世は,復活(REVIVAL or REBIRTH)という言葉が分かり易いでしょう。
弥勒菩薩は天上に生まれ、仏教天界世界観の一つ兜卒天にあって、釈迦の入滅後56億7千万年後、下生して衆生を救う未来仏、弥勒如来と称される。弥勒信仰は上生信仰と下生信仰があり、56億7千万年後、弥勒菩薩が下生して釈迦の救いに漏れた人々を救う信仰。平安時代の末法思想を縮めて、1053年、藤原頼道が宇治の鳳凰堂を建立した阿弥陀如来の信仰と重なり、釈迦が滅するときの印璽を慈尊に授け、弥勒菩薩が成道すべきとの真言を開いた空海を、聖師は高く評価された。
弥勒の化身とされる布袋信仰や、七福神があり、おかげ参り、ええじゃないかの世直しを願うみろく信仰の生きた鼓動が感じられる。
天照大神と対峙する瑞の大神、素戔嗚尊(聖師)は、言魂としての霊界物語12巻で、3女神が登場し、深雪、秋月、橘姫による2度目の天の岩戸開きを行う。
みろく下生された昭和3年3月3日(56歳7ケ月)の前後に、聖師は台湾から樺太まで巡教され、月宮殿を造営し、歌、合気道を実践され、身をもって霊五体五を強調された。
ぬけ参り、阿波踊り、三河万才など、みろくが下生し、みろくの世が来るという民衆のエネルギー(みろくの理想世界、平和への変革思想)です。聖師は、記紀神話と異なる国祖神の隠退再現、艮の金神が三千年押し込められた大本を、国家に公認して貰うのでなく、弥勒の働きをする使命が自分にあるとした。
皇祖神天照大神との万世一系の下に、君主制を巧みに成文化した明治憲法は、岩倉/伊藤/井上により、国民に義務を強制させた。国家神道にては、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神と天照大神の四神となり、体制を確立していく。祭政一致、一君万民の国体とする、
天皇の日本統治の根拠を、前近代的な宗教の次元に求め、現人神を中心とする国教的に創造し、臣民に天皇制ファシズムを制度化した。
ミロクの世と謂えば、天下泰平、至善至美なる世、安心なる世、鼓腹撃壌の世の中のように思って居る人が多いが、併し是が報身のミロクの世の中とならなければいかぬ。それ迄はミロク様は応身となって現われ、総ての世の悪魔と戦わなければならぬ。ミロクには大自在天と云う敵がある。ミロクに百の力があれば、大自在天には九十九の力がある。若し百の力が一つ欠けたならば、大自在天は勝つのであって、是では、どうしてもミロクの世になることは出来ぬのである。大自在天には財力がある。今日は、筆の力、口の力で攻めて来る。或は法律権力で攻めて来る、或は軍隊の力を以て攻めて来ると云うように、どんな権力でも持って居る。即ち九十九の力を持って居るのであるが、ミロクの方はそう云うものは何も持って居らぬ。唯<誠>と云う一つの玉を持って居るのみである。剣とか、弓とか、そういう圧迫するものはなくて、唯<誠>一つで、それにぶつかって行くのであります。そうして応身の働をせねばならず、ミロクの立場と云うものは、実に苦しいのであります。(大正9年 弥勒の世に就いて)
• 2次事件中(1938年)の公判記録に12段返しの宣伝歌が問題となった。あやべにてんしをかくせり、いまのてんしにせものなり。これほど不敬罪に問われる歌はないが、王仁三郎の詭弁答弁で終了している。禁門の変に連座し蟄居となった有栖川宮熾仁親王と、1869年京都深草の船宿で、母よねは王仁三郎を身ごもる。その後よねに16菊の紋の守り刀、短冊などを与える。殺される危険があり、ご落胤を隠すため1年の戸籍操作を行う。1940年公訴院の裁判中、裁判長との問答記録がある。落胤をいつ頃から云うたか?母が死ぬちょっと前に話してくれました。裁判長とのやりとりが続き、不敬罪については5年の刑となる。大本の全盛期、1934年の昭和神聖会には、頭山満、内田良平らが入会しますが、王仁三郎の皇位継承権は暗黙の了解がされていた。勿論大本信者はみんな知っていた。みろく下生の役割と共に、現世的にも正統な北朝の天皇であった事が王仁三郎の強みです。
昭和天皇が最も嫌った人物として、北一輝、三島由紀夫そして出口王仁三郎と考えられる。
松本健一氏の<三島由紀夫の二二六事件>でも言及されてますが、当の<英霊の聲>では、二二六事件に深く関与できなかった男が、大本祭礼で亡くなった青年将校の霊魂を呼び戻すと、<天皇はなぜ人間なりしか?>という呪詛の聲が聴こえる。三島は観念の中で創り上げた<文化概念としての天皇>に対して、俗物的昭和天皇への嫌悪感を抱き、昭和天皇ご自身にも伝わったのではないか?三島が天皇に正直に向き合った作品ではなかったか?
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